初夏の宇宙会議
先月から今月にかけて、宇宙エネルギーの作用もあり、大規模な浄化が行われていたようである。潜在意識深層や筋肉に沁み込んでしまったネガティブエネルギーの手放しである。私は、家族のことで、必要な現実化を起こし、闇に入り込む数日を経て、浮上したところだった。この過程を美容院に例えるなら、カット→シャンプー→トリートメントという流れに相当する。まさに、本日はトリートメント日和である。一連の浄化プロセスの総仕上げが行われる。
自然な流れで、初夏の宇宙会議が開催された。参加者は、お馴染みのS市にお住まいのYさん(魂の兄)。
Yさんとは、人生課題が似通っている。今回も同じタイミングで闇に陥っていた。私は、夫や魂友たちの力を借りて、重い周波数を手放した。この一連の格闘は、ブログに記録してきた。
Yさんは、医学知識豊富で心理療法のプロでもあるので、自己コントロールの上、見事に乗り越えたようである。心身に痛みを伴う強烈な浄化月間であった。互いに、同じタイミングで宇宙トリートメントまで辿り着いたことを、帰還した傷身戦士仲間のごとく、讃え合いつつ、スカイプ会議を始めたのであった。
Yさんは、仏教やインド哲学の知識も豊富なので、今までの会議でも、宇宙真理を表現するために、禅やサンスクリットの用語などが会議で使われることもあった。言葉の定義について、互いに共通認識を持っていないと、話が噛み合わないことが起きてしまう。言葉の意味に縛られて、自由な発想の流れを制限してしまうこともあるので、言葉に頼り過ぎてはならないとYさんも警告を発してくださっていたのだが、この物質次元でコミュニケーションを取るには、不自由ながらも言葉を利用するしかない。Yさんは、毎度のことながら、図や写真を駆使して、私が理解しやすいよう配慮してくださった。互いに共通認識が持ちやすい表現を探り合いつつ、会議が進行していった。
この数日、自然な流れで『バガヴァッド・ギーター』を学ぶ流れに誘われていた。今回の会議でサンスクリット用語が出てくるかな?という予感もあったため、易しい解説書や動画で予習しておいた。バタバタと付け焼刃的に学習したのが、前回二回のブログに投稿した内容である。
本来は、難しい専門用語など必要ないのだということが、この会議の最後には理解する。潜在意識は言葉を介さない世界なので、言葉にならない世界観をしっかり受け取っている。その奇跡的ゴールは、この投稿の後半に発表したい。お楽しみに。
このYさんとのやり取りは、まさに、拈華微笑* だった。
*拈華微笑
(言葉を使わず、心から心へ伝えること。また、伝えることができること。
釈迦が弟子に説法しているとき、一本の花をひねって見せたが、弟子たちはその意味を理解できず沈黙していた。ただ一人、迦葉だけが悟ってにっこりと笑った。釈迦は、迦葉が言葉で表せない仏教の奥義を理解できる者として、彼に仏法の奥義を授けた故事から。)
この言葉で表せない世界を、こちらのブログに投稿しようとしているのだから、無謀すぎるのは分かっている。以下は、独りよがりな表現が連なるかと思うが、未来の自分への種まきだと思って、敢えて記録に残しておく。
☆議題1「観照者の存在」
私の知人の話。幼少期から、自分を見張っているようなもう一人の自分の意識に気が付いていた。例えば、幼稚園で遊んでいて、いじめを受けて泣いていたとする。心の中は悲しい感情でいっぱいであるにもかかわらず、その感情にいまいちのめりこめない。悲しいはずなのに、一種冷めたような心境で、その感情担当の自分を観察するもうひとつの意識がある。その客観視する意識は、冷静さを同時に味わっていた。
私はこのもうひとつの意識を「観照者」ではないかと考えている。
Yさんの知人も同じような経験があった。やはり幼少期に、「私って誰?」という問いかけを心の中で行っていた。「誰?」を繰り返していたところ、現実世界から離れている意識を発見した。「この世界は舞台で、私たちは配役(役割)を演じているにすぎない。」ということを、3歳くらいで悟ってしまったそうだ。すべては、リーラ(神の遊び)であることを、幼い少女が、無意識に行ったセルフヒプノセラピーの手法で宇宙真理に到達してしまった。
