和解〜そして次なる冒険へ
私は、とある人物へ向けて、報告のつもりでこのブログを書いている。
殆どの方々にとっては、一個人の取るに足らない日常の記録である。
しかし、一個人ではあるが、魂の成長のささやかな記録でもあり、宇宙全体を織りなす一筋の糸であることも確かだ。
もし同じように人生の駒を進めている方がいるのなら、答え合わせの意味もあるのかもしれないので、そっとここに書き綴っておこう。
ご縁は人知を超えて紡がれているものだから。
☆母と義父の和解
10月5日
母と姉が我が家に、四十九日前のお参りに来てくれた。
夫の父親が9月20日に群馬県の病院で息を引き取った。その日のうちに御遺体を東京へ搬送し、三日後には滞りなく荼毘に付すことが出来た。義父の表情は清らかで、満足そうに微笑んでいた。意識不明のままの四カ月、点滴だけで命をつないでいたのだが、やせ細ることもなく、まるで幼子が安眠しているかのようなスッキリしたお顔で、静かに逝ったのだった。
夫の両親と私の両親の確執は、30年ほど前に遡る。このブログの題材に取り上げたこともあるので詳細は省くが、要するに、私の両親は夫との結婚に大反対で、私はいわゆる勘当された娘であった。結婚前に、夫の両親が遠路はるばる私の実家へ挨拶に訪ねてくれたのだが、玄関先でけんもほろろに追い払われたのであった。義母はその時、たいそう傷ついた。その後、義母は癌を発病しこの世を去った。義父は大きな喪失感を抱えながらもその後30年、頑張って寿命を全うした。
玄関先で追い払われて以来、私の実家と夫の両親の交流は行われなかった。20年ほど前から、夫は私の両親に受け入れられ、何とか関係を修復してはいたのだが、義父と私の両親は顔を合わせることは無かった。
私の父は今年の1月に亡くなった。父が生前書きつけていた備忘録のようなレポート用紙に、「〇〇くんのお父さん」と、メモが残されていた。死ぬまでに、何とか縁をつなぎたいという思いを残したのだろう。父なりに、悩んでくれていたのだろうと思う。両親が義父に会いたいと申し出てくれたのを頑なに拒絶していたのは、私の方であった。もうこれ以上、夫の家族を傷つけたくないという思いもあったが、どちらかというと、自分の心の闇に向き合うのが怖かったのだろうと思う。この闇については、2021年秋以降、催眠療法を学ぶ過程で、少しずつ癒しを進めてきた。私は、心の奥底で、両親への恨みを捨てきれずにいたのだ。表面上は仲良くしていても、意識できないほど深い領域では、ずっとずっと怒っていたのだ。
私はこの粘々と纏わりつく執着のエネルギーを人生のどこかで浄化する必要があった。これは私の人生で取り組むべき、大きなテーマだ。そのテーマは何?と問われれば、分かりやすく言えば「赦し」と表現できるのかもしれないが、もちろんそれだけではない。「愛」「受容」「慈しみ」という本質のエネルギーを取り戻す魂のチャレンジだった。
いつもながら前置きが長くなった・・・・・
そうそう、四十九日前のお参りである。
義父のお骨は、現在我が家に安置されている。11月の四十九日にお墓に納骨するまで、しばらく我が家でくつろいでもらっている。遺影の義父の表情は柔らかく、まるで観音様のような優しい波動を放っている。生前、義父のことがあんなに怖かったのが嘘のようだ。義父の本質は、こんなにもあたたかく優しいエネルギーだったのだ。私がその本質を見ようとしなかっただけだった。怖かったのは、私自身の抱えた闇そのものだった。
魂の兄からのアドバイスは、5月の宇宙会議報告に記録してある。「その人そのものを見る」。まさにまさに、その通りだった。今でも、魂兄の言葉を反芻すると、涙が出そうで胸がいっぱいになる。私は、実父と義父の死を通し、そのことをしっかり学ばせてもらったのだ。家族のご縁とは、魂の学びの観点から見ると、何ともうまく紡がれているものだ。心をキリキリと苛まされたあのドラマもこの配役も、学びを成就するためには必然だった。私の両親への怒りは、いつの間にか感謝へと変換された。魂が必要な学びを得たなら、もうその重い周波数のエネルギーは不要となる。私はこのようにして、本質へと戻っていくことが叶うのだ。私の内面が変われば、現実も変わる。私が発するエネルギーがその振動にふさわしいホログラムを創造する。
