投稿

2月, 2024の投稿を表示しています

曾祖父を想う

 父の月命日に、浄土真宗の住職から様々なお話をうかがった。その中で、「亡くなった方は、何も食べません。お供えは人間のエゴですよ。」と、キッパリ言われたことで、母は寂しい思いをした。ハッキリ言って、かなりショックを受けたのだろうと思う。 住職が、人間のエゴについて、特に強調していたところが印象に残った。 母は、結局は、「住職に逆らうつもりは無いが、今まで通りに仏様のことをやっていく」と決意した。 母は、自身の実家の禅宗に多大な影響を受けているので、なかなか違いを受け入れるのには抵抗があるのだろう。 私には熱心な信仰心は無いので、各々が信じたいように家族の死を捉えていけばよいと思う。父の本家がたまたま浄土真宗だっただけであり、私の信心は別である。個人的に、お釈迦様が好きだし、キリストやマリア様も同様に魅力的だと思う。 ただし、祖先の家系図づくりをしていると、明治時代の曾祖父がどのような人物であったか。何を学び、何を拠り所にしたから、厳しい開拓を続けることが出来たのか。それを知りたいと思う。曾祖父の叡智は、きっと祖父や父を経由して、私にも受け継がれているはずだからである。 さて、今日は図書館へ、予約していた本を取りに行ってきた。 『屯田兵村の百年 下巻』伊藤廣著 こちらには、北見市相内村の記述がある。曾祖父の入植時(明治30年)の村の様子などを理解したいと思い、取り寄せた。 印象的な記述は、あとがきにあった。 著者は、幼い頃に入植した母に言及し次のように書いている。 「彼女は明治、大正、昭和の三代にわたり典型的な最下層の農婦として終始した。 しかしこのような彼女にも救いがあった。 彼女は九十六年間つねに、 『農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで耐え忍んで待つ』(聖ヤコブの手紙五の七)という強靭な精神を養い、持続した。 これによって彼女は若いときから親鸞の教えに帰依し、 『煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり』(正信念仏偈)との信仰を育ててきたのである。 私はこの母が元気なときに本書を捧げ、喜んでもらいたいと完成を急いだ。」 この短い文章の中に、農夫として一生を終えた曾祖父の強靭な精神を垣間見る思いとなり、ハッとさせられたのだった。 曾祖父が信仰したであろう親鸞の教えに、答えが見つかるような気がした。

真実はどこにある?

  ☆2月22日(木) 父の月命日。 この日、地元のD寺住職が初めて我が家へ来て仏前でお経を上げてくれることとなった。 母は、数日かけて祭壇まわりを精一杯飾り整えた。生花のアレンジ、数々の菓子と果物、生前好物だったもの(コーヒーゼリーや鰻丼!)、手づくりした団子など。仏壇の扉は四十九日間は封じるらしいということで閉じてあった。 我が家は、浄土真宗なのだが、母の実家は禅宗だった。宗派の違いがよくわからず、本やテレビやネット情報、そして幼い頃から記憶にある地方の風習などごちゃまぜにして、母の信念は形成されていた。母にとって亡くなった父は、「消えてしまったわけではなく、何かしら個性を残したままどこかに存在している」として捉えられていたから、すべては父を慰めるために用意されていた。母の中で父は死と同時に、生きているという奇妙な信念バランスの上で成り立っていた。「消えたわけではない」という信念が無ければ、母はこの一か月を過ごしてこられなかっただろう。 住職は私と同じ五十五歳だった。以下は、住職が教えてくれた話である。あくまで宗派の違いによる考え方なので、読み流していただけたらと思う。ただ、人間のエゴについて、ハッとさせられた部分もあったので、自分への戒めのために、記録したいと思った。 住職は、言葉少なく大人しい人柄に見受けられたのだが、母が矢継ぎ早に質問をしたので、だんだん回答に熱が入ってきた。出来るだけ率直に、正しく伝えたいという熱意がひしひしと感じられ、まるで仏教講義の様相を呈した。 母にとっては、心を込めて用意したお供えの数々が「それは人間のエゴでしかない」とバッサリ一刀両断されたかのようでもあるが、今後、母が精神的に自立するためには、一旦ここで誰かが釘をさす必要があったのかもしれない。 グリーフセラピー等の考えからいくと、あまりに率直すぎる住職のお話は、喪失感を抱えた母にとって、時期尚早では?とハラハラするところもあったが、この話題が今まさに必要だったことは、後から判明する。 〇死は穢れではない 仏壇の扉は閉じなくていい。死は穢れではない。死者は汚いだろうか?私たち(住職)は葬儀に参列しても塩を振ったことはない。そもそもお清めに塩を使ったことなどない。穢れは、神道の考えだ。日本の宗教は神仏混合だったので考え方が混ざっている。ちなみに神道では喪に服するのは一年とされてい

