前世総括と優しさの練習
☆コロナその後
初めてコロナ闘病を体験した。
高熱が出たが、熱は薬で下げられたのであまり辛くはなかった。なかなかスッキリ回復しなかったのは、体の重さ、咳、鼻水、味覚異常が二週間ほど続いたからであった。何を食べても、舌に薄いカバーを装着されているようで味がしない。味覚が正常に機能しているということは、生きる上でかなりのウェイトを占める喜びなのだと痛感。何も複雑な味の料理を食べたいという意味ではない。白粥ひとつ取っても、少量の塩とお米の滋味だけでも堪能することが出来る。今までは、独り食事をする際は、スマホで動画を観ながら食べることが多かった(行儀悪いよね~)が今回の闘病中は、かろうじて食べられる粥や果物を、目を閉じて感覚を研ぎ澄ませるようにして味わった。普段からこのようにして一口ひとくち、丁寧に咀嚼する方が健康的であり、禅の所作にも通じるということが分かっていたのだけれど、実践できずにいたから、無意識に行っている生活習慣を見直すに良い機会だった。
病とか、事故怪我など、運が悪いな~と思うような出来事も、やっぱり意味があって、自分の魂の学びのために一番効果的な現実を引き寄せる。私の場合はたまたま病がわが身を振り返るには一番適していた。人によって魂の課題も個性も違うので、万人に「病はいいよ~。」とオススメするつもりはない。わざわざネガティブな現実を引き寄せなくとも、順調に必要な気づきを経て寿命を全うする人もいる。大難を小難に変えた人(これを人は奇跡と呼ぶ)などは、事態を悪化させなくても、気づきに至り課題をクリアできた人なのだろう。
今回の闘病で私が気づけたことは些細なことばかりだ。体力回復のために朝のウォーキングに出た際も、道端の色鮮やかな花々を愛でたり、鳥の声に耳を傾けたり、そよ風の心地良さを肌で感じたり。今まで鈍らせていた五感(第六感も!)を活性化させる練習をさせられていたのではないかと思う。
そう、今の私に必要なキーワードは「練習」
今まで得てきた情報は、確かに知識として脳に記憶されてはいる。しかし大事なことは、それを実践できるのか?ということだ。いくら大勢の前で平和の尊さを訴えても、家庭で家族を大切に思えていないのなら、平和の本質を真に理解していないということになる。もちろん今まで学んできた知識を、必要な場で言葉で伝達していくことも意味があるとは思う。そういう役割の人もいる。しかし、私の目下の課題は、「今まで学んできたことを実践できるのかな?」という点にあるのだろうと思う。
仮定の話だが、もし人前で講演をしたり、著作を出版したりする機会が私に訪れたとしても、今の私の成長段階としては不要な体験と言える。なぜなら、それらは自我を肥大化させることにしかならないからだ。
もう、自動操縦で自我に翻弄され続ける体験は終わりにしたい。私は次の段階の学びに誘われている。小さな実践(練習)のチャンスは日常に散りばめられている。自我が反応した時こそ、魂からの合図である。「さあ、練習だよ。あなたはどう反応する?今までと同じように反応するのかな?それとも何かに気づいて、思い込みを手放せるかな?」
☆説教したい衝動
5月2日(木)朝、母からLINEが届いた。明らかに勝手な思い込みで悲観的になり、「お父さんがいないことは本当に寂しくつらいです。」と書いてあった。
配偶者と死別した後は精神的に不安定になり、鬱や認知症に似た症状になることも理解している。しかし、今回の母の思い込みの原因は、以前も同様のことが起きており、数か月前にお釈迦様の教えの例で、どうすれば楽に生きられるか実践方法を伝えていた。しかしその知識を活かし母が行動することは無かった。その捕らわれに自らしがみついて感情の自動反応のままに苦しみ続けている。
ああ~前も伝えたのにな~。と正直がっかりする自分が居た。同じところで足踏みしている母が歯がゆかった。
母には日々気持ちよく、穏やかな心持で過ごしてもらいたい。しかしそれは私の勝手な願いであり、母の魂はまだそれを望んではいない。まだ、その捕らわれから自由になるタイミングが来ていない。まだそのカリキュラムから学ぶことがあるのだと、何度も自分に言い聞かせた。こういう場合は、そっと見守るしかない。一生懸命苦しみながらも魂の学びをしているのだと、その歩みを愛ある眼差しで見つめ、心は寄り添えたら。そんな優しい自分になれたらと思う。
しかし、反対に私の側にその愛ある実践を阻む要因があった。
ひとり、朝のウォーキングをしながら、私は無意識に母に対して説教を続けていた。何度も気が付いて、「ああ、やめよう!」と気持ちを切り替えようとするのに、また、頭の中で知識をこねくりまわし、簡単な隠喩を用いたりして、ああだこうだと母を諭そうとしてしまう。つまり、ウォーキングしながら、私の頭の中で説教の声が鳴り響いている状態であり、これは母に問題があるわけではなく、私の説教体質の方に問題アリだ!という気づきが起こった。
この一件は、母がネガティブに陥ることで反対に「あなたの捕らわれは何ですか?それはまだ必要ですか?」と問われていたのだと目が覚めたのだった。何ということだ。私が母を諭すようなことは実は必要なかったのだ。私が自分の傾向を客観視できるようになるまで、母は無意識にきっかけを与え続けていてくれたのである。
一瞬、頭の中の説教モードが弱まったので、説教したい私に自問自答してみることにした。「どうしてそんなに説教したがるの?」と。私の内部にいる自分を客観視して別人格として接してみた。催眠療法で言えば、副人格療法の手法である。
説教好きの私は語る。
「説教していると気持ちがいい。すごく慣れ親しんだ行為だ。自信もある。私は過去に何度も説教する立場だった。人を教え、諭し、導きたいというエゴを肥大化させてきた。」