さて、母が姉の運転する車で我が家にやってきた。母は、義父の遺影とお骨に手を合わせ、線香を手向けた。お参りが一通り済んでから母をリビングの方へ誘った。姉と母が手土産に持参してくれたサンドイッチを食べようと、椅子に座るよう促したのだが、母はずっと立ったまましばらく放心していた。足の悪い母である。立ちっぱなしは足に負担がかかるので、何度も椅子をすすめたのだが、母はずっと立っていた。私はそんな母の横で共に立って、何となくぼ~っとしていた。
やがて母が、震える声を発した。ゆっくりと、母の内面で何かが溶けていった。その瞬間に私も共に浄化されていたようだ。
母「ああ・・・ほっとした。ずっと心のどこかにひっかかっていたの。私、お義父さんに謝ったのよ。お義父さんは優しい人だったのね。〇〇くんとそっくりね。あの時(義父母を追い返した日)とても疲れていたから、その日は遠慮してもらってというつもりだった。お義父さんは、ずっと、あなたを大切にしてくれていたんだものね。あなたが一番大変だった時、親身になって助けてくれていたんだものね。今日、やっとありがとうございますと言うことが出来た。ああ、良かった。お父さんも気にしていたから、ようやく肩の荷を下ろすことができたわ。」母は、そう言って涙を流した。
私は、母と共に涙ぐみながら、義父を思い出していた。優しい人だった。寡黙だったけど、行動で優しさを示すことが出来る大きな人だった。そのあたたかな性質を夫は確かに引き継いでいる。なんて素敵なご縁に恵まれたのだろう。そうだった。私は確かに大切にされてきた。一方的に義父を嫌って逃げてばかりだったけど、そんな私を丸ごと受容してくれていた。ああ、なんて大きな愛に私は包まれて育まれていたのだろう。心のどこかでそのことは理解していた。それに甘えて、私は安全に時間をかけて自分が創り出した闇に向き合うという貴重な体験をさせてもらえたのだ。30年も!ああ、すごい・・・。人のご縁とは宇宙最大最高のギフトだ。ああ、義父が愛おしい。今世で出会えて、家族になれて本当に良かった・・・・。
このようにして、母の気づきと共に、私も浄化されたのだった。視野を覆っていた曇りが取り払われた時、見える世界は優しく穏やかな愛に満たされていた。
そして、この事に気づいた時、「ありがとうございます。」しか、心の内を表現する言葉は残されていないのだった。そうなんだ。最後の最後に残るのは、感謝なんだ。すべてに、すべての存在と体験に、もう、ありがとうしか無いんだ。これは大きな気づきとなった。
母から、この日帰宅後にメッセージが届いていた。
「今日ほどありがたく、幸せな一日は感謝しかありません。」
母との確執のドラマはとても苦しかったけど、共に魂の学びのために約束して演じた配役だったのだと思うと、母に対しても深い感謝の気持ちが沸き起こった。
すべては、この気づきのために采配された出来事だった。陰陽の統合とは、こういう学びの結果起こることなのだろう。別の表現をするなら、両極に振れて、真ん中に戻る。でもその過程を経たからこその真ん中は、なんと意義深く、味わい深い真ん中だろう。滋養とか慈愛とか、色で言うならきっぱりした真っ白ではなくて、う~ん、深みのある白(アイボリーとか?)その滋や慈の部分を魂は知りたかったのかもしれない。うまく言えないけど。
☆恋のキューピッド
母と姉と夫と4人でサンドイッチを食べながらおしゃべりに花を咲かせていた。母は、中学時代から縁が続いている友人たちのことを話題にしていた。その中の一人が、いつも「自分は他の人と違う。一緒にしないで。」みたいな性格なのだと語った。仮にAさんとしよう。母には故郷に学生時代からの仲良しグループが存続しており、来年父の三回忌で墓参りに行った時、その友人グループと会うかどうか、「悩ましい・・」とこぼしていたのだった。そのAさんと会うにも、気をつかわなくてはならず、面倒くさい関係のようだった。そんな面倒な友達なら、縁をきっぱり切ってしまえばいいのに、そうしないのは母の心のどこかで、Aさんを大切に思う気持ちがあるのだろうと思われた。
何と、そのAさんの紹介があって、42年前に父と母はお見合いをしたのだと言う。なんだ、Aさんがいなければ、母はここに座って一緒にサンドイッチを食べてはいないんだ。
母と私たち姉妹は血がつながっていない。母は後妻であり私たち姉妹は父の連れ子である。しかし、先月、姉は母と正式に養子縁組をし、正真正銘の母娘になった。それもこれも、父が母に大切にされて寿命を全うできたのも、今、母が「お母さんはね、一番幸せだと思うのよ。」という心境になっていられるのも、そのAさんの存在のおかげなのである。