死から学ぶ

最愛の人と死別した際に、残された人はどのようなプロセスを辿るのだろう。そして、そこからどのように「生きる」ことができるだろう。今回は、「魂の学び」の観点から、考えてみようと思う。 まずは、身近な例として、私の母の状態を紹介する。 次に、「悲嘆のプロセス」を学ぶ上で代表的な、エリザベス・キューブラー・ロスを紹介する。 そして、メメント・モリについて触れる。 最後に、アメリカで活躍する若きミディアム(霊媒師)タイラー・ヘンリーの著作から、死者の魂がどのような思いを抱いているのか、紹介してみたい。 ☆現在の母の状態 ・夫の死から約一か月経過した時期にあたる。 ・毎日、骨壺の置かれた祭壇前で泣いている。夫を施設に入れたことを激しく後悔。 ・「最期まで面倒を見ると約束したのに、約束を守れなかった。取り返しのつかないことをしてしまった。私は一生、夫に謝り続けることになるだろう。」と罪悪感にがんじがらめになっている。 ・時々発作的に無性に寂しくなる。 ・まわりの家族の些細な言動に腹を立てたり、傷ついたりする。 ・「早く夫のそばに行きたい。その方が楽になる。連れて行ってほしい。」と口走る。日常の些細なトラブル(家族と意見が食い違う場面)が起きるたびに、死を振りかざされると周りの家族も辛い。 ・移行後(肉体⇒魂)の父を心配している。特にお腹が空いていないかどうかを心配し、陰膳に日々力を入れている。 ・3年経過したら、父の魂と会話をしたいと望んでいる。(移行直後の魂は不安定なので、3年経過してからアクセスした方がいいと、過去に誰かに言われたことがあるらしい。霊媒師に夫からのメッセージを受け取ってもらいたいという意味。) ・感覚的に、魂や、移行後の世界があることを理解している。たまに夫の魂からのメッセージのようなものを受け取っている。(うたた寝していると、自分の名を呼ぶ声が聞こえる。また、ろうそくの炎が激しく燃えたり、線香の煙が風も無いのに揺らぐと、魂が喜んでいる合図だと思う。) ・日常の些細な選択のことで、夫の魂に話しかけて相談している。 ・毎日、やることがたくさんあり、忙しく過ごしている。くたくたに疲れるから眠れると言う。 ☆悲嘆のプロセス 「アメリカの精神科医 「 エリザベス・キューブラー・ロス 」(1926~2004)は、 「究極の喪失」を、人間はどのようなプロセスを通して、 受

納骨すったもんだ

イメージ
 父を見送るための儀式は、まだまだ続く。 ☆若い世代のお寺 昨日、母はタクシーで地元の浄土真宗のお寺、D寺を訪問してきた。例の「お坊さん詐欺事件」で助けてくれたD寺奥様にお礼を兼ねたご挨拶をさせていただくためだ。D寺奥様は、電話の声で想像していた感じとはまったく違っていて、母はビックリして後にLINEしてきてくれた。 母「お母さんが想像していた方じゃなくちょっとびっくりしました。つけつめをして、やはりお若い方でした。ぱっと見たとき、外人かと思いました。お電話の通りてきぱきして気持ちいい方でした。行って来て安心しました。」 地元の寺を引き継いだのが、見た目30~40歳代の住職夫婦である。新しい世代のお寺の在り方も、時代に合わせて変化してきている。メチャクチャお洒落で女優さんみたいなお寺のおかみさんが居てもいい。今は、お寺にカフェを併設したり、コンサート、ヨガ教室や手作り市を定期開催したり、お寺をコミュニティの場としてゆるやかな地域のつながりを作っているところも多い。座禅体験や写経なども若者に人気があるようだ。私も、お寺で手づくり市があればぜひ参加してみたい。 母は、6月の納骨までは父の弔いのためにお経をあげてやりたいと、月命日や四十九日の読経を予約してきた。6月までに4回住職が実家に来てくれることになった。 ☆遺骨をどう運ぶのか 我が家の墓は北海道にあるので、納骨は大仕事である。私たち夫婦も、姉の家族もそれぞれ仕事をしているので、二泊三日の休みを合わせるのも一苦労だ。休みが取りやすく、季節も穏やかな6月上旬に総勢7名で納骨の旅を決行することとなった。 旅慣れている姉に飛行機やホテルの手配が任された。姉は、早速、格安航空機をネットで検索した。6月は人気の旅行シーズンに当たり、既にほとんどの便が満席になっていた。それを見た姉は焦ってしまい、「とにかく席を確保しなきゃ!」と、即予約を済ませた。予約した航空券はキャンセルが出来ないらしい。 これがトラブルの原因になるとは、その時は、予想すらできなかった・・・・ そう、私たちは遺骨を運ぶという大切な任務があった。通常の旅とはちょっと違う。運ぶものは、荷物であって荷物ではない。物扱いされるけど、物ではない。そこのところの微妙な配慮について、姉も私もあまりに無知であった。 私は、格安航空機に乗るのは初めてだったので、遺骨の扱いがちょ