三歳くらいまでは、潜在意識で生きているので、存在そのものを受け入れている。一番純粋で霊性が高い状態である。その後、生きて行くために自我が発達し、純粋さを忘れてしまう。
私「なぜ、人は純粋なまま生きられないのでしょう?なぜ自我(エゴ)を発動し、潜在意識に蓋をしてしまうのでしょう。そうでないと生き辛いからなんでしょうけれど。」
Y「不自由さを楽しむためだろうね。」
純粋な意識にあるのは、気づきだけ。思考は、あなたと私、テーブル、ペン、など目に見える対象にラベリングをし、分離が生まれて行く。単に気づきの意識状態で視れば、あらゆる物事は現れにすぎない。思考の無い純粋な気づきの意識でいれば、現れたものごとは、ただ流れて行く(諸行無常)。そこには、平安しかない。思考も現れにすぎない。
☆議題2「怒り」
この一か月の互いの体験をシェア。私は、家族のことで、不快な現実化を起こし、怒りの感情を爆発させていたことを打ち明けた。
この怒りの感情は、都度発散してエネルギー解放しておかないと、身体に悪影響を及ぼす。自律神経に作用し、痛みを引き起こしたりもする。
私たちは、怒りは避けるべきもの教えられてきた。その他のネガティブ感情も、親や教師の都合のよい子に矯正されるため、我慢することが当たり前だった。私たち世代は、自分の素直な感情を感じることができない人も多い。昭和の子育ては、それが当たり前だった。親も子である私たちも、アダルトチルドレンを内面に抱え、生き辛さの原因を理解しないまま生きて来た。そんな時代だった。
時代の転換期に当たり、私たち世代が、祖先から引き継いだ負の連鎖(生き辛さの原因を潜在意識に閉じ込めてしまう教育など)を断ち切り、浄化するお役目があるのかもしれない。私たちが浄化されれば、子どもたちの未来は明るく軽くなるだろう。
脳内では、爬虫類脳が怒りを感じる部位だそうだ。怒り全開になると、私たちはその感情に捉われてしまう。普段、大人しい人が、怒りにかられて人を殺してしまったり、自分より弱い立場の人に異常なまでにブチ切れたりしてしまうのは、元々脳に備わっているシステムが原因だ。怒りすべてが悪いわけではない。正しい怒りは表現してもよい。仏陀は、「第一の矢は放ってもよい。第二の矢は放つな!」と戒めているそうだ。何か不快な現実が起きて、最初に湧き上がる怒りは、自分の生命や心を守るための反応なので、感じてよい。ただ、その感情に飲み込まれ、相手をののしったり、暴力をふるったりするのは、第二の矢にあたるので、そこを戒めたのだ。
怒りの感情を「なぜ、私は怒っているのか?」と探っていくと、悲しみに突き当たる。多くの怒りは、実は悲しみが発端となっている。もし、目の前に、メチャクチャ怒っている人物がいるとする。「この人は、怒っているけれど、きっと何か悲しい過去があったのかもしれない。」そう思って相手を眺めると、何となく対立ではなく、穏やかに受け止められそうである。また、目の前に起きている現実は、実は自分の内面を鏡に映しているとも言う。自分の中にある未完了の感情に気が付いて、感じ切って浄化するチャンス到来とも言える。怒っている人の出現は、ギフトと捉えることも可能だ。
☆議題3「人を変えることはできない」
私の母との関係をシェア。母が、父の施設入りについて、罪悪感を引きずり続けており、大層落ち込んでいる。楽に考えられるよう、毎日短めのアドバイスをラインで送ってきた。少し浮上したかなと思うと、翌日にはまた落ち込んでいる。なかなか変わらない母を歯がゆい気持ちで眺めている。ちょっとイラっとしてしまう優しくない私なのだ。
前提として、そもそも人を変えることは出来ない。変えられるのは、その人自身でしかいない。では、何もせずに放っておけばいいのか?というと、それでも少し出来ることはある。
