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5月, 2024の投稿を表示しています

地球鬼ごっこ

 およそ二週間ぶりに仕事に行った。 最近、目に映る空は各段と透明度を増している。昼休みに職場の外を散歩しながら、太陽の光に彩られる雲の繊細なつくりを眺め、「あ~きれいだな~。」とため息をついた。私たち人間も、空の雲も、宇宙の創造物である。物理的な組成から、つい別ものとして分けて捉えてしまうが、大元はひとつである。そうであるなら、空の雲が美しいように、目に映るすべてにも同じ美が宿っているということだ。ありのままを見るなら、すべては途方もなく美しい。 そんなことを取り留めもなく感じつつ空を眺めていたところ、ふと降りてきたメッセージがあった。空の雲を眺めている時に何らかの情報を受け取ることは多い。 ☆雲から受け取ったメッセージ 言葉にしてしまうと、単純に「地球で鬼ごっこしているようなもの。」という何とも短いメッセージだ。 え?だから何? まあまあ。意外と意味深いので補足しておきたい。 メッセージは多面体で重層的情報エネルギーなので、変換する際は思考で捉えた解釈が入ってしまう。出来るだけ伝わってきたエッセンスを生かしたい。エネルギーを言葉に置き換える翻訳作業であり、私の脳内の語彙力に頼るしかない。0.2秒くらいで受け取った内容を言葉に置き換えると、つい長くなってしまうが、忘れてしまう前に記録しておこう。 鬼ごっこというのは、子どもにとって楽しい遊びである。単純なルールなのに、メチャクチャ面白い。友達が数人集まれば、日が暮れるまで夢中で追いかけっこをしたものだ。 ルールは、一人は鬼役。その他は逃げる役。鬼につかまったら、鬼役を交代し、捕まえた子は逃げる役になる。1時間くらい遊んでいれば、たいてい全員が両方の役を体験することになる。どちらをやっても面白い。鬼を一回やったからといって、仲間から見下げられたり、いじめられたりするわけでもない。遊びのルールだと誰もが同意している。遊んでいる仲間に上下優劣も無い。遊びを成立させるための役割分担であり、誰もが同等である。どちらの役が巡ってきても、楽しいだけだ。この点が遊びの肝であることを見失わないようにしたい。 もし、集まった友達全員が、「私は鬼(悪役)をやりたくない!逃げる役(善い役)をやりたい!」と言い張ったらどうなるだろう?遊びが成立しない。誰もつかまらないのが分かっている鬼ごっこなどつまらない。何のドラマも展開しようがない。ただフ

宇宙会議その後の緩急

 一難去ってまた一難 地球メタバース遊園地で言うなら、一難は大切なイベントだ。 それにしても、息継ぎする暇が無い・・・目まぐるしい。 遊園地(ワンサイクルの人生)の終園時間が迫っていて、欲張ってあれもこれも体験したいと詰め込んでいるだろうか。緩急が分かりやすくて笑ってしまう。あたかも体験こぼしが無いかどうか、何なら空いているアトラクションに片っ端から乗ってやろうと、鼻息荒く園内を走り回っているかのようだ。 本日からの投稿は、親しい友への報告と、後から読み返して自分で検証することが出来るようにするための記録となるだろう。 ☆宇宙会議その後 魂兄Yさんのアドバイスのおかげで、会議後の私の視野はぐんと広がり、「どんとこいや」という大らかな気持ちに変化した。慣れ親しんだ思考(恐怖ベース)に頼るのではなく、本質から自然に湧き出してくるものを信頼できるようになった。その感覚はYさんが教えてくれた、地のエネルギーを感じて、その流れのままに踊るという話が大きなヒントになった。決められた振付(世間の常識に従う)ではなく、自由にのびのびと踊ることをようやく自分に許した。 思考に頼るなら、傷つくことから自身を守るため、分厚い鎧を着用し、外側からの評価を基準にして、怖いことが起きないようにという思考回路であれこれ対策を練ることとなる。 本質は元々、全体の中で調和しているので、ベストなことしか起こらないようになっている。湧き出してくるものを信頼するだけでいい。その瞬間の肉体脳では全体を見ることは出来ないが、後から俯瞰するなら、「ああ、あれでよかったのだなあ~。」と腑に落とすことが叶う。その時の私にはその体験が必要だった。なるようになっている。魂のカリキュラムを楽しんで受け入れていけばいい。 宇宙会議で得たこと(多面体である真理)として、ほんの一側面を表現する不自由な言葉で記録している。読む人によっては、ほとんど何の意味も持たない。選択している人生体験コースも、人生すごろくの駒を置いている位置もそれぞれ違う。だから私はこの記録を自分の楽しみのために書いている。後から俯瞰して我が人生をニンマリ笑って眺めるためである。よく、死に至る直前の患者に看取り士が質問すると、「もっと好きなことをすればよかった。」と後悔を口にする人がほとんどだと、記事を読んだことがある。永遠の存在である魂は後悔するだろうか。

