人生は壁にボールを投げている
「因果律を示すために死を描いたのが宮沢賢治の童話だ。
因果律とは、宇宙の法
やった事(言ったこと、行い、想ったこと)は、必ず返る。悪は不幸と破滅が。善は幸福と平和が返る。
宮沢賢治の童話96作品のうち、死を描いた作品は24作品。その全てに因果律が描かれている。死が描かれていない作品を含めても全作品の半数48作品に因果律が描かれている。また、自然を描いている作品と人間の生き方(法)を描いているのは半々。
賢治は、自然界のメッセンジャーとして、作品に自然の愛と癒しということを込めている。日本的生命観「自然と一体となって生きよ」を発信している。
壁にボールを投げるのが人生であるとする。
人間は、白い球と黒い球を一つずつ持っている。そして、どちらかをいつも自分で選んで、自由意志で投げている。
白い球を投げれば平和と幸福、建設が。黒い球を投げれば破壊と不幸が返る。全くそのものが寸分狂いなく。殺せば殺される。奪えば奪われる。エゴは破壊、愛は平和、結果はこれしかない。ごまかしは出来ない。その人が愛か意地悪かその本心(動機)でもって人生(結果)を作る。その原理を童話の形にしたのが賢治作品なのだ。
今の物質主義文明は、物質が幸福の源泉だという価値観の世の中だ。有限な物を奪い合うことは、自己中心となり、不幸の原理を生きる競争社会になる。地獄へのマラソン競争(『洞熊学校を卒業した三人』)をしているのである。
『注文の多い料理店』は、殺せば殺されるという因果の法、真理がそのまま描かれている。この作品最後に、二人の紳士の顔が恐怖のあまり紙屑のようになって直らなかったという所がある。
とある読書会で、身体に障害を持った方(交通事故で半身不随になられた)が
「(紙屑のようになり一生直らなかった顔は)私は宝物だと思います。」と言った。
この言葉に衝撃を受けた。
この方は、ご自分の身体障害と紙屑顔を重ねられたことを感じていた。肉体が損なわれたことで、宇宙には因果の法があること
因果の法は人間をいじめたり罰する為にあるのではなく、人間は有限な肉体ではなく、本当は永遠不滅なる霊である。人間の本当の幸福とは肉体の幸福ではなく魂の幸福、すなわち愛に生きること。
これらが分かったから、不慮の事故による障害を不幸とせず、宝物と発言したのだと理解したのだ。
このように賢治作品には、深い真理の発見と気付きに至らせる力がある。つまり傑作なのである。」
『スピリチュアルな宮沢賢治の世界』熊谷えり子著 でくのぼう出版
上記は、59頁までを要約 一部抜粋
朝読書をしていて、心に響いた箇所があったので、要約してみた。宮沢賢治の童話全作品を読んでみたくなった。ちくま文庫に作品集があるらしいので、退院したら図書館で借りてこようと思う。
因果律について、私が感じたことを書いておく。
賢治の因果律の表現は、昭和的勧善懲悪の世界に片寄っている訳ではないことを強調したいのだ。それは上記要約の最後、障害を持たれた方の言葉に集約されている。これは、物質次元での学び、二極からの統合を表しているのではないかと思ったのだ。
人間は白と黒の球を持っている。だから、白だけ投げましょう。黒は見ないように(捨てちゃう。消しちゃう。)しましょう。ということを言っているわけではない。
白(光)もあれば黒(闇)もある。必ずセットで存在する。昔の価値観では、黒を消そう消そうとしていた。しかし、黒を見ないようにしているだけで、確実に溜まっていく。いつか、反動はやってくる。閉じ込めたインナーチャイルドなどが、まさしくそれだ。イイ子、イイ人ほど心に闇を抱えてしまう。それが生き辛さや病として表出する。催眠療法はその領域にアクセスする。
因果律をそのまま、表面的に捉えれば、
黒い球を投げたから私は家庭が不幸になった。病気になった。障害を持った。意地悪された。と卑屈になってしまう。人に対してもそういう冷たい眼差しで見てしまいがちだ。
ポイントは、因果律は罰ではないということだ。
人間は白い球も黒い球も持っている。そのことをしっかり受け入れ、自分の中にある白も黒も、しっかりじっくり見つめることだ。人間に自我がある限り、エゴは消えない。しかし人間はエゴそのものではない。魂(本質である愛)をエゴで覆ったまま生きるのか、本質に近づいていく生き方をするのか。その葛藤を通して学んでいくのが、この世界の醍醐味なのだ。
白=正しい、成功、善
黒=間違い、失敗、悪
二元論では、どうしてもこう捉えてしまう。教師も親も宗教も、こう教えてくる。物質次元には二面しかなく全貌は見えにくい。
白も黒も、宇宙の愛のエネルギーで出来ていて、元々は同じだ。という表現はどうだろうか。そもそも、全てはひとつの源から創出されている。創出されたものが個々に離れたり、またくっついたり、それを繰り返している様を想像してみよう。
源から離れていくエネルギーもあり、源へ戻っていくエネルギーもあり、宇宙全体は大きな流れで循環している。一時も留まらず、変化し続ける。その動きの一断片が、今私たちが体験している現実なのだ。ほんの小さな断片にすぎないかもしれないが、増えも減りもしない宇宙を構成するエネルギーだ。どれもあっていいし、あり続けるし、変化し続ける。大いなる流れの中で、宇宙の見る夢の断片を私たちはひととき味わっている。