自然農法『わら一本の革命』福岡正信さんの話。福岡さんは、泥団子にいくつもの違う種類の種を混ぜて、畑に放り投げる。このようにすると、その土地に合った作物が出来るのだそうだ。どの種が発芽するのかは、人間がエゴで考えることではなく、種にお任せする。無理矢理自分が欲しいものを育てるのではなく、自然に委ねる農法である。
人に話す時も同じ。例えば、自分の経験から、楽になった考え方や本の紹介ならできる。なるべく押し付けにならないよう、アナロジーを使ってそっと伝えることも出来る。「あなたのここが問題なのでは?」と直接言われると、人は抵抗するものだ。種まきと同じ。どの種が発芽するかは分からない。その人に合うものがあるかもしれないし、無いかもしれない。
*「すぐに育つものはない
人を育てなさい ということは
一晩で別人のように変えなさい
ということではありません
思いやりと一貫性のある正しい態度を
沐浴のようにじっくり浴びせ
沁みついていたものが
自然と流れ落ちて行くのを待ちましょう
そして本人も気づかないうちに、悪いものから遠ざかり
良いものへと移っていく、その様子を近くで見守り続ける
できることは、ただそれだけです」
*吉田松陰の言葉
☆議題4「エネルギーの豊かな循環」
アダルトチルドレンを抱えた人はエゴが強い。条件づけられたものでしか自分を認められないので、鎧を身に纏って生きている。普段、感情を押し殺して生きているため、大人しい性格に見える人も、何かの切っ掛けで、ブチ切れてしまうことが多い。それだけ、内面に多くの感情が破裂寸前になるまでため込まれている。怒りを溜め続けた人は、糖尿病を患っている傾向がある。(脳内で発せられたアドレナリンは、使わないと、インシュリン分泌に作用し、その状態が続くと枯渇してしまうという医学的根拠がある。運動するなど、怒りの発散は大事!)
私のエピソードのシェア。母に関わるとエネルギーが枯渇してしまう。どうやら原因は、私の中の「いい人にならなくては」という思い込みにあるようだ。父母にとってのいい子になろうとしてしまう。原因は過去に満たされなかったアダルトチルドレンの存在である。いい子になろうとする信念を手放せば、エネルギーを無意識に相手に差し出してしまう現象は無くなるだろう。昭和的価値観は、子どもが自分の意思を表現しないことにある。目上の者の言う事に素直に従っていればいいというのは、儒教的影響もあろう。しかし、それは古い価値観だろう。儒教は支配者に都合の良いようにコントロールするためのものという見方もできる。
同じ世代の方々に質問すると、「自分のことが大嫌い!」と答える人のあまりの多さにびっくりする。そういう私も、3年前までは、自分のことが好きではなかった。失敗ばかりして、うまく生きられない自分を𠮟りつけてきた。一番怖い敵は何と自分だった。精神世界のことや、催眠療法など心理療法を学んで、自分をまず愛することが、世界を調和させるための一番の近道であることが理解できた。平和な世界を目指し働いていても、自分を愛せなくては、愛に満ちた世界は永遠に創れない。なぜなら、世界は内面の鏡だから。自分を否定して嫌っていたら、否定したくなるような、大嫌いな現実ばかりが目の前に展開されてくる。これはエネルギーの法則だ。
私が自由に楽しく生きて、心地良いエネルギーを発していたら、心地よいエネルギーのリターンがある。それは豊かさの循環を生む。私が好きなことをしていると、そのエネルギーを感知して人が集まってくる。楽しんで生きる人の輪が広がっていく。やがて、世界が愛にあふれ、平和なエネルギーに満たされていく。
好きなことをするということは、利己的に我儘に生きるということではない。(人を傷つけたり物を壊すのが好きだから、好きなようにやってもいいの?というレベルの話ではないことはお分かりいただけるかと思う)
☆議題5「本当の愛を学ぶこと」
私もYさんも、家族の課題を抱え、時にネガティブな感情に翻弄され、エネルギーを枯渇させるという現実化を定期的に繰り返している。一発でスッキリ解消し、その不快な現実化を目の前に起こさないようにしないのはなぜなのだろう?
