未来から過去へ微風を吹かせる
この数ヶ月
責任について、ずっと考えていた。
今の気持ちを記録しておく。
私は、電子書籍出版にむけて、取材を続けていた。何人かのインタビューを織り込んだ内容になる予定だった。
ある日、とある出版経験者から、ご注意をいただいた。とても親身になってアドバイスくださったので、心から有り難く感じている。
電子書籍は、著作物が危険に曝される。勝手にコピペして、そ知らぬ振りで自作として出版する輩もいる。
従来の紙の書籍なら、出版社に専用の部署があり、ノウハウもあるので(おそらく訴訟?)対応してもらえるから安心。(大手出版社のことだろう。)
まだ、自著を電子書籍にするなら、自身の問題で済むが、他人も巻き込んでいるなら、もしもの事が起きた時に······
その方は、皆まで言わなかったが、心の声は聞こえた。
「あなたは、責任取れますか?」
電子書籍だけの問題ではない。自分の選択による行動。それにともなう結果は、確かに自己責任だ。「私がこうしたから、こうなった。」と受け入れ、その時に出来る最善を探し、粛々とやれることをやるしかない。
しかし、巻き込んだ周りの人にどんな影響が及ぶのか?どこまでもネガティブに想定していけば、もう動けなくなる。「私には、すべての責任が取れない。安全を保証されたことなど、何ひとつ無い。」
責任とは何だろう。
世の中で動いている人々は、すべての結果を引き受け、自信満々だから出来るのだろうか。
良かれと思ってやったことが、裏目に出た時には、ただ、ただ、謝罪するしかない。自分に出来る埋め合わせを探すしかない。だから、万が一の何かを想定しなければならないなら、安全圏の、自分の力が及ぶ小さな範囲でのささやかな行動しか選べなくなる。
責任取れると確約できることだけ選ぶ。
う~ん。ほんとうにこれでいいのかなあ。
我が事として考えると、どんどん萎縮して、「小さく生きる」結論になってしまうので、敢えて、スピリチュアル的な考えを取ってみる。
現実は自分が創っている。
目の前に起きた不都合は、自分が発した波動が引き寄せたもの。
出来事を他人のせいにして、責め立てている限り、不都合は続く。
原因が結果を生み出したと、我が責任と捉え、まわりのせいにするのを止め、内面と向き合って、初めて、現実は好転していく。
国のせい、政治家のせい、医者のせい、教師のせい、親のせい
誰かに○○しなさいと言われて従ったのは自分。結局、選択するのは、自分なのだ。
上記のケースでは、私に指示した相手は、決して責任を取れない。
言い方を変えると、自分を守るのは自分だけなのだ。だから、自分をまず、一番大切にしなければならない。
例えば、親が子の幸せを心から願い、「○○に行くのを止めなさい!」と言う。子は、親に従い、結果○○に行けば無事だったのに、行かなかったばかりに、事故にあい、障がいを負ってしまったとする。
親に責任を取れるだろうか?失った身体の機能は戻せない。子は、一生親を恨んで生きるのだろうか。
親は、どこまで想定し、言葉を発し、どこまで結果に責任を取るのだろう。
誰かのせいにして責任を問い続ける限り、幸せは訪れない。私たちは、ほんとうにそんな人生を歩みたいのだろうか。
今の私が出した結論は
「自分に起きたことは、自分で責任を取るしかない。」ということだ。
信念を貫こうが、誰かに諭されようが、流されようが、その行動は、自分の思考が選択したわけだ。誰のせいでもない。
ほんとうの自分(宇宙源の純粋なエネルギー)に戻るために、重い波動を浄化していくのが、人生である。
だから、とても言いにくいことだが、どんな困難も、我が魂の学びとして、ほんとうの自分が引き寄せたのだ。
さて
これらを踏まえ、再度、現実を見てみる。
私が創った現実から、何を学ぶのか?何を手放すのか?