道開きエネルギー

 もしかして、ご先祖様の道開きが行われたのではないか?とひしひし感じる出来事が起きていたので、書いておこう。 事の発端は、昨年秋頃。現在働いている図書館のバイトが3月で終了することとなった。組織側の運営方針が変更になり、バイトが一掃されることになったのだ。当時のブログにも少し書いていたが、「私は、ここの仕事から離れることになるだろう・・」という直観は既に来ており、その直後に、バイト一掃宣言がなされたので、これも宇宙の流れなのだろうと感じていた。つまり、私の魂の成長に合わせて、外側の体験場所も変化させる必要があるということだ。「ここでの学びは終了!卒業おめでとう!さあ、次行ってみよう~。」と言うこと。 きっと、私に最適の働く場所がもたらされるのだろうから、大丈夫だ。という根拠の無い自信も感じていたので、あまり慌てずに日々を過ごしていた。思考が優位になると、先が見えなくて不安にかられることも正直あったが、奥深いところでは絶対的安心感があった。「なんとかなるさ~。今までだって全部何とかなってきたでしょ?だから大丈夫なんだって。」という、理屈ではない、不思議な感覚だ。 夫や姉は、そんな私を心配して役所の事務補助員や、派遣会社の登録を勧めてきた。「とりあえず、登録だけしておけ。紹介された仕事が気に入らなければ断ればいいんだから。登録しないことには、仕事も来ないだろう?」と。確かにそうなのだが、私はずっと気が乗らず、バイト探しは放置したままだった。動こうとすると、ものすごく嫌~な気持ちになって感情が荒れてくるので、そこに触れないようにしてきた。とにかく、今は動く時期ではないと、その感覚に素直に従っていたわけだ。 さて、ここからが、道開きのプロセスに入る。後になり、全部つながってくるのだが、渦中にいるときは、バラバラに出来事は起きていて、関連性に気が付けていない。 ☆ステップ1【父への弔慰金】 2月7日(水)午前 夫が所属する労働組合から、弔慰金が出ることになった。その手続きに親子関係を証明する戸籍謄本が必要となった。そこで、夫は区民事務所へ戸籍謄本を取りに行った。戸籍謄本を取るなんて、滅多にないことだから、私も興味津々だった。そしてふと思ったのだ。明日は実家に行く予定があるので、ついでに父の古い戸籍謄本を取ってみようと。何かの手続きに必要なわけではないが、何となく直系血族につい

ドラゴンフルーツは甘くない

イメージ
 2月8日 母、姉、甥と私の四人で、父が最後までお世話になった特別養護老人ホームと病院へお礼行脚の一日。 朝、M駅で、姉の車に拾ってもらい、一路実家を目指す。車内では、甥が爆睡中。何と、夜勤だったため、始発電車で帰宅したばかりらしい。甥は、関東の電力供給を守る仕事をしている。夜を徹して働く人々がいるから、私達は安心して暮らせている。生活の当たり前は、誰かの支えで成り立っていることを忘れてはならないと思う。甥の寝顔は、とても尊い。心の中で甥に手を合わせる。 実家に到着。早く出かけたい母をなだめつつ、父の仏前にご挨拶。もうすぐバレンタインディなので、昨日、両国国技館へ出かけて、お相撲さんにちなんだお菓子を買ってきた。相撲博物館の記念スタンプもつけて。父がお相撲が好きだったようなので。チョコレートよりは喜ぶかな?と思ったのだ。 せっかちな母に促され、サッサと車中に戻らされる。まずは特別養護老人ホームへ。預けてあった父の荷物を受け取る。小さな段ボールに、着替え数枚と、メガネ、補聴器、ひげ剃りなどが入っていて、しんみりする。箱の中に、父が工作した風鈴が入っていて、たどたどしい筆跡で名前が書いてある。姉が「ああ、ちゃんと自分で名前書いたんだ!」と、感動してうるうるしている。まるで小学1年生のような字なのだが、父が一生懸命、漢字を思い出しながら書いたんだろうなあと思うと、目頭が熱くなる。 父が大好きだった青年スタッフのYさんと、お会いすることが叶う。母は、スマホに保存してきた父の動画をYさんに見せている。葬儀社に作ってもらった思い出の写真集で美しい音楽とナレーションで構成され母のお気に入り動画だ。仕事があり忙しいはずなので、私は何度か母を諫めたのだが、Yさんは「全然、忙しくないんで。大丈夫。」と言ってくださり、母に付き合ってくれる。Yさんのような優しい介護士さんに出会えて父は本当に幸せだった。Yさんは父に対して友のように接してくれていた。拳を合わせたり握手したり、父とツーカーな感じが、面会の時も微笑ましく見えたものだ。Yさんに、最後に直接お礼を言うことが出来て良かった。誰よりも父本人がYさんに、ありがとうを伝えたかっただろうから。 次に、敷地内の父が一ヶ月入院していた病院へ。何度か面会で足を運んだから、まだまだ記憶が生々しい。入院費の精算をしてから、ナースステーションに菓子折りを