魂の涙
涙には二種類あると思う。
悲しいとか悔しいとか、感情を伴う涙。これは思考である程度、涙の意味を説明できる。
もう一つは、魂が流す涙。なぜ涙が出るのかわからないから全くもって説明が出来ない。ハートの反応としての涙。
つい先ほど、急に空が真っ暗になって、激しい雷雨になった。まるで登山の時に、雲の塊の中に放り込まれた時のよう。街全体が雨脚で真っ白に煙り、強風に晒された。やがて雨は止み、空は明るくなった。玄関の扉を開け、雲の切れ目に青空が覗いているのを確認した。
玄関の扉を閉めながら、ツーっと、涙が流れているのに気がついた。全然、感情を伴う涙ではないのだからあれ?と戸惑った。理由が分からない。
そこで、ああ、私の魂が涙を流しているのだと思ったのだ。魂には魂遍歴を理由とする何らかの感動があるのだろう。それはハート辺りで感じる。思考を介さないので、「私が泣いているのは◯◯が原因である。」と言葉で説明することは出来ない。
理由は、肉体を超えた存在の魂が知っているのだから、無理矢理思考で腑に落とす必要は無いと思う。しかし、顕在意識は戸惑っている。自分の肉体や感情を超えた「私」とは、なんて広大で神秘的で不思議な存在なのだろうと。
魂の涙は今までも何度か経験してきた。今ふと思い出す場面は二つある。
もう20年近く前のこと。当時、知人の会社をボランティアで手伝っていた。あるイベントの日に、会場にその知人の娘さんがお手伝いスタッフとして参加した。ちょうど大学院で学んでいるというハツラツとした女性だった。彼女とは初対面だった。スタッフの役割として、私は彼女とお弁当の買い出し出かけた。道すがらおしゃべりしながら私はずっと泣いていた。涙が止まらなかった。なぜ初対面の彼女と肩を並べて歩くだけで?と理由がわからなかった。敢えてハートの震えを言葉にするなら、彼女の存在そのものに感動していたとしか言いようが無い。彼女と実際に会ったのはその日限りであった。知人とは15年以上ご縁があったが、あるきっかけでプツリと見事に縁が切れた。もう会うことは無い。今あらためて思い出しても、不思議である。いやしかし、あの涙は何だったんだろう。
もう一つは、結婚する前にお付き合いしていた頃の夫との出来事である。互いに初々しい若者同士だった。部屋で二人で話をしていて、突然夫が涙を流し出したのだった。もう、その有り様は漫画のようで、大粒の涙をボロボロと、涙が真珠粒くらいありそうで、その涙を眺めながら、私は冷静に「へぇ~。人間て、こんな涙も流すんだなあ~。」と感心しつつ、言葉も無く見つめ合っていた。この時は喧嘩してたわけでも、何か悲しい話題に触れていたわけでもない。なぜ涙を流したのかは、本人も私も分からない。しかし、頭で分からなくても、お互いの深い部分では理由を分かっていたような気はするのだ。根拠は全く無いけど。
夫のあの涙こそ、絵に描いたような魂の涙だったと思う。
結婚してから、大喧嘩して、夫を泣かせたことなら何度もある。夫はその都度、怒ったり悔しがったり落胆したりして、目に涙をにじませたが、このような感情を伴う涙とあの日の不思議な涙とは性質が全く違う。
魂の涙ってあるよね。
という話でした。
☆どっちが眠りの世界か?
昨夜、エドガー・ケイシーのメッセージをYouTubeで視聴していた。ざっと要約すると
私たちが現実世界で体験しているものはホログラムであり、睡眠中にあちらの世界(本質の世界)へ戻っている。本質から見れば、現実世界こそ眠りの世界である。
というような話だった。
これから、いろんな変化が現実世界で起こってくる。不都合な制度を一旦リセットすることになるので、いろいろ止まるけど、新しい世界に移行するために必要なリセットだから、冷静であれ。とも。
現実はあまりにリアルなので、ついつい振り回されてあたふたしてしまうけど、本質が見ている夢がこの現実という名のホログラムであるという点を押さえておけば、今後様々な制度がリセットされていったとしても、「自分はこの地球で何をしたいのか?」と自ら選択し、自分の足で大地に立つことができるだろう。地球で生かされている間(=本質が夢を見ている間)精一杯、体験を味わえばいい。新しい世界への移行は、決して怖いことではない。通過してしまえば、必要なことが起こったのだと納得できることばかりだろう。
先日、こうなればいいな~。ということがあった。Aという出来事が希望だったのだけど、現実はBという流れだった。周りに配慮して、気をつかって、迷惑にならないならAでお願いしたいという消極的かつ受動的な意図で動いていたら、現実化(ホログラム化)がぎくしゃくしてしまった。
結果はAになったのだけど、スムーズではなかった。たまたまキーマンが体調不良で倒れたので、土壇場で、やむを得ずAになったという、なんとも歯切れの悪い展開となった。Aになったのだから良かったのだけど、私の頭の中はず~っと自分を正当化するために言い訳を繰り返していていた。つまり罪悪感が噴出してしまったのだ。私がゴチャゴチャ考えず、素直にAを意図していれば、キーマンが体調不良で倒れるというホログラムをわざわざ創る必要は無かったんだろうなあと思う。昭和の価値観のままで選択したら、かえって事がややこしくなるんだ。もっとシンプルでよかったんだ。
私はこうやって新しい時代の現実化の練習をさせてもらっているのだな~。と気が付いた。ついつい昭和の価値観にがんじがらめにされて、外堀から埋めていく手法で望みを叶えようとする癖がある。
この条件反射は何のため?自分が傷つかないため。悪者にされないため。自己犠牲こそ美徳であり周りから褒められるという洗脳のためか。「我慢して偉いわね~。」みたいな・・・・ ( ´艸`)
今、世界は加速度的に次元を上げてきているので、願いが叶う速度も速くなってきている。
現実創造しているのは他ならぬ自分の意識!