「Aさんは、恋のキューピッドなんだね。」と私はつぶやいた。母は、はっとした表情になって、そして「お母さん、今決断しました!」と明るい表情になった。母は80歳であるから、もしかしたら北海道へ旅するのも、友人グループに会うのも来年が最後になるかもしれないという思いがあった。母は「父の三回忌を無事に終えたら、寿命が来るような気がする。」と語った。そうかもしれないし、もっと長生するかもしれない。母の魂プランを最大限尊重するのみである。その最後の故郷への旅と覚悟する母は、Aさんに会って、しっかり感謝の気持ちを伝えてこようと決断できたようだった。
家族も不思議だが、友達もかなり不思議なご縁である。性格が良くていつも優しくしてくれるから友達になるわけでもない。嫌な面もあるのだけどずっと友達を続けているという関係もある。メリットデメリットで割り切れるものでもなく、不本意でもどこかで思いやりあっている不思議な縁である。母とAさんは、もしかしたら似た者同士であり、魂友なのかもしれないと思った。
☆壮大な恩返し
話題は、父の壮大な恩返しの話になった。
父は2歳の時に父親を亡くしている。6歳になった頃、母親(私の祖母)は、幼い父を家に置いて働きに出るしかなかった。父は引っ込み思案な性格であり、家に閉じこもって寂しい思いをしていた。そんな父を寂しさから助け出したのが、近所に住む幼馴染6人組だった。彼らは、夕方になると「〇〇!風呂行くぞ!」と肩に手ぬぐいをひっかけて、父を銭湯に誘いに来たそうだ。父は彼らと銭湯に通うことで、友達との付き合い方を学んでいったようだ。
父の孤独な少年期を幼馴染たちは友情で包んだ。父はその感謝の気持ちをずっと忘れなかった。父の夢は、幼馴染6人を我が家に招いておもてなしすることだった。母はそんな父の夢を共に叶えた。父は退職後、6人を我が家に宿泊させるために、わざわざ増築までした。そのためだけに家一軒建てられるくらいの貯金が飛んだそうだ。当時を知る姉は呆れ顔だ。母は、手作りで6人分のガウンを縫い、布団や寝間着も各々の好きな色で新調した。その幼馴染の会は7年続いた。父は満面の笑顔で友と母手作りの料理を味わい、酒を酌み交わし、夜更けまで談笑した。父の壮大な恩返しの話である。その6人も次々と寿命を迎え、現在は、一名しか生存していないそうだ。昭和一桁世代だから仕方ない。
そのおかげで、老後資金のほとんどが無くなったそうであるが、母はそのエピソードを満足そうに笑って話すのだった。
父は父なりに、感謝の気持ちを心を込めて表現した人生だったのだ。
☆先祖のDNA
先日、曾祖母の方の家系図を作っていて、判明したことがある。
曾祖母の兄はやはり屯田兵であった。仮にB氏としよう。
B氏のフルネームを国会図書館デジタルコレクションで検索をして、北海道の郷土資料を調査していた。そして『北見市史』に10頁ほどに渡って、B氏について詳述されているのを発見した時は、驚きのあまり手が震えた。郷土資料に肩書や功績は記載されてはいても、人柄まで記録されていることは稀である。この著者は、遺族に聞き取りまでして、丁寧にB氏の人柄を後世に伝えようとしてくれていた。
その記述によると、B氏は「穏和な篤農家」であったそうだ。気の荒く強い屯田兵仲間の間で.突出して平静な性格であり、流行っていた賭けにも手を出さず、真面目に開拓に精を出していた。面倒見がよく、リーダーシップを発揮し、村の開基に労苦を惜しまなかったという。そして奉公人を見下すこともなく、さんづけで名を呼ぶよう家族にも徹底させ、まず先頭を切って様々な野良仕事の模範を示したという。靜かで穏和で人を大切にする人物であったらしい。
そこで、ふと思い至ったのだ。父方の血筋の特徴として、争いごとを嫌い、穏やかで始終ニコニコして、相手を大切にする性質は、父そのものである。父が北海道から内地へ転勤する時は、部下のほとんどが大勢空港に見送りに来て、こんなことは初めてだと同僚が驚いていたというエピソードを母が教えてくれたこともある。そう言えばデイサービスでも老人ホームでも、父は「いつもニコニコ穏やかなので、スタッフから愛されていた。」と施設側から直接伝えられたこともある。父の最期の数か月は、認知症になりながらも、まわりに感謝の言葉を発することと、スタッフさんと感謝の握手をすることだけは忘れなかったそうだ。そんな父を私は心から尊敬する。