Yさんは、不快ではあるけれど、その現実には利得もあるのだと正直に語られた。
結局は、必要なことしか起こらないのだ。自分が望むように、今、まさにベストな事が起きている。エゴ意識は嫌がっていても、本心は正反対のことを思っていたりする。
家族とのコミュニケーションを通して、私たちは、不快な感情を浮上させ、その感情を押し殺して仮面を被って生きて来た。他者の目を意識して恐る恐る生きて来た私たちは、人の感情には敏感である。そして、自分の感情を感じてはいけないと、封印した。それがアダルトチルドレンという存在を創り出し、そのおかげで苦しい現実を渡り歩いてきたとも言える。特に、周りの不調和を取り持とうと、道化役を演じ自己犠牲してしまう傾向は今でも残っている。
昭和40年代生まれのスターシードは、ブルーレイとも呼ばれる。ただ地球に存在するだけで周りを癒やす役割を担っている。その後のインディゴチルドレン、レインボーチルドレンたちが活躍しやすいよう、露払い役である。まさに、Yさんや私はブルーレイ的性質を持っている。無意識に周りの不調和のエネルギーを中和するために、癒し作業をしてしまうため、エネルギーが枯渇して寝込んだりする。それが今も続いている。
なぜ、家族との課題を一気にクリアにできないのだろう?
Yさん「本当の愛とは何かを お互いに知るためではないか。」
確かに、そうかもしれない。家族の課題があったから、私は心の病となり、催眠療法や哲学、精神世界に興味も持った。Yさんをはじめとする、魂の縁の深い方々とも出会えた。人との関わりで、穏やかな愛を感じられるようになったのも、ここ最近のことだ。
エゴ意識は苦しいかもしれないが、魂は「おかげで学びは順調です!」とほほ笑んでいるのかもしれない。
☆議題6「フラワーオブライフ・ヴェシカパイシスを見ながら」
宇宙はひとつの点から始まった。宇宙は自分を知りたいと思った。点のままでは何も分からない。自分のまわりに円の空間を創り、円の中を動いてみた。でも何も分からない。そこで、もう一つ、同じ円に囲まれた点を作ってみた。(細胞分裂と同じ)自分を知るために、対象物を創ったわけだ。もうひとつの自分なので、自分でもあり、分離した自分でもある。分離した点がアートマン(小宇宙・我)とも解釈できるか。アートマンは、五感などの感覚を利用して、現象を創り「自分とは」という気づきをせっせと集めている。
ホログラム理論やヌーソロジーの円心についても触れた。
☆議題7「神は完全なのに なぜ 戦争があるのか?」
大切なこと
①気付きを認識する ②現れていることすべてをあるがままにしておく ③現れていることは別々に存在していないことに気づく
この世界はブラフマン(大宇宙・源)が創り出し演出している。アートマン(小宇宙)は、舞台上の役者。舞台で上演されている台本は「一切皆苦」がテーマ。苦しいドラマなのだから、抵抗しても意味が無い。この舞台上のアートマンたちのパフォーマンスが時に戦争だったりする。ブラフマンは自分を知るために、いろいろなドラマを創り出し、アートマン(役者)を通して、気付きを得る。ブラフマンとアートマンはそもそも一体である。(梵我一如)
私は、この現実創造のドラマを色として感じることも出来るのではないかと思った。
ブラフマンは白(純粋)で表現できる。アートマンは、フラワーオブライフのように同じところから同じように生み出されたものである。だから、他のアートマンとつながってはいるが、同じ色にならなくていい。ブラフマンは、色んな色を知りたい。グラデーションが増えるほど嬉しい。あるアートマンが、赤という色の気づきを得た。別のアートマンは青。一色でなくてもいい。混ぜ合わせたっていい。色んな色が増えることはすなわち、「自分をどんどん知っていく。気付きが増えていく」ことにつながる。
