エゴは権力者
昨日は、月に一度のランチ会だった。 宇宙友と3人で、好きなように語り合った。 夢中になって話していると、時空が消えてしまうようだ。気がついたら一箇所の中華料理店に3時間半も居座ってしまった。 まだ話し足りないので、場所を変え、珈琲店でさらに1時間半共に過ごした。 いろんな話題になったのだが、こちらには、印象に残ったことを書いておく。 ☆愛はさり気ない 例えば、私たちが神社に御参りに行くとする。神にどんなお願いごとをするだろうか。通常は、悩み事を解決してほしいと祈るだろう。病が治ったり、痛みが消えたり、お金が入ってきたり、ある人物が優しくなったり、新しい仕事が見つかったり、直接的ご利益を与えてくださるのが、神の働きだと思ってしまう。 しかし、悩みの原因を直接的に取り去ってしまうことが、私たちの魂の成長につながらないのであれば、神は手を下さない。あたたかく見守るのみである。 神は、私たちが生きていけるように、既に充分なものを与えてくれている。神の働きは、直接的に現実を変えてしまうことではない。必要なメッセージを情報として本の一節や、ふと耳に入る会話や、何気なく見た動画などを通して伝えてくる。また、その時に必要なご縁ある人物に偶然出会わせてくれる。 サポートは、さり気ない。神が眼の前に降りてきて、金の斧、銀の斧を選ばせるなんて分かりやすい奇跡など起こらない。「ワシは神様じゃ。◯◯せよ!」なんて、声が聞こえるなんてことはない。 魚が欲しいと思う人になら、魚を与えるのではない。魚の釣り方を学ばせるようにする。 病なら、自分の内面と向き合い、生活や考え方を変える切っ掛けを与えるようにする。 本人が自己の内面と向き合い、悩み苦しみの中から、自力で立ち上がるのを、辛抱強く、すぐ傍で見守っている。ガンバレガンバレと、エールを送ってくれている。共に泣き、共に笑って、共に歩んでくれている。 自分で解決し、乗り越えることで、気づきが起こり、魂は成長する。その成長の機会を決して奪うようなことは無い。 本当の愛とは、単に相手の苦痛を取り去ることではない。相手の成長を一番優先するので、間接的で、さり気ないサポートになる。 神は、遠いところに鎮座する、自分とかけ離れた、ひれ伏すような存在などではないことが、薄々理解できてくる。 自分の内側に、光として存在している。 眼の前に現れる問題は、実は私が