もしかしたら、このような平和を絵にかいたような性質は、曾祖母の家系からDNAに刻まれて伝えられてきているのではないか?と思い至ったのだった。
そう言えば、姉は父の性質を真っすぐ引き継いでいて、職場ではリーダーとして活躍している。窓口対応をしていると、トラブルになることも多いそうだが、姉はいつも穏やかさを崩さない。時間をかけて怒りまくる客と接し、最後は「あなたと話せて良かった。ありがとう。」と感謝されることも多いと聞く。そうそう、そんな姉の息子も、まるでシマエナガのような雰囲気の優しい青年に成長している。
姉は間違いなく、B氏家系の人柄を受け継いでいると確信した。DNAは、先祖からの贈り物であり未来へつないでいくバトンでもある。
先祖調査をしていると、こんな発見もあって面白い。
☆すべて必然だった
生きているといろんなことが起こる。
私のように激しい怒りや恨みの気持ちを30年も引きずるような人もいるかもしれないし、比較にならないほどもっと過酷な運命に翻弄されて、悲観するしか感情の持って行きようが無いと言う人もおられることだろう。
2021年秋から書き始めたこのブログも、そろそろ役割を終えるタイミングが来ている。
私のささやかな魂の学びというプロセスを綴ってきたわけであるが、これで魂の学びを終えたというつもりはない。この意識エネルギーは永遠である。ずっとずっと学びは続いていく。ただし、一つの到達点には達したのかもしれない。
言えることは、言葉にしてみれば陳腐で、言い古されたセリフにしかならないのだが、お許しいただきたい。
「すべて必然だった。」
あれがあったから、この体験があり、今の私がいる。
私の人生を飛び越えて、遡っていったとしても、同じことが言える。
何代も前のご先祖様の生があったからこそ、連綿と引き継がれたDNAによって、今の私の人生が花開いているわけである。
人間の歴史を飛び越えて、遡っていったとしても・・・気が遠くなるほどの宇宙の歴史を遡っていったとしても・・・
ああ、どこが始まりだったんだろう?私の小さな頭では想像すらできないほどの遥か遥か、数に表現できないほど遡った始まりのとある一点が
その始まりはあったのか?無かったのか?それすら概念を超えてしまうほど。
永遠の循環の中の、どこかでポッと、何らかの揺らぎが生じて、生まれて消えて生まれて消えて、繰り返し繰り返し・・・
必然、必然、必然・・・・・としての今、まさに今の私という意識がここで生を謳歌している。
今、息を吸っている。そして吐いている。この愛おしい存在そのものである私もあなたも、この世界のすべてにも、すべての縁がつながった奇跡の今。
ああ、やっぱり、この言葉しか無いなあ。
ね、お父さん。そうだよね。本当にそうなんだね。
「ありがとうございます。」
☆総括
2024年10月7日5時55分
脱稿
ひとつのゴール地点へ到達
清々しい気持ちで、日の出を眺めている。
ブログ『空散歩〜空からのメッセージと贈り物』
2021年5月から約3年間
投稿596件
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おかげさまで、人生の区切りを迎えました。
魂がこの地球でチャレンジしたかったことのひとつを無事に達成することが叶いました。
ブログに記録することは、アカシックレコードに刻まれる記録を物質次元で視覚化すること。体験を広く共有することが出来たことは、有り難く幸せなことでした。
今後、フェーズを移行することになりますので、一先ずこのブログは終了といたします。
次なるフェーズとは、多くの魂が、このタイミングに合わせて転生してきた目的に沿って、本質と軸を合わせて共に創造していく。いわゆる地球体験の総仕上げとなるかと思われます。いつ旅立ちの瞬間が訪れたとしても、満面笑顔でその時を迎えたい。そのために我が魂の真なる願いを行動につなげていきます。最期は地球を抱きしめて、「地球お母さん、たくさんの愛をありがとう!」と気持ちを伝えて軽やかに次に進むことでしょう。私たちは、永遠の意識エネルギーなのですから。
魂の次なるチャレンジは、また、どこかで発表する日もあるかもしれません。御縁がありましたら、またお会いしましょう。
私のささやかな魂の冒険譚を読んでいただき、心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。
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