そのアートマンは、戦争という舞台で演じ、自我で苦しみ抜いたかもしれない。傷つき殺されたかもしれない。でも、それはドラマであり、幕が下りれば、役者はピンピンしている。傷つけられることも、本当に死ぬことも、消えることもない。アートマンは、自分が安全安心な舞台の役者であることを知っている。そして、自分の役割が、ブラフマンへの水先案内人や出張所の役割であることも。この仕組みの目的は「気づき」にある。
ドラマを演じることで様々な気づきを得る。私はそれを色に例えて理解した。だから、喜劇であっても悲劇であっても、色は色。新たな色をGETして、グラデーションが連なって、その虹のような配色に、ブラフマンは感嘆する。「なんて美しいんだ!」
どんな現実も、ポジティブであってもネガティブであっても、幸せであっても、不幸であっても、満足しても、後悔しても・・・・すべて美しい色になる。
これは苦しい現実だから、離れなければならないと、あがいているのは、自我意識である。ブラフマンは、いろんなことをやりたがっている。新たな色を見つけたい。演目の筋書きは、どうあがいても変えられない。ブラフマン=究極の本当の自分 の望みは、与えられた配役そのままでお願いね!ということである。無限バージョンの神の物語を演じる役者が私という意識の正体である。それは、この宇宙の働きの中で、実は一番美味しい役割である。
ひとつの舞台を想像していただきたい。ブラフマンは、観客席の背後から眺める舞台監督兼演出兼作家(時々照明係)である。舞台上でスポットライトを浴びて熱演しているのがアートマンで、そのうち、さらに配役になりきって本気で感情を表現している憑依型俳優が自我である。自我は舞台監督の存在すら忘れてのめり込んでいる。さて、あなたなら、どのポジションがお好みだろう?一番楽しいのは自我ポジションかもしれない。まるでガラスの仮面の北島マヤ。アートマン型俳優は、客観視しながら演技できるのでさしずめ姫川亜弓だろうか。では、ブラフマンは月影先生か?私たちは、一番美味しい体験をしている意識であることが少し伝わっただろうか。そう。主役なのである。マヤも亜弓も月影先生も、分離しているわけではない。どの意識にフォーカスするかだけの違いで、すべて同じひとつである。
自我意識優位で生きている私たちが出来る事は、内面の静かさは求めてもいい。それは、アートマンである自分にフォーカスすることでもある。目の前の現象を抵抗せず、あるがままに受け入れることが解決策である。姫川亜弓のように、与えられた紅天女役を見事に演じればよい。北島マヤは時々破天荒な演技をしてブラフマン月影先生を「おそろしい子・・」と驚かせるのだが。亜弓型でもマヤ型でも、あなたの今世の課題次第で演じればいい。
●『ガラスの仮面』月影先生の名台詞がこちら
現象はすべて必要があって目の前に現れている。真理を知ったら、現実は面白くて仕方がなくなるかもしれない。
☆議題8「葛藤は深みとなる」
つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
Yさんが好きな心境は、この文章に表現されているそうだ。日本語は本当に味わい深い。あらゆる違いを受け入れて調和する不思議な力がある。闇鍋してみたら、メチャクチャ美味しい味になっていた。または、滋味あふれる薬膳スープ。様々なスパイスを配合した極上カレーとも言えるだろうか。いろいろ入っているけどしみじみ美味しい。深みのある味わい。
Yさんは、単色はあまり好きではないそうだ。紅葉しかけた葉っぱの配色とか、ステンドグラスとか、様々な色彩のグラデーションが大好きなのだとか。