おそらく、電子書籍出版に待ったをかける現実は、私の中にある「怖れ、自信の無さ」を炙り出したのだろう。「逃げた方が安心だよ。」とエゴが囁きかけてくる。「怖いから、何もしなきゃいい。必要なら、他の誰かがやるさ。おまえは、何も出来ない小さな存在なんだから。」
昨日、湯船につかりながら、ふと閃きが来た。
そうだ。新しいblogを立ち上げて、そこで今まで集めたコンテンツを発表しよう!
そもそも、なぜ、電子書籍に拘っていたのか。
出版に対する無邪気な憧れでしかない。
その情報が、必要とされる方々に届けば、媒体は何だっていいじゃないか。
インタビューさせていただいた方々には、あらためて連絡して、blogに発表しても良いという原稿だけを載せよう。著作権を心配する方は、残念だが、我が身を自身で守るのは必須なので、尊重し、掲載を諦めよう。
そう思い付いたら、何だかスッキリした。
電子書籍にしようと考えていた時期は、遅々として作業が進まなかったのに、blogにしようと決めたら、何と!5時間で、概ね完成してしまった。飲まず食わずトイレも忘れ、見事な集中だった。まばたきも、し忘れるくらい。今にある時。いわゆる、フロー状態の時に、エゴの私ではなく、ほんとうの私として動いている。
ああ、そうか~。
これは、blogのかたちが一番合ってたんだ。よく考えれば、Q&Aの部分は、どんどん追加情報が出てくるから、頻繁な更新が必要になる。最新情報を必要とされる方にお届けするには、電子書籍は、媒体としては合わなかった。何で気がつかなかったのかな?書籍に拘る私のエゴが邪魔をしていたのだ。
電子書籍が悪いわけでもない。今後は、頻繁な更新を必要としない作品が出来れば、また挑戦するかもしれない。
とても晴れやかな気持ちになった。
現実を他人のせいにしていたなら、私は、アドバイスしてくださった方を恨み、作ったものを諦めて、小さく息を潜めて人生を送ったろう。
しかし、自分の責任と捉え、内面と向き合ったことで(3か月くらい悶々としてた)ようやく、自分の弱さとエゴに向き合えた。そして、実は、こっちの方がベストだよ~。という閃きをゲットした。
自己責任
この言葉の意味は、随分歪められて使われているから、ここに書くのも、勇気がいるが、
本来の意味は、自立ではないだろうか。
自分の足でスクッと立つ。
それは、起こるすべてを受け入れる心。
自分で選択し、行動し、トライ&エラーを繰り返し、泣いたり傷ついたり笑ったりしながら、進んでいく。大切なのは結果ではなく過程であると、何かの本に書いてあったが、本当なんだなあ。
本で読んで、有難い知識ばかり増やしても、実践できなきゃ身に付かない。私はこの3ヶ月、心のモヤモヤと向き合い続けた。人生の達人は、パッと学んで、サッと次なる展開に飛び立つのだろうが、未熟者の私は、ゆっくり進むしかない。
今、振り返ると、一連の出来事は、この気付きのための伏線であったことが理解できる。
未来から過去に向かって微風を吹かせる
人生は、面白いね!
☆追記
この文を書いてから数時間後
責任についての、解説がもたらされた。
何気なく読んでいた本に!
「生きている責任、自分が特別に命をいただいてここにきているということに対しての責任です。
その特別な命を生きることをまっとうしようと思うと、本質や真実がより見えてくると感じます。
責任はリスポンシビリティですよね。
リスポンスは、受容する
アビリティは能力
つまり、受け容れることができる能力です。
責任放棄とは、受容する能力が欠如しているということではないでしょうか。」
『魂の約束』白鳥哲 はせくらみゆき 80~81ページ
わぉ(○_○)!!
責任の解釈、だいたい合ってた。そして、責任は魂の約束に本気で取り組むことなんだ。
なんか、すごいところまで行き着いた。
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