『最初の神 アメノミナカヌシ 海人族・天武の北極星信仰とは』を読む
令和7年12月11日(木)
【『最初の神 アメノミナカヌシ 海人族・天武の北極星信仰とは』を読む】
妙見菩薩像の謎を追う旅も、終盤となってきた。
なぜ、妙見島という名前がつけられたのだろう?妙見ってそもそも何のことだろう?工場や廃棄物処理場の並ぶ軍艦のような島に妙見という響きを纏わせるには、違和感があった。きっと深い意味があるんだろうと思った。
仏教で言う妙見菩薩は、神道ではアメノミナカヌシであって、北極星や北斗七星を神格化した信仰。神仏習合の時代は両者は同一視されていたというざっくりとした理解で、10日余り、無邪気に謎を追ってきた。
単に「星の神様だなんて、ロマンチック~。」というぐらいにしか思っていなかった。七夕の織姫と彦星とか、星座の神話とか、そういうイメージに引っ張られていたからだ。
私には特定の信仰はない。仏教も神道も一般の日本人として好きだ。キリスト様やマリア様も優しそうで好きだし。日月神示もバガヴァッドギータ―も読む。宗教として何かひとつを信じているわけではなく、全てに神が宿っているというような八百万の神の感覚は持っている。一輪の花にも、一粒の米にも有難い何かが宿っている。そして私にもあなたにも。太陽も月も星も、尊い存在であると感じている。日の出を見れば自然と手を合わせ、日々の恵みへの感謝の気持ちで胸が震える。星空を見上げれば、気が遠くなるほどの遥か彼方から届いた光に神聖な気配を感じて目を潤ませる。富士山の姿を目にするだけで、ただただ理由もなく嬉しくて心ときめく・・・・。
私の中に、日本人として先祖から連綿と引き継がれてきた遺伝子の中に、稲作民族と、海人民族、縄文人という主に三者の培った感覚が融合しているのを感じる。それらはバラバラで境界を際立たせているわけではない。自然な気配で、あるがままに素直な感覚として交じり合っている。
一神教とか、多神教とか、外国の信仰とか、日本の信仰とか、何が善くて何が悪くてと比較するつもりは毛頭ない。たったひとつの宇宙真理を多面体と捉え、別方向から眺めて丸だ三角だ四角だと、見えたままに表現をしているに過ぎないのだろう。神聖幾何学を平面で見るか立体や複々立体で見るかでも受け取る情報量や気づきの次元は大幅に違う。人類は、真理を求めて生きてきた。それをある側面から眺めた「歴史」として記録したものを私達は学んだ。流転する歴史の中で、権力者や庶民の信仰が果たした役割は大きいと思っている。そういう意味で、妙見島の名の経緯や、妙見信仰について知りたかった。
ちょうど図書館で、ぴったりのタイトルの本を見つけた。読み物としてもとても面白かったので気になった部分を抜粋してここに記録しておく。
中世以降の妙見島がどのように翻弄されてきたのか、「浮洲」だけに文字通り流されてきたわけである。ちなみに現在は、しっかり護岸工事がなされ、流れない島になった。それも意味深い。時代の流れの中で、妙見島はその姿を通し、大切なメッセージを伝えようとしてくれているようにも思う。
まずは、妙見(北極星)信仰とはなんぞや?という謎を解明する一助になれば嬉しい。
『最初の神 アメノミナカヌシ 海人族・天武の北極星信仰とは』
戸矢 学 河出書房新社 2023・8・30発行
〈要点抜粋〉
第一章
北極星信仰の実態・・・海に生きる者に唯一の指針
北極星(北辰)の顕現
「古事記」で第一番に登場する神は、アメノミナカヌシノカミ「天の真ん中にいる神」という意味。→ 唯一不動の星、北極星を連想
「日本書紀」では本文にこの神は登場せず。注の一書にのみ記載。
アメノミナカヌシの固有の研究書は皆無に等しい。伝承される事績も神話もまったくない。これでは信仰や祭りが発生するはずもない。
アメノミナカヌシを祭神とする神社は全国に約1500社。この中に古社はほとんど含まれていない。ほぼすべてが中世以降のもの。妙見神社系は神仏習合以降のもの。水天宮は明治になってから祭神を変更。合祀、配祀したものも少なくない。この神を祖神とする氏族もない。
古来特定の信仰対象とならなかったが、幕末に平田篤胤が独自の教学を作りあげたところから突然広まることに。