ということに気が付いた人は、より本質に正直に生きられるようになってきたと思う。
もう、自分を守るために嘘をつかなくていい。自分を隠さなくていい。本質とつながって、やりたいことをのびやかに意図・選択し、体験を楽しんでいい。
確かに、2020年以降、もうやらなくていい体験は、いくら私の顕在意識が意図しても、現実化しなくなっている。後から考えると、私の頭で考えたことは単なるエゴでしかなく、こっちに導かれて正解だったな~。ということが連続して起こっている。昭和の時代がエゴのまま突き進んでいたとするなら、2020年以降は、いよいよ魂のブループリントに正直に生きられるようになったということだろう。エゴ意識と本質意識の主従関係が逆転したとも解釈できそうだ。
本質意識とは、思考を休めた時につながれるので出来るだけぼ~っとする時間を大切にすると良いらしい。そういえば、2020年以降、睡眠時間が長くなったかも。夜8時には寝てしまう。睡眠というところに、新たな転換へのキーワードが潜んでいそうである。
☆今朝のシンクロニシティ
先日までに我が家の4家系について先祖調査報告書を作成していた。姉の誕生日に合わせて、家系図や郷土資料から得た情報をファイルにして姉に託したのだった。未来の子孫が自分のルーツに興味を持った時に、役立てばという思いで作った。つまり未来への私なりの置き土産である。
そのうちの1家系が、調査が中途半端で終了していた。古い戸籍謄本から先祖の出身地を調べようとしたのだが、大火により焼失していて情報を遡れなかったのだ。母方の曾祖父は父方と同じく屯田兵家族であり、A兵村入植地の名簿から同姓の7人のうちの誰かが曾祖父の兄弟であろうまでは絞れたのだが、それ以上調べることが出来なかった。
私は、何気なく宇宙に願いを飛ばしておいた。「A村先祖について何か分かる情報をください。」と。そして、そのまま忘れてしまった。
さて、二週間後の昨夜、北海道のB図書館からメールが届いていた。B村の先祖の調査で資料名のレファレンスを依頼していたのだが、なかなか返信が無いのでそのまま忘れていたのだった。それが依頼から一か月経過して、ようやく昨夜回答が届いたのだ。既にB村については自力で調べて報告書も完成していたので、「あれ?今頃来ちゃった。もう調査は終わってるのになあ。」と戸惑ったのだった。
まあ、せっかくなのでと、回答にあった資料名を国会図書館デジタルコレクションで閲覧できるかな?と検索をしていたところ、何がどうなってそこに繋がったのか訳が分からないが、北海道立図書館の『北海道市町村部落史誌目録』という資料を無意識にダウンロードしていた。「あ~しまった・・・・130頁もあるし、ちらっと見たらゴミ箱に捨てよう。」と何の期待も無く、スクロールしていたら、その目録にA村の項目があり、『屯田兵及家族関係者一覧』というタイトルが目に飛び込んできた。今までの調査では家族名までは分からなかったので、この資料を見れば何か分かるんじゃない?と胸が高鳴った。早速、北海道立図書館へメールを送り、家族関係者一覧についての問い合わせを済ませた。
なんだなんだ、一気に次なる道が開けてしまった。こんな奇跡の道開きは顕在意識の意図では絶対に叶わない。たまたま○○したら偶然△△となった・・・という奇跡的な流れ(シンクロニシティとも言う)は、やはり願うことで起こるのだろう。
こうやって、高次元へ移行しつつある過渡期において、私たちは慣れないまでも、自分で現実を創造しているという認識を高めていくのだろう。昭和世代は、現実は思い通りにはならないという思い込みに縛られているので、その信念から自由になるのはなかなか難しいが、本質の世界から眺めれば、思った通りにならない不自由な世界というものを体験したくてわざわざ眠ったわけだ。そして、不自由な世界から自由な世界へ移行する過渡期も味わってみたいと欲張って楽しんでいるのが、この時代に生きる私たちの本音であろう。
ミステリー小説だって、初っ端から犯人が分かっていたら面白くない。謎解きをしながら最終的に犯人が判明する。その謎解きプロセスにこそ醍醐味がある。「Aさんが殺されました。犯人はBさんでした。以上。」だったら、何が面白いんだろう?。そんな本読みたくはない(笑)
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