初夏の宇宙会議

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 魂兄Yさんとスカイプによる恒例の宇宙会議を開催した。一年ぶりぐらいだろうか。 本当は先月の私の誕生日に合わせて企画してくれていたのだが、私がコロナに罹ってしまったので、5月21まで延期となってしまった。 Yさんとは似たような人生シナリオの男性バージョンと女性バージョンに分かれて体験をシェアしている。毎回この会議では、各々の気づきの答え合わせをしたり、Yさんに審神者的解釈をもらったり、より理解を深めるための書籍などを紹介してもらっている。Yさんはもしかしたら図書館に住んでいるんじゃないか?と毎回疑いたくなるほど、その日の話題にぴったりの本を魔法のように出してくる。何を話題にするかなど、あらかじめ決めていないので、そのシンクロには毎度驚かされる。 本日は、私たちの他に、ほやぼ~や師匠と星のクジラさんも同席してくれていた。各々好きなアルコールを用意して、自由気ままに会話をした。11時~4時半まで5時間が、まるで1時間くらいの感覚で驚いた。地球時間がぎゅっと凝縮されたかのようで、これが宇宙感覚なのだろうか。ずっと話しているのにまったく疲れない。ありのままのエネルギーでいられることが原因かもしれない。このように、自由気ままにリラックスして、人生の答え合わせをする相手がいることは幸せなことだ。 Yさんとは、人生の転換期の節目に、このように、きちんと時間を取って、人生体験の意味を腑に落とすことが出来るようになっている。頻繁に会うわけでもないし、連絡も気が向いたら取り交わすくらいである。しかし、転機が来た(ステージを一コマ進む)タイミングで宇宙会議の招集がかかるので、あたかも私たちを見守る宇宙存在がマネジメントしてくれているかのようである。そのため、この会合を宇宙会議と勝手に称している。 Yさんの個人情報に当たることは一切省略するが、節目にどんなことが起きていたのかを後で確認できるように、主に私に関わる話題をここに記しておきたい。 議題1「こだわりを捨てる」 私「最近、ビールを飲みすぎている。休みの日は、午前中から飲んで一日1リットルくらい飲んでしまうこともある。4月から仕事に行くようになった意味は、もしかしたら定期的に肝臓を休めるためかもしれない。無意識はうまくできている。 ビールとスナック菓子を食べながら映画を見て、酔っぱらってうたた寝するという一日がとても幸せ。以前は、自然

母の暴言と地球メタバース

☆母と姉(地球メタバースイベント) 以前からその傾向はあったのだが、日頃から忍耐強く母のお世話をしてきた姉の心を母が滅多斬りにし、深い傷を負わせるという事件が勃発した。 父が亡くなる前も後も変わることなく、姉は母のために奔走してきた。フルタイムの仕事で責任者の役割や家事をこなし、我が子の活動のお手伝いもし、母の要望にも応えてきた。姉は慈愛溢れるスーパーウーマンだ。人のためにひたすら尽くすそのエネルギーはどこから湧き出しているのか。おそらく自分一人のために使うささやかな時間は、通勤時の電車の中で好きな本を読んでいる間だけではないか?と思われた。 妹の私は、自分を優先してきたから、父母のことはほとんど姉にお任せだった。エネルギー不足で気力が無いことの方が多く、また、催眠療法を知るまでは、父母を許すことが出来なかった。歩み寄っては喧嘩をし、数年単位で音信不通になるというパターンを繰り返してきた。関わると傷つけられるので、距離を置くことで自身を守った。 トラウマやインナーチャイルドを癒やす手法を学んだのは癌になって仕事を退職した2020年以降のことだ。父母を愛することなど、到底無理だと思って50年生きてきたが、少しずつ歩み寄れるようになり、悪化する前に関係修復を図れるようにもなった。しかし、基本的には実家に振り回されないよう、一線を引いていた。自分の人生の方が大切だからだ。 父に介護が必要になっても、お手伝いに実家に通う気にもならなかった。母の手に負えないなら、施設に入れればよいのだとスッパリ割り切っていた。経済的に援助をしても父のために自分の手を動かすつもりは一切無かった。父の介護を巡るドタバタは、全て母と姉が引き受けていた。姉がいたから、私はそのドラマに巻き込まれずに済んでいた。 私が自分事でいっぱいいっぱいになっている何十年という間、姉は父母を助けてうまくやっていた。なぜ姉は私と違い、父母を大切にできるのだろう?一度、質問してみたことがあった。 「私はすぐ忘れちゃうから。あなたは、いつまでも人にやられたことを覚えているでしょ?」と、姉は笑った。「忘れないと生きてこられなかった。」と。その短い一言に、姉の苦労が垣間見られ、涙が出そうになった。姉の心の広さが羨ましかった。 確かに、私は母にやられたことを忘れることが出来なかった。催眠療法の幼少期退行で、何度も子どもの頃の私