なお、仏教の妙見信仰や道教、陰陽道の鎮宅霊符神信仰は平安時代中頃にはすでにあった。明治初年の神仏判然令の公布にともなって廃棄されるのを防ぐために、祭神をアメノミナカヌシ神とする神社へ改変したところも相当数に上がる。
北極星と道教
北極星を始源神ととらえる。呼称が多種多様であるのは、その神の能力霊力また由来や位置づけが信仰者や時代によって多様であるため。指しているものは同一。
◆道教・陰陽道・・・鎮宅霊符神・元始天尊・天皇大帝・太一・太極
◆仏教・・・・・・・妙見菩薩・北辰
◆神道・・・・・・・天之御中主神・天御中主尊
この神は、時とともに変容。初め道教の最高神である鎮宅霊符神として信仰。仏教の妙見信仰と習合。さらに神道のアメノミナカヌシ神と習合。その根拠は、いずれの神も本体は「北極星・北辰(北天の星辰)」とされているから。
北辰と北斗が混同される例もあるが本来は異なるもの。
北辰・・北極星の神格化
北斗・・北斗七星の神格化
『史記』に「北斗は天帝の乗車。天帝は北斗に乗って天上を巡り」と記されている。天帝が活動するために北斗が必要不可欠と言う意味で一体と解釈したものであろう。
北極星は海洋民族の指針
江戸時代は神仏の区別なく一般民衆に鎮宅霊符神のお札は人気だった
明治政府によって神仏分離令が発布され、習合形態は一切禁止に。神社はアメノミナカヌシ神。寺院は妙見菩薩に呼び名を変えている。
星宮・星神社系統
北辰信仰(妙見信仰との習合を含む)
中村神社由緒「北極星・北斗七星は方位を示す重要な星。それゆえ馬術や放牧が盛んであった東国の武士たちにその信仰が広まった。とりわけ関東平野は日本の中で突出して広大。方位を判断するための指針がきわめて少なく、まして宵から夜間にかけては天空の星を目印にする以外手段はない。夕暮れ以降の平野地は夜間の大海原のように頼るべき指針は星のみ。これが北極星信仰の由縁となった。」
「星」を信仰する者たちは(海人族であろうが)ヤマトにまつろわぬ者たちであって、彼らの信仰する星神であることから当初は悪神としていた。(「日本書紀」の記述)
『古事記』では「星」の記述がほぼ皆無=山人(天孫族・縄文人・土着のもの)の記録
『日本書紀』では多様に記述=海人(海人族・海洋民族)の記録
もともと「星」の信仰祭祀は「醮祭(しょうさい)」といって、道教の冬至の祭儀。これを日本の密教が採り入れたものが星祭り、星供養。旧暦の元旦や立春、冬至などにおこなわれる。
北極星と四方拝
天皇という尊号は道教の最高神である「天皇大帝」からきている。天皇にとって北極星・北斗七星は古来特別なもの。
北辰とは「北天の星辰」の意。「北極星」と同一であるが「北辰」が古く、北極星は比較的新しいもの。したがって道教・陰陽道でも神道でも「北辰」と呼び「北極星」とは呼ばない。北辰信仰という呼び方は古くからあるが北極星信仰とは言わない。
北辰は道教や陰陽道の信仰の中核。これを鎮宅霊符神と呼ぶ。そのお札「太上神仙鎮宅霊符」はこの世で最強の護符とされる。その中央に描かれているのが鎮宅霊符神で、頭上に北斗七星、足元に亀と蛇。風水四神で北を表わす「玄武」のこと。四神相応(青龍、朱雀、白虎、玄武)それぞれの神獣が自然界の形となって「相応」すれば、その中心は天子の宮になるという思想。
この神が一般の信仰対象になったのは江戸時代に入ってから、北極星の神格化である妙見菩薩と習合されるようになってから。平田篤胤が復古神道を標榜するに際しアメノミナカヌシを創造神と位置付けたことも寄与。しかしそれらは近世以降の変形。我が国で古来既にあったカンナビ信仰こそはその証。北に高山を仰げば必ずその上に北極星を仰ぎ見ることになるのは必定でそれは遥か古の縄文時代までさかのぼる。
稲作民族=最も大事なのは太陽。稲を呪物とする信仰を求心力とする村落共同体が国家建設に邁進。
海洋民族=最も大事なのは北極星。天文地理の科学に基づいて航海技術をきわめ、日本列島においては港(津)を中心とする海辺の開発による国家建設を列島全域において着実に行って来た。
七世紀後半にその太陽と北極星によって呪術と科学を統合しようとした天皇があった。そのキーワードは、天空にあって唯一不動の星神であるアメノミナカヌシである。結果は以降の日本の在り方を決定づける歴史的重大事となった。
第二章
北極星が統合した呪術と科学 天武帝が企図した陰陽道国家
始めて占星台(古代の天文台)たつ