Yさんの人生を色彩に置き換えてみよう。葛藤の多い人生だったから、地球上で現れる七色の虹どころではない。肉体の制限から離れ感知する色の世界では、色彩の豊かさは何倍にも増すとか。
ブラフマンがYさんの人生体験と気付きを色彩として鑑賞するなら、何百色の色彩のグラデーションとなった見事な虹を発見し、「こいつ、やべ~・・・」と驚嘆することだろう。
出来事にプラスとマイナスがあって、作用し合って、ゼロになる。(陰陽の法則)
「あなたの人生、それでいいのですよ。」
とブラフマンから言われたような気がした。
☆議題9「素潜り選手は、より深みを目指す」
なぜ、人は、苦しい現実を繰り返し体験するのか。なぜ簡単に目覚めることが出来ないのだろうか。
そのヒントは、先日学んだフューチャーマッピングにあった。
曲線グラフの左下が0歳、右上が現在。潜在意識が描いた曲線は、人生の山あり谷ありを表している。ポジティブやネガティブに感情を揺り動かされながらも、グラフは数値を上げていく。筋肉の超回復のようだ。筋肉は壊れては回復するのだが、前よりも強くなっている。フューチャーマッピングは、人生が超回復を繰り返して魂を成長させていることを表していることに気がつくだろう。
例えば、素潜り選手なら、海に潜るにしても、前より深い深度まで潜りたいと願い、繰り返しトライするだろう。繰り返すことで、肺活量も上がり、テクニックも上級になっていく。
海女さんなら、同じ漁場の海に潜るにしても、より深いところに到達すれば、栄養満点プリプリ身の詰まった美味しい牡蠣が捕れると知っている。時々は、同僚より深みを目指し、立派な牡蠣をGETしてくるだろう。
何度も何度も、繰り返すことで強く、上達し、深く潜るほど(ネガティブの極み、または濃い闇)得られる宝物の輝きは増していく。
人生において、同じ問題を繰り返しているように見える人も、繰り返して学ぶという挑戦をしているアートマンなのかもしれないのだ。
例えば、私のように、親とうまくいかないという悩みを繰り返していたとして、いつまで同じこと繰り返すんだろう?と我ながら落ち込みそうになるのだが、冷静に考えてみると、確かに前より心の筋肉が少しついているように思う。毎回、自分という名の深海へ潜り、珍しい深海魚を発見して「私の海(本質)は、こういうところだったんだ。」という気づきが起こる。私にとっては、毎回が世紀の新発見なのである。気付きの観点では、私史上最高であり、ギネス更新なのである。
同じことのようで、同じではない。より深みを見届けて、何らかの収獲をGETしてくる。目的が「自分を知る事」であり、いろいろ気づきを得るために、人生を味わっているのだから、何を体験しても、どんな感情を味わっても、すべてがOKであり、私の深みをひたすら目指せばいい。
☆議題10「究極の宇宙真理を語るイラスト発見!」
海の生物 ホヤ を食べたことはあるだろうか?
見た目がグロテスクだし、怖いので食べず嫌いである。
しかし、ホヤ は、五味が含まれ、たいそう美味しいのだそう。
酒飲みのつまみに最高なのだとか。
ホヤ には突起があり、+と-のマークが刻印されている!
「海鞘には2つの突起があり、プラスは海の水を取り込む吸水孔。
マイナスは、体内の老廃物を出す排水孔。
それが、外から見るとプラスとマイナスのように見えるというわけ。」
五味を含む深い味わい。そして身に刻んだプラスとマイナス。エネルギー循環。
勘の良いあなたなら、気が付いただろう。
そう、上述にずらずら書き連ねて来た宇宙真理をその小さな体ひとつで表現してくれている。
つまりインド哲学の聖典『バガヴァッド・ギーター』が人生の仕組みについて説いている内容をありのままの姿で私たちに教えてくれている。
生きる『バガヴァッド・ギーター』!