夢のルールのひとつが、因果律と言えるだろう。皆おなじ体験をしているのだが、宇宙の流れのどの部分(源から離れていく方向か、近づいていく方向か)にフォーカスしているかの違いであり、黒い球ばかり投げている嫌悪すべき誰かも、結局は私の姿なのである。
その上で、この断片にフォーカスさせられている私という意識は、どう人生を生きるのか。どの方向に向かうのか。そこから何に気づいていくのか。それを新鮮な心と眼差しで、現実というドラマを通して取り組んでいくことが、魂のやりたいことなのかもしれない。あっさり言ってしまえば、情報収集である。一旦忘れて、取り戻していく。それを延々繰り返して、本質の愛を(自分を)知ろうとしている。
宇宙は、知りたいのだ。このひとつの意識のことを。あらゆる方向から隅々まで。
ただ、知りたいのだ。
☆アメリカ・インディアン呪医の言葉
「真実は二つの顔をもってこの世にやってくる。ひとつは苦痛を感じて悲しんでいる顔、もうひとつは笑っている顔だ。だが、笑っていようと泣いていようと、同じひとつの顔に変わりはない」
☆前世療法に見る因果律
これは、先輩セラピストさんから聞いた事だ。
ちなみに、彼女とは初めてZoomで語り合った時に、多くの共通点を感じ意気投合した。宇宙時代はオリオン出身であること。ローマ帝国時代は兵士であり、たくさんの人を殺したことなど。もしかしたら、私たちは、前世ローマで出会っており、戦った(殺し合った)仲かもしれないと笑った。そして今世では、催眠療法で利他を実践したいと考えていることも似ていた。
前世療法で、彼女は、ローマ時代に、殺し殺される壮絶な人生を終えて魂の戻るべき場所、中間世へ行った。そこで、彼女は驚いたのだ。地獄などはなく、既に自分は許されて愛されていることを実感した。彼女は、自分の意志で、次の転生を選んだ。「次は殺される側の家族の気持ちを感じてみたい。」つまり、反対側の立場になってみること(誰かにAという行為をしたらAが返ってくる因果律)は、自ら進んで体験していたことが分かったそうだ。「だから、因果応報は、罰ではないのよ。」と彼女はきっぱりと言った。右を体験したら、次は左も体験してみる。そうすると両方の気持ちがわかるので、真ん中に戻れる。片方だけ知っているのは不十分だから、両方知りたい。こうやって、分かりやすく二極に分けながら、かわりばんこに役割を演じる。これが輪廻転生と言われる。
私も、ローマ時代の荒くれ兵士だった記憶を持っている。最後は殺されて海に突き落とされた。魂は、海底に長い間漂っていた。最初は怒りに満たされていたが、だんだん反省する気持ちが湧いてきた。彼はオイオイ泣いた。殺される側の気持ちがようやく理解できたのだ。無神論者だったが、最終的に神に救いを求める気持ちになった。キリストが彼を迎えに来て「おまえは既に許されている。」と言った。彼は安心して愛に包まれ昇天した。私は、この一部始終を前世療法で体験した。確かに魂が戻る場所は、どんなに悪人であろうと、地獄ではなかったし、罰のために次の転生をさせられるわけでもなかった。次に学ぶことは自分で決めていた。
だから、今世で、病気や障害を持ったのは、何か悪いことをしたから因果応報だという話ではない。もしかしたら、前世は医師をやったから、次は病人の気持ちを学びたいと思ったかもしれないし、何不自由なく健康だったから、次は障害を通して学びたいと願ったのかもしれない。
正直、何不自由なく平和というのは、心地はよいが成長が無いため、魂としては退屈で飽きるらしい。学びたい魂ほど、ハードな人生設定をしたがるようだ。
また、これら前世記憶も、時空の観念がある物質次元だからこその解釈であり、本来全ては同時に今ここで起きている。前世があるように錯覚してしまうというのが近い表現かもしれない。
今世(今まさにフォーカスしている人生)に参考になる人生をアカシックレコードから引き出してきているのかもしれないし、転生する際に魂という容れ物に使えそうな情報を選択して搭載するのかもしれない。前世はあるのか無いのか議論することは、それほど意味が無い。どの人生も現実に見えるが、幻だからだ。
ただ、前世の記憶らしきものを見て、今世の課題にヒントをもらい、二極の視点から多面体の視点を得るところに意味があるのだと思う。不幸だと思っていた出来事が、違う視点になると、実は学びの宝庫だったことが分かる。恨みの感情が感謝に変化したりもする。今世の人生の意味を捉え直すことは、幸せに生きることにつながる。イメージ療法だとしても、多くの視点を得ることは、それだけパワフルな療法であることの証しになるだろう。
だから、よく笑い話にされるが、前世はマリーアントワネットだった。とかナポレオンだったと言っても、潜在意識からもたらされた記憶なら、それでいい。前世が偉人だったからと、エゴを肥大化させてしまうのなら、悪影響なのだろうが、今世の課題に取り組むヒントになるのなら、とても意味がある。
いずれにしても、無数に分かれているように勘違いさせられているこの意識は、ひとつなのだ。人生は「ひとつ」が見ている無数の夢の断片なのだから。
せっかく体験させてもらえているのだ。しっかり味わって、たくさんの気付きを得て、それをお土産にして、やがて戻って(目覚めて)いけばいい。そのひとつへ。
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