本質の自分を思い出す
「思い出すという言葉を使うのは、これから愛になっていくのではなくて、もともと愛だったことを、思い出すだけだからだよ。こうやって本当の自分を思い出していくプロセスを成長と呼ぶよ。この成長のプロセスは魂に刻まれるんだ。
(中略)
愛するときのポイントは、愛した対象がどうなっていくか、その結果に期待しないこと。囚われないこと。ただ、あなたが愛することで、あなたの中に愛があることを思い出せればいいのだから、結果には執着しないことだよ。あなたの中に愛を思い出せたら、愛した対象への感謝があふれるよ。だって、そのおかげで愛を思い出せたんだから。
それから、愛を無理やりつくり出そうとしないこと。だって、あなたは既に愛の存在なんだからね。義理、人情、恩義、責任、大切な信念······人間は愛に対してたくさんの概念をもっていて、それに囚われてしまっている。でも、そのほとんどが愛という名の「やった分を返してもらう」という計算的、条件付きの取引なんだ。愛そうとすると、その概念に従ってしまって、あふれてくる無条件の愛をかき消してしまう。この人間的な愛しかたに囚われないで、無条件の愛でいる。これは実践しな がらわかってくることだと思うよ。
キライで愛したくないものこそ、あなたの愛を拡大し、思い出すチャンスであることも覚えておこう。許したくないことを許すことほど、大きな愛はないよ。悲しみ、寂しさ、罪悪感、恨み、憎しみなどのネガティブと呼ばれる感情も、もともとは愛だったことがわかってくるから、それがあっても許すことができるようになるよ。
最終的には自分を見ること、見られること自体が愛なんだとわかるよ。そのことに気づくには、日常を無意識に過ごすのではなくて、意識的に自分を見て過ごすんだ。自分が自分を見ることで愛が生み出されて、自分がその愛を受け取ることになって、愛が自分の中で循環することになるよ。これが目醒めて生きるってことだよ。
(中略)
愛には、自然に創造 破壊が伴うよ。
創造は愛が形になること。
破壊は愛によって形が壊されること。
創造によって始まり、破壊によって終わる。
あなた独自の創造 破壊を楽しんで、眺めていればいいんだ。
何かをしなくても、あなたがあなた自身を見ているだけで、愛が満ちて、愛を充分に思い出したとき、あなたという個人の枠を維持することができなくなって、覚醒するんだ。すべてが愛だから、私とあなたを区別する意味がなくなるんだ。
私はあなた。あなたは私。」
『誰も教えてくれなかった目醒めのヒミツ』
62~66頁
イルカくん イルカちゃん
bio 発行
この本は、つい先日、とても可愛いので、たまたま購入していたもの。イルカの星からやってきたイルカくんからのメッセージ。
さらっと読んでしまっていたら、何も頭に残らなかったと思うが、この一週間ほどの実践を通して得たことが、見事にまとまっていたので、今、驚いている。メッセージが、すいすい心に染み渡る。実践して、反省して自分を見直していたところなので、そうそう、コレ!私は、このことを正に学んだ!と、呆然としている。
今回、私が、知人の問題に関わるという体験を通して浮き彫りになったのは、人間的な愛からの脱却。
困難に直面している相手に対して、自分のできる限りを提供しようとした。今まで積み重ねた経験、知識、技、過去に受けた恩に報いること。大切だから、役に立ちたいと願った。
でも、それは無条件の愛ではなかった。義理、人情、恩義の意識だったから、相手がなかなか回復しないことに心乱された。なぜ、私の助言を実践してくれないのか。なぜ、自らコントロールして、事態を悪化させていくのか。早く楽になってくれという願いは、いつの間にか、自分が相手を見ているのが辛いから、相手を変えたいという思いになり変わっていた。相手が眠れなければ、私も眠れなくなった。今頃、相手は辛いんだろうかと思うと、自分も辛くて、気持ちが重く沈んでいった。
これは、古い時代の、人間的愛仕方だったかもしれない。共に苦しみ、泣き、支え合う。落ちるところまで落ちていく。共依存とも言う。
その人間的愛の奥底には
私が、大事にされたい。認められたい。感謝されたい。優越感に浸りたい。過去の可哀想な自分を救いたい。などの利己的な感情が見え隠れする。どこかに計算があるのだ。
共に苦しみ、泣かなくてもよいのだ。底まで連れ添わなくてもよいのだ。
私は私で、いつも落ち着いて、穏やかで、幸せで、愛の泉を湧き出していればよい。ただ、私を見ていればよい。つまり、いつも中庸にいる。
その先にある世界のことは、まだよくわからないが、このことに気づけたことに感謝している。相手がいたから見えたこと。利己的な思いではあったが、実践したから、理解が深まった。
この一週間の出来事は本当に大きかった。私の転機になるだろう。私の人生における、様々な人の関わりは、どんな関係であろうと、最終的にはすべてが愛だったと気づくんだろうな。
昨日の仕事でも
結構現場が立て込んで、リーダー格の先輩が、周りに激を飛ばしながら、キリキリ動いていた。余裕はなく、我を忘れている感じ。責任感ゆえなのだろうが、苦しいだろうと思う。
そして、あまり器用ではない私に、容赦なく指示が飛ぶ。束の間、ほっと一息ついている瞬間に、あれやって!これやって!目の前しか見えていないから、時にはモヤッとすることも言われる。これは、基本的に『私を愛してください。大切にしてください。』という私側の欲望がある限り、傷ついたり、嫌な気分になったりする。
集中的にガミガミ言われてしまう職員が一人いる。動作がゆっくりで、いろんな意味でゆっくりしている人。その動きや判断スピードが、受け入れられないのだろう。リーダー格の、ピリピリした先輩方は、かなり厳しく接しているように見えた。私なら、悔しくて泣いたり怒ったりしちゃうかもなあと、見ていた。
しかし、彼女はいつも変わらず、穏やかでいる。感情の起伏もなく、静かで優しい。現場がバタバタして、私が心臓をばくばくさせながら動いていると、優しく声をかけてくれるのは、その人だけだ。彼女の存在にほっと安心する。
無条件の愛でいるのかもしれないなと思った。
先輩に厳しくされても、「愛されたい。褒められたい。認められたい。」という欠乏がないので、ただ、淡々と目の前に起きる出来事を眺めていられる。傷ついたり、感情を揺さぶる原因が無いので、静かにニコニコしている。ただ、優しく愛である。
こんな身近に、実践者がいたんだな。
忙しい時に、バタバタしたりキリキリしたり、超スピードで動かなくてはならないというのは、一側面から見た正義であろう。それに翻弄されず、自分を見失わないように生きる実地試験を受けさせてもらっているのかもしれない。
何事も実践。
現象に翻弄されず、いつも真ん中に居る。訓練あるのみ。
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