何と、神(ブラフマン)は、自然の中に、フラクタルを仕込んで、ちゃんとヒントを見せてくれている。自然は偉大な教師である。
拈華微笑
この ホヤぼーやくんのイラストを見て、あなたがにっこり微笑むなら
本日の宇宙会議の伝えたかったことが、一瞬で伝わったことになる。
背景の虹まで、完璧である。
ホヤぼーやよ
「なんておそろしい子・・・」(笑)
☆オラクルカードリーディング
恒例のオラクルカードリーディング。会議の休憩時間に、あらかじめ引いておいたもの。今回取り上げられたテーマがしっかりカードメッセージに現れていた。
神の物語において、自作自演ドラマを演じる役者ではあるが、感情を伴い、行動を起こすことで、気づきを繰り返してきた。集めた色のグラデーションは、こんなに美しい虹となって、大宇宙を彩るのだ。
今、目の前の出来事と、感じている感情、感覚を宇宙からのギフトだと思えるなら、希望は既に叶えられていると覚るだろう。ああ、そうか。これでよかったのだと。
私にしかできないことがある。
全て答えは目に前に現れている。
それを楽しんでください。
☆最後に
約八時間に及ぶスカイプ会議であったが、あっという間だった。
中盤あたりから、言葉が出て来なくなり、急性失語症にでもなったかと焦った。
「あれ、あれ、なんだっけ?」とさっきまで使っていた単語が頭から消えてしまう現象が起きた。思考をお休みするモードになっているので、時間感覚や言葉が消えたのだ。
おそらく、潜在意識優位になると、意識の海で相手とつながるため、エネルギーで理解し合うのだと思う。かっこよく言えばテレパシーか。
今回は、宇宙の理をテーマに語り合ったので、耳慣れないサンスクリット用語を使わせていただいた。言葉は不自由であるが、ブログに仕立て上げる必要があり、割り切ることとした。
「あ~、これ、言葉にならない。う~ん。」「大丈夫、何言いたいか分かるよ。」
という掛け合いが、頻繁にYさんとの間に起こっていた。
きっとこの感覚が、拈華微笑なんだろうか。
このように、言葉には表せない領域について、言葉を超えて共感し合えたことは、貴重な体験となった。
実は、『ヴァガバッド・ギーター』ピノキオバージョンのストーリーで、Yさんと大いに盛り上がったのだった。
ピノキオの物語は、覚醒の物語として解釈可能である。
ピノキオ(エゴ)
ゼペットじいさん(ブラフマン)
人間の子どもになったピノキオ(アートマン)
この物語は、本当に上手くできている。
私は、半年前、入院直前にYさんの誘導瞑想を受けて、舞台上で挨拶するピノキオの姿をイメージしていた。今思うと、潜在意識から、宇宙の仕組みを説くビジョンを見せられていたのだと思う。観客席には誰もいなくて、客席背後の映写室からスポットライトのような光が舞台を照らしていた。私は意識交代をして、映写室の中に居る意識を味わった。それが源意識(ブラフマン)だったのだろう。そして、ピノキオは自我意識。観客席が空席だったのは何故だろうとずっと疑問に感じていた。今、はっと気が付いた。自作自演だから、観客は私自身なのだ。私(自我をアイテムに楽しんでいるアートマン)=ブラフマン
この宇宙には、ひとつの意識しかない。分離はすべて幻でしかない。
自作自演の一人芝居を演じ、楽しんでいる神遊び(リーラ)
恒例の宇宙会議は、これで何回目になっただろうか。5~6回目だろうか。
回を重ねるごとに、内容が深まっている。
今回は、言葉すら失ってしまった・・・(笑)
金星人、アンドロメダ人、古代エジプト神、日本の神々の数か月に渡るサポートもいただきながら、充実の宇宙会議だった。
Yさん、共に魂の学びをシェアし合えることに、心から感謝いたします。
お互いの配役に、そして、熱演に、乾杯!
☆おまけ
Yさんからおしえていただいた詩。
とある8歳の子どもが、聖者から「おまえは誰だ?」と問われた時の自己紹介だそうで。
アートマン意識とは、こんな感じなんでしょうかね。
ニルヴァーナ・シャタカム(マントラ)
私は、自分の思考でもなく、知性でもなく、記憶でもエゴでもない。耳でも舌でも鼻でも目でもない。
地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、5つのプラーナでもなく生命の息でもない。私は、7つの体の部位でもなく、5つの鞘(Kosha)でもない。
私は、会話の器官でも手でも足でもない。生殖器でも肛門でもない。私は、無限の意識、純粋な自己である。
私には好き嫌いもない。強欲、妄想もない。うぬぼれや嫉妬もない。
法や富や快楽や悟りを追い求めることもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には、罪も徳もない。喜びも悲しみもない。私には、マントラ、聖地、ヴェーダ、儀式も存在しない。
私は、経験でもなく、経験の対象でも経験している者でもない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私には死もなく、疑いもなく、カーストの違いもない。父も、母も、誕生もない。
教師も、生徒も、親戚も、友人もない。私は無限の意識、純粋な自己である。
私は、思考、形から解放されている。私は全ての感覚器官に繋がり、あらゆるところに存在する。
私は束縛と自由にとらわれない。私は無限の意識、純粋な自己である。
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