天武紀四年(西暦675年)『日本書紀』より
これこそ呪術と科学を統合した証であり象徴。この時から国家機能のひとつとして公式に天文観測と占星術がおこなわれることになった。
天武天皇の諱は大海人(おおしあま)
天武帝は道教の「天皇大帝(=北極星=天の支配者)」から天皇を採り、論拠用法を記紀によって展開。その総称者と考えられる。天命を受けたればこそ帝位も保証。それゆえ常に天意をうかがう必要。天意によって治世は行われなければならないという意図。天意をうかがい、天意を天皇に伝える役目を負った機関が陰陽寮。
天武天皇は、ヤマト国は自分が滅亡させた、まったく新たな国家として日本国を創建したという意識を持っていた。国王の呼称も国家の呼称も新たなものを採用。法規も官位も宗教も宮殿もほぼすべて改変。我が国最初の公式国書誕生(古事記と日本書紀)天武天皇は『古事記』においてアメノミナカヌシ神を最高神とする必要があった。『日本書紀』(天武政権の正当化が最大の目的)では最高神としていない。ここに天武の国家構想を解き明かす最大の手がかりがある。『古事記』は成立当初から宮中にとどめられており、天皇家の私家版扱いだった。ようやく平安中期に公表。宮中に秘されたのも、日本書紀の系図が失われているのも桓武天皇の意向が強く働いたともされる。
天武は伊勢神宮を頂点とする国家神道を確立。神宮を頂点とする「まつり」こそ日本民族の精神的支柱で国家の基本であるとした。「まつろふ」=服従 「まつろはぬ」=不服従 これ以降、蝦夷を始めとする天皇祭祀体系外にある土俗の者たちを「まつろわぬ者」と呼ぶように。天武は娘を初代斎王(後の斎宮)として伊勢に送っている。これによって神道は完全に天皇によって掌握された。
天武の計画の一つが「式年遷宮」国家儀礼として定め置くことによって日々継続的に神道教化活動をおこなわせることに。遷宮の才はあらためて神道を国家国民の信仰として印象づけることができる。これが天武の政策だった。
この時、アマテラス神は太陽神になった。これまでアマテラスはヤマトの人々に信仰も崇拝もされておらず氏神とする氏族も存在しない。しかし稲作を国家施策とする日本にとって太陽崇拝こそ最もわかりやすい信仰対象。天武はアメノミナカヌシ神(北極星崇拝)に続いてアマテラス神(太陽崇拝)を打ち立てた。天武による「再生による永続」はその後の日本文化の根元の思想になった。私たちの認識している「日本国家」「日本文化」のコンセプトは天武によって陰陽道に基づいて創られたものである。
国家神道の基礎はこの時にほぼ完成。すなわち素朴かつ原始的な神道信仰から進化した信仰(科学的信仰=儀式整備、全国的神社体系化、遷宮システム考案)へ。新たな試みは惟神道を神道へと一変させ、「国家によって管理される信仰」となった。
古代日本最大級の内乱「壬申の乱」大友皇子と大海人皇子の国を二分する闘い
『日本書紀』に大海人皇子が占術器具で天意をうかがう場面がある。道教根本思想「天円地方」という宇宙観に基づいて造形。天円の真ん中には北斗七星が刻印。
大海人皇子は幼少期に凡海氏((おおしあま)=尾張氏などと同族の当時の海部一族の首長であった)に養育されたゆえ。
海部氏とは
元々「海の仕事に携わる人々」漁業および操船航海術によって朝廷に仕えた品部の一つ。記紀の応神朝に「海部を定めた」とある。対朝鮮半島の水軍兵力として、とくに海人を組織することが求められたからだと思われる。
全国各地の海部を朝廷の下で伴造(首長)として統率する役割を果たしたものが同族の阿曇連や凡海連でともに渡来系氏族。海人族とは海洋民族のこと。陸地民族とは異なる規範を持っている。地理観や規模観がダイナミックである種の国際性を先天的に身に着けている。世界各地に遊飛するが、陸地の政権との軋轢から分断と定着を余儀なくされる。海部氏(丹後・籠神社)尾張氏(熱田神宮)津守氏(住吉大社)など、その他有力氏族が祭祀家であるというのは早くも古代には定着。海人族が各地で実力者として定着。大海人皇子は海人族のバックアップがあった。
東漢氏とは
大海人皇子はこの「渡来の知識」を飛鳥という地縁からもまた凡海氏との関連からも東漢(やまとのあや)氏一族から学んだ。その知識技能は多岐に渡る。歴代朝廷や蘇我氏に重用。品部源流。古代部民制の契機となった渡来氏族。基本姿勢はコスモポリタンでその結果天皇皇族の暗殺や政争の際の謀略などに関わることが多かった。飛鳥で入植し一大城塞都市となした渡来の知識集団。