夢に炙り出された分離

~  真の治癒とは、身体症状の治癒や回復ではなく、 世界と分離しているという夢から目を覚ますこと、 純粋な魂を取り戻し、生の全体性を回復することにあるのです~ (清水友邦氏の言葉) 本日は、「世界と分離している夢から目を覚ますこと」をテーマに、私のささやかな体験を紹介したい。 5月13日明け方に二本立ての夢を見た。 太陽フレアの大きな影響が懸念されている期間でもあり、もしかしたら浄化の力が重い分離エネルギーを炙り出してくれたのかもしれない。 自覚して、ただ観察するために記しておこうと思う。 ☆1つ目の夢 前の職場の同僚が出てくる。 過去には、発達障害ではないかと悩んで、一緒に支援施設に相談に行ったり、自作小説を交換したりしたことがある。Aさんとする。 お昼休みの場面だろうか。 外食しようと道を歩いていた。Aさんは用事があり後から合流することになった。 私は道の途中で、何処かの店のカウンターの椅子に座り、道に背を向けてスマホに夢中になっていた。Aさんは、私には気づかず先に歩いて行ってしまった。 その店で飲食するために並んでいたお客様から、勝手に座っては駄目だと注意され、ハッとして席を離れた。 誰か親切な女性に誘導され、Aさんが食事をしている場所へ連れて行かれた。Aさんは、不審そうな表情を浮かべていた。(後から合流するって言ってたのに、一体どこにいたの?)と無言の責めをチクチク感じた。 私はそこで、テイクアウトにしてもらい、職場で食べることにした。このガッツリした弁当をどう食べるか少し悩んだ。 Aさんがすぐ後から来るのだから、道に背を向けてスマホに熱中するのではなく、合流しやすいよう目立つ場所に立つ配慮すれば良かったと、微かに反省の気持ちになりつつ、認めたくない反発心も同時に感じた。 Aさんより優位に立ちたいという気持ち かもしれない。 確かに十数年前の私は尊大だった。Aさんの仕事ぶりに、かなり駄目出しをした。一回、激しく彼女を責めて傷つけてしまったこともあった。心優しい彼女はその時、珍しく腹を立てていた。 Aさんは、基本穏やかで、私には足りない温かい性質を持ち合わせていた。いろいろミスしやすい面もあったけど、人間性は本当に素晴らしかった。魂年齢は私よりベテランだったろう。苦労の多い人生設定のようだったから、彼女はスターシードだろうと思う。 ☆2つ目の夢 私は母に何か言

前世総括と優しさの練習

  ☆コロナその後 初めてコロナ闘病を体験した。 高熱が出たが、熱は薬で下げられたのであまり辛くはなかった。なかなかスッキリ回復しなかったのは、体の重さ、咳、鼻水、味覚異常が二週間ほど続いたからであった。何を食べても、舌に薄いカバーを装着されているようで味がしない。味覚が正常に機能しているということは、生きる上でかなりのウェイトを占める喜びなのだと痛感。何も複雑な味の料理を食べたいという意味ではない。白粥ひとつ取っても、少量の塩とお米の滋味だけでも堪能することが出来る。今までは、独り食事をする際は、スマホで動画を観ながら食べることが多かった(行儀悪いよね~)が今回の闘病中は、かろうじて食べられる粥や果物を、目を閉じて感覚を研ぎ澄ませるようにして味わった。普段からこのようにして一口ひとくち、丁寧に咀嚼する方が健康的であり、禅の所作にも通じるということが分かっていたのだけれど、実践できずにいたから、無意識に行っている生活習慣を見直すに良い機会だった。 病とか、事故怪我など、運が悪いな~と思うような出来事も、やっぱり意味があって、自分の魂の学びのために一番効果的な現実を引き寄せる。私の場合はたまたま病がわが身を振り返るには一番適していた。人によって魂の課題も個性も違うので、万人に「病はいいよ~。」とオススメするつもりはない。わざわざネガティブな現実を引き寄せなくとも、順調に必要な気づきを経て寿命を全うする人もいる。大難を小難に変えた人(これを人は奇跡と呼ぶ)などは、事態を悪化させなくても、気づきに至り課題をクリアできた人なのだろう。 今回の闘病で私が気づけたことは些細なことばかりだ。体力回復のために朝のウォーキングに出た際も、道端の色鮮やかな花々を愛でたり、鳥の声に耳を傾けたり、そよ風の心地良さを肌で感じたり。今まで鈍らせていた五感(第六感も!)を活性化させる練習をさせられていたのではないかと思う。 そう、今の私に必要なキーワードは「練習」 今まで得てきた情報は、確かに知識として脳に記憶されてはいる。しかし大事なことは、それを実践できるのか?ということだ。いくら大勢の前で平和の尊さを訴えても、家庭で家族を大切に思えていないのなら、平和の本質を真に理解していないということになる。もちろん今まで学んできた知識を、必要な場で言葉で伝達していくことも意味があるとは思う。そういう役