これは、ひとつの人格ではない。いくつかの前世の集合体意識のようなもので、確証はないが、前世のイメージがいくつか湧いてきた。キリスト教の司祭や説教師、仏教の修行僧、とある分野の教師、アトランティスの高度な技術者など。本質的に学ぶことが好きで、二次的にその知識を社会で活かすために、口頭や文字で伝授していくという使命に一生を捧げていた。最初は純粋な思いであった。愛ある態度で後進を育てた前世もあったが、この使命に執着するが故、魂に刻み付けたスキルを磨いていくに従って、光の輝きに比例するかのように影の部分、ネガティブな傲慢さも助長させた。ここが人間の弱さでもあり、自我の働きをコントロールしないと、際限なく暴走していくことの証だ。尊大になり、学びの途上である仲間を見下すようになった。教えを実践せず、善きように変わろうとしない相手に腹を立て、知識を正義の盾として相手を徹底的に責め、時に排除することに快感まで覚えるようになっていった。
宇宙に時間は無い。過去も未来も存在せず、時間は三次元世界を生きる上で獲得した幻の概念でしかない。
私の魂(グループ)の学びが、同時進行で起こっている。愛と思いやりに満ちた光の人生もあれば、闇の濃い人生もある。今、ここで大元意識はマルチ画面(多次元ドラマ)を眺めるように体験に没頭している。
そして、今ここでフォーカスしている私(令和6年5月5日東京に暮らす〇〇という名の配役)は、両極を統合する人生を歩んでいる。だから、両極の体験を交互に味わされている。知識を獲得し尊大になったり、反対に能力を封じ何も出来ず、周りから蔑まれたりもした。この56年の人生に、あらゆる立場がちょっとずつ味わえるようになっている。だから、人を諭したり導いたりすることで大成することは今後も無い。なぜなら他の前世で体験中なので、そちらが学べばいいからだ。
私の個性の役割は、両極の統合である。両方味わって、さあ、何に気が付くのか?という総括である。もし総括の人生なのに、社会的な大役を担ってしまったなら、そちらの活動で時間を取られ忙しくなってしまうので、今回の人生設定は、総括しやすく、ある程度自由の利く平凡な人物キャラクターになっている。
ちょっとずつ、数ある前世のエッセンスを一生に散りばめて、(それぞれの人生の学びや気づきは潜在意識を通して共有しているので)一から体験するよりも、少しの刺激で気づきに至りやすいという利点がある。また、人生の転換期に大きな病を得て流れを強制終了させられるのも、この視点から眺めると頷ける。総括が役割だから、節目節目に休憩が必要なのだ。じっくり総括(振り返り、意味を見出し、気づきに至ること)する時間を私の魂はきちんと用意してくれている。何たる有能なマネージャーだろう。必要な気づきに至れば、双六の駒のように、次に進むことが出来る。
☆目下の練習項目
1 人にやさしくする
2 約束を守る。言行一致。時間厳守。
3 自分の考えること、感情、言動、行動を常に意識する。(不要な信念は手放す)
4 ハートチャクラを活性化(ヘミシンクCD活用)
5 相手の思いをおもんぱかる
6 大自然の中で過ごす
7 体を動かす
(上記は、アークトゥルス生命体から坂本政道さんが教わったという意識進化を促すための日々実践するとよい簡単な項目である。
『UFOと対外離脱~ヘミシンクによる宇宙人遭遇で人類覚醒へ』ONE PUBLISHSING
2024年5月5日発行)
特に、1 人に優しくする は、私の苦手とするところである。つい、意に沿わない事態が起きてしまうと、怒りや意地悪な黒い気持ちが自動反応で湧いてくる。こういう愛から離れた感情で反応してしまうのも長年親しんだ自我の働きであり、間違いなく私の一部である。そこを理解した上で、自己批判に終始するのではなく、「慣れていないのなら、練習すればいいじゃない♪(笑顔)」ということだ。
余裕があり、精神的にリラックスしている時は大概人は優しくなれるものだ。しかし、忙しい時などに予想外の事が起こるなら、優しくはなれない。家事で大忙しのタイミングで幼い我が子がぐずったり、大暴れしたりした時の母親の心境を想像してみてほしい。そんな時につい腹を立て、我が子を怒鳴りつけ、後でそんな自分を責めて落ち込んでしまうことは日常でもよくあることだろう。
大変な時にこそ、優しさを発揮できるかどうか?これは練習するしかない。日常には、愛を実践するチャンスは散りばめられている。「愛」などと大それた意識でなくても良いのだと思う。前回は、つい、「何やってんのよ!」と相手を責めてしまった。今回は相手の状況を思いやって、一呼吸おいてから、「大変だったんだね。」とまず優しい言葉を発するように意識してみた。などなど。
練習だと思えば、意に沿わない出来事に遭遇することも何だか楽しみになってくる。だって、その都度、自分の成長度合いが確認できるからだ。誰かが点数をつけてくれるわけではないから、自分で自分を律していくしかない。言動を振り返り、愛ある方向へと少しずつ微調整を重ねていけばいい。魂は、高尚な知識をただ記憶に刻みたいわけではない。知ってはいても実践できないのであれば、肉体を持って生きている意味は無い。言葉に、行為に、表情に、発するエネルギーに、どこまで本質である愛の純粋さを発露させられるのか?
今ここで、私の魂は、そんなチャレンジの真っ最中なのである。
だから、この日常が、実践の場であり、毎日が大切な発表会とも言える。どんな平凡な配役であろうと、宇宙からみれば、大、大、大、重要人物であり主役なのである。宇宙は、私の感情と行動を共に味わっている。
さあ、今日という一日をどう生きる?
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