神格化された天皇
現御神(現人神)という観念の創造(道教、儒教、仏教にもない)天武は生きながらにして神になった。天皇はアメノミナカヌシ神と一体になった。皇后の鵜野讃良(持統天皇)が即位した時、アマテラスが天孫降臨神話の論理に組み込まれることになった説あり。女性天皇は巫女としての位置づけ。女性であるかどうかにかかわらず天皇は「三貴子を祀る祭主」である。この位置づけが確立されたのがこの時代。
天文遁甲
天文を読むことのできる能力こそが政。国と国民とを統べる能力だった。
陰陽寮と陰陽道
八位の姓が明示する古代日本の支配層
海洋民族=海人族 南方から渡来した人々。主にインドネシア系とシナ江南・インド系の二系統。縄文時代は航海や漁労を生業とし、時代が進むにつれ海上輸送や海上軍事に従事するよう特化。これに対して中央部のヤマトを中心に国家体制を築き統治を広げてきたのが稲作民族(天孫族)この両者と、土着していた縄文人の流れを汲む人々との三者を統一するために考案した位階システム。皇別(神武天皇の後裔血統)、神別(神武以前。天孫および天津神、国津神の後裔)、諸蕃(渡来し帰化した氏族の後裔)の三階層に分類しその祖先を明示。
海人族は神別の一員(ヤマトの神々の子孫)となった。
ヤマト朝廷は海人族の統治支配する国々が欲しかった。彼らをヤマトが無視できなかったのは、その統治方法が信仰によるもので、これはヤマトの戦略・政策と同一であったため。
桓武天皇によって平城京から平安京へ遷都。これは明らかな政変。神別、諸蕃の時代が出現。それと相前後しアメノミナカヌシは忘れられた存在に。
第三章
北極星の天下取り 坂東武者は関東平野を馬で泳ぐ
よみがえる海人族の科学
江戸の螺旋水路
東京の鉄道、道路
天海の呪術。すべての機能を富士山に収斂。富士山を全ての根源に位置づける。
家康は天海とともに二荒山に遺骸を納め、北極星すなわちアメノミナカヌシ神を背に陰宅風水として真南の江戸を守護する神霊となった。天武天皇の構想を東国坂東で利用。
東漢氏一族総力をあげて天武朝八代の政権を高度な技術と先端技術で支えた。
江戸風水が真北の二荒山を祖山としてた。真北は四神の玄武であるから、江戸に置いて古くから北辰信仰の対象。日光白根山は四神の玄武として江戸開府以来設定。
徳川以前から関東は頼朝恩顧の坂東武者たちが覇を競っていた。
古来、伊豆・三浦から房総・常陸に至る太平洋岸には海人族が居着き、その流れを汲む氏族は日本一広大な平野において領地を切り取るのが習い。その過程で発達したのが馬術。坂東武者の戦闘は騎馬戦が基本形態。刀鑓より馬上からの弓射が最大の武力。大平原を海原を泳ぐように夜を徹して疾駆するのを常の習いとする。とすると何より重要になるのが北極星ということになる。必ず同じ位置に視認できる。北極星さえ視認できれば夜間の活動も迷うことはない。
関東平野において昼間は富士山。夜間は北極星が指針。灯火や松明を掲げて夜間に戦闘を行う夜襲は坂東武者の好むところであった。日が落ちてよりは北極星および北斗七星のみが頼り。北辰信仰、妙見信仰はそんな環境で浸透。星を家紋とした氏族が坂東武者に見受けられるのもそんな所以あってのこと。千葉氏の「月星」家紋はその典型。千葉氏氏神千葉神社はアメノミナカヌシ神を祀っている。千葉氏が海人族の裔であることの証左の一つ。別名妙見本宮。
関東全域に「星神社」「妙見信仰」を広めたのは千葉氏や三浦氏を始めとする坂東武者たち。彼らはかつて定住地を求めて未開の関東へ入植してきた海人族の末裔。先祖代々「星に親しむ人」であった。とりわけ北極星および北斗七星は彼らの氏神であることから関東各地にその信仰対象として社寺を創建した。江戸時代の関東こそは北極星信仰=アメノミナカヌシ信仰の中心地であった。
これを利用する計画を立案したのが家康と天海。陰陽道の呪術・技術を援用することによってここに東国という一大統治装置を建設。一種の鎖国政策によってその後265年間続いた。その間天皇は京都に幽閉状態だった。
