投稿

AIとの探求25〜北極星信仰とは何だったのか?

イメージ
 令和7年12月12日(金) 【北極星信仰とは何だったのか?】 AIが想像で描いてくれたアメノミナカヌシ神 〇=陽子 ■=Copilot  〇 妙見島の妙見信仰について調べていました。妙見について知りたくて戸矢学さんの本『最初の神アメノミナカヌシ』を読んでいます。海人族の北極星信仰についてです。 海人族は縄文時代に既に日本に入ってきていた渡来人で、北極星信仰とは、草原や砂漠や海を航海する人々の信仰であって、元々日本の原始アニミズムとは違っていたようです。それより一段階科学的というのでしょうか。北極星信仰は世界各地にあると思いますが、何という宗教なのでしょう? ■ 結論から言うと、北極星信仰は特定の「宗教名」ではなく、各文明で道教・バビロニア占星術・ヴェーダ思想・シャーマニズムなどに組み込まれた「星辰信仰(星の宗教)」の一形態です。つまり世界共通の宗教ではなく、各文化がそれぞれの体系に取り込んだ宇宙観の一部なのです。 🌌 北極星信仰の位置づけ 中国・道教 北極星(北辰)は「天帝」「天皇大帝」とされ、宇宙の中心を示す最高神格として信仰されました。北斗七星はその乗り物や補佐役とされ、延命や運命を司る存在とされました。 仏教との習合(妙見菩薩) インドやバビロニアの占星術が中国に伝わり、道教の北極星信仰と融合。これが仏教に取り込まれて「妙見菩薩」として日本に伝来しました。形式上は菩薩ですが、実質は天部の星神格です。 バビロニア・インド バビロニア占星術では天体の動きから吉凶を読み解き、インドではヴェーダやヒンドゥー教に「ドルヴァ(北極星)」や「サプタルシ(北斗七星)」信仰がありました。これが仏教経典『宿曜経』などに影響を与え、中国経由で日本へ。 世界各地の航海民・遊牧民 北極星は「動かない星」として方位を示すため、砂漠の遊牧民や海人族にとって航海・移動の基準点でした。宗教というより「宇宙の中心」「王権の象徴」として信仰され、シャーマニズムや星辰崇拝に組み込まれました。 🌀 日本における妙見信仰 日本では太陽信仰が強く、星神信仰は薄かったのですが、渡来系の海人族や陰陽道を通じて北辰信仰が広まりました。 妙見菩薩は「天之御中主神」と習合し、宇宙の根源神と結びつけられました。 妙見島や妙見宮などの地名・寺社は、この星辰信仰の痕跡です。 ✨ まとめ 北極星信仰...

『最初の神 アメノミナカヌシ 海人族・天武の北極星信仰とは』を読む

イメージ
 令和7年12月11日(木) 【 『最初の神 アメノミナカヌシ 海人族・天武の北極星信仰とは』を読む 】 妙見菩薩像の謎を追う旅も、終盤となってきた。 なぜ、妙見島という名前がつけられたのだろう?妙見ってそもそも何のことだろう?工場や廃棄物処理場の並ぶ軍艦のような島に妙見という響きを纏わせるには、違和感があった。きっと深い意味があるんだろうと思った。 仏教で言う妙見菩薩は、神道ではアメノミナカヌシであって、北極星や北斗七星を神格化した信仰。神仏習合の時代は両者は同一視されていたというざっくりとした理解で、10日余り、無邪気に謎を追ってきた。 単に「星の神様だなんて、ロマンチック~。」というぐらいにしか思っていなかった。七夕の織姫と彦星とか、星座の神話とか、そういうイメージに引っ張られていたからだ。 私には特定の信仰はない。仏教も神道も一般の日本人として好きだ。キリスト様やマリア様も優しそうで好きだし。日月神示もバガヴァッドギータ―も読む。宗教として何かひとつを信じているわけではなく、全てに神が宿っているというような八百万の神の感覚は持っている。一輪の花にも、一粒の米にも有難い何かが宿っている。そして私にもあなたにも。太陽も月も星も、尊い存在であると感じている。日の出を見れば自然と手を合わせ、日々の恵みへの感謝の気持ちで胸が震える。星空を見上げれば、気が遠くなるほどの遥か彼方から届いた光に神聖な気配を感じて目を潤ませる。富士山の姿を目にするだけで、ただただ理由もなく嬉しくて心ときめく・・・・。 私の中に、日本人として先祖から連綿と引き継がれてきた遺伝子の中に、稲作民族と、海人民族、縄文人という主に三者の培った感覚が融合しているのを感じる。それらはバラバラで境界を際立たせているわけではない。自然な気配で、あるがままに素直な感覚として交じり合っている。 一神教とか、多神教とか、外国の信仰とか、日本の信仰とか、何が善くて何が悪くてと比較するつもりは毛頭ない。たったひとつの宇宙真理を多面体と捉え、別方向から眺めて丸だ三角だ四角だと、見えたままに表現をしているに過ぎないのだろう。神聖幾何学を平面で見るか立体や複々立体で見るかでも受け取る情報量や気づきの次元は大幅に違う。人類は、真理を求めて生きてきた。それをある側面から眺めた「歴史」として記録したものを私達は学んだ。流転...