東国は鎌倉時代に源頼朝が海人族による建国を試みて(北条義時・泰時が引き継ぐ安土桃山時代に織田信長がさらに推し進めたがその死によって頓挫。ついには徳川家康が成し遂げた海人族による海人族の国。日光東照宮に家康、頼朝、信長が祭神として祀られている由来。
鎌倉~江戸幕府終焉まで約700年間の武家の世は伊豆の北条、相模の三浦、尾張の織田、三河の松平(徳川)という海人族の裔によって成し遂げられた。
家康は、天武の秘策を矮小化してしまった。アメノミナカヌシ神を本来は宇宙を主宰する唯一神となすべきところを日本という島国のさらには江戸を中心とする東国関東の守護神に落魄。それが家康という人物の限界だった。
江戸時代後半、薩長土肥を基盤としていた各地海人族の裔たちは、あらためて海の彼方へ目を向ける。海人族の氏神であるアメノミナカヌシ神を神々の頂点に掲げた復古神道を原動力とすることによってまったく新たな次の段階へ移り行くことを決意。
明治維新の真相。そして、都は江戸へ遷り、城は皇居へ変換。新日本の元首は既に即位していた睦仁天皇が就くことに。王政復古である。
しかし実は王政復古は海人族による日本国制覇とは相いれなかった。
江戸時代の神仏習合神道や吉田神道。明治の国家神道。戦後の宗教法人神道への変換。神道というものが海外の一神教のような固定された信仰ではないことが判然。よく言えば柔軟であり誤解を恐れずに言えば原始的信仰(宗教以前)故であるだろう。
神道の不変の一貫する本質とは、縄文人の信仰(随神道)であって古代より現代にいたるまですべての時代の神道に引き継がれている本質、原型。我が国は元々神道という言葉はなかった。「かんながら」とはヤマト言葉。そのものをあえて呼称する必要がなかった。他の何かと区別する必要もなかった。
仏教が入ってきたことによって、対抗上呼び名が必要になった。神代の昔から続く信仰心という意味で「かんながらのみち」と呼んだ。それから長い時間が経過し「神道」に落ち着いた。古代史神話を考究すればやがては縄文の神というテーマにつながってゆく。日本人は縄文の血脈を確かに引き継いでいる。その証左は「ヤマト言葉」
ヤマト言葉こそ縄文時代から弥生以降すべての時代を貫いて私たちを日本人たらしめている源泉である。この力をコトダマという。このような心ある言葉には霊力神威がそなわっているとされ古くから「コトダマ信仰」と呼んできた。日本は「コトダマの幸う国」であって言葉の霊力が幸福をもたらす国、美しい言葉によって幸福がもたらされる国とされる。私たちの先祖は言葉は神そのもの、神の意志であるとも考えた。
復古神道の真相
アメノミナカヌシが天武天皇による後付けであることは既に指摘した。もともとの日本神話はムスビの二神より発するものでその二神が象徴するものが弥生と縄文に相当するのか、あるいは陰陽か、他のいかなる二元論を示唆するかはともかく、アメノミナカヌシによって止揚されるべき二元として位置付けたのは「天文遁甲に能し」と周知される天武天皇であるだろう。『古事記』の日本神話は北極星のもとに展開する世界ということになる。
この神が一般の信仰の対象になったのは、近世において北極星の神格化である妙見菩薩と習合されるようになって妙見信仰と一体化してからとされる。中世の伊勢神道において豊受大神と天之御中主神を同一視しこれを始源神と位置づけているが、これは渡会氏による付会である。
江戸時代末の復古神道において天之御中主神は最高位の究極神、創造神とされており、この思想が明治維新の原動力となり新たな国家建設の指針となった。
明治政府における神道国教化はアメノミナカヌシありきで推進された。
神道(神社神道)にはもともと神学に相当するものはない。基本的には神社の前で拝礼するだけで良い。学術的な知識を身に着けてみたところでそれと神道エッセンスとは別。何も知識を持たない一般の人が通りすがりの小さな社に寄って無心に拝礼する。これが神道の本筋。
神道は悠久の歴史を持つがその間ほとんど論理的解明をされることがなかった。その必要がなかった。現に神社は存続し人々も祀り続けている。信仰は理論を超越したものであることの一つの証。
神道の発生は縄文時代。山森川海など大自然において特別感のあるものを畏怖尊崇するもの。祈りの形に決まりはなく何らかの形(特定の場所や祈りの形態)で表現すればそれがすなわち原始神道である。祈りの対象となった神々を