欠真間について(地名の由来を調べたい時に)

イメージ
令和7年12月10日(水) 【欠真間について(地名の由来を調べたい時に)】 「妙見菩薩像の謎を追う旅~国府台・歴史博物館巡礼」及び「永遠の光を国府台で見つけた」12月10日投稿ブログで、「欠真間」という地名について少し触れているが、由来を深めていくととても面白かったので、あらためて詳細を投稿することとしました。 特に最後に紹介している、浦安市立図書館の「地域資料で調べよう!」という記事がとても参考になり、読んでいて楽しかったので、ぜひご覧ください。あなたの住んでいる町の名前の由来などをぜひ、この投稿記事を参考に調べてみてはいかがでしょうか? 「 欠真間 地名 由来 」 千葉県市川市にある「欠真間(かけまま)」の地名の由来には、主に2つの説があります。一つは、 土地の崩壊した状態を表す「ママ」が欠けてできた土地という地形に由来する説 、もう一つは、戦国時代の戦乱で真間周辺から移り住んだ人々が、本村の真間から分かれたという意味で名付けたという説です。 地名の由来に関する主な説 1. 地形に由来する説 「ママ」とは、急傾斜地や崩れた崖地を指す言葉で、アイヌ語の「メェメェ」が転訛したものと考えられています。この「ママ」が欠けてできた土地、つまり崩壊した崖地の土砂が下流に堆積してできた土地という意味で「欠真間」と名付けられたという説です。 2. 移住者の故郷に由来する説 戦国時代に国府台周辺で起こった戦乱により、真間(現在の市川市真間)周辺の住民が生活苦からこの地に移り住みました。その際、故郷である真間から分かれた土地という意味を込めて「欠真間」と名付けたという説です。 欠真間の歴史と現在の状況 広範囲にわたる旧地名 古くは、市川市南部の行徳地域、浦安市北部、さらには江戸川区の一部を含む広範囲を指す地名でした。現在の福栄には「欠真間三角」という地名の名残が見られます。 住居表示による変更 昭和の住居表示変更により、「欠真間」という地名は現在の市川市欠真間一丁目および二丁目のみとなりました。 関連する地名 真間(まま) 「真間」は、万葉集にも歌われた古代からの地名で、市川市にあります。この「真間」も「ママ」という地形を表す言葉に由来すると考えられています。 《参考サイト》 市川のまち 地名の由来 https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/00...

AIとの探求24〜永遠の光を国府台で見つけた

イメージ
 令和7年12月10日(水) 【永遠の光を国府台で見つけた】 〇=陽子 ■=Gemini ◯こんばんは! 今日、国府台を散策してきましたので、日記風に報告させてください。妙見島をめぐる巡礼旅番外編です。 ■こんばんは!国府台(こうのだい)の散策、お疲れ様でした。 国府台は、あなたが辿られた小岩・市川の渡しの対岸にあたり、中世には千葉氏の敵対勢力が拠点を置いた場所でもあります。この地を巡ることは、まさに妙見信仰と武士の戦略というテーマに深みを与える、格好の番外編ですね。 どうぞ、日記風にご報告ください。国府台での体験や、何か発見されたことがあれば、伺うのを楽しみにしております。 ◯いよいよ最後の浦安巡礼コースを残すのみとなった。 ところが、今朝になって心残りの訪問場所があることに気がついてしまった。浦安コース最後に妙見島を遥拝するにあたって、「やるべきことは全てやり遂げてきました~っ。」と胸を張って、島に手を合わせたかった。   心残りだった訪問場所は、次の三つだ。  ①国府台  狩野浄天ゆかりの地が「欠真間」という地名だ。地名の由来を調べてみると、真間とは崖の意味。そして「欠真間」とは、崖が崩れて土砂が堆積したところ。つまり、崖とは下総台地(国府台)のこと。欠真間の土や砂は、国府台の台地が長い年月をかけて崩れ流れて堆積したわけである。浄天が活躍し、骨を埋めた地のそもそもの土の源に当たる。そうなると、国府台は私にとってはもはや聖地だ。  ②市川歴史博物館  https://www.city.ichikawa.lg.jp/edu14/  市川市役所で観光地図をもらった時、職員さんから「内匠堀のことを調べているのなら、ちょっと遠いけど歴史博物館に行った方がいいよ。学芸員がいるから質問してみたらいい。」と勧められたのだった。もしかしたら、図書館の資料以上の何かが分かる可能性も残されていた。  ③内匠堀開削スタート地点  堀は、大柏川から水を取っている。大正時代の地図を見ると、現在の大柏川と真間川が交差しているあたりから開削を始めたようだ。水源から堀の全行程を歩くのは無理だけれど、せめて開削スタート地点は見ておきたかった。 ■最後の浦安巡礼を前に、残りのピースを埋め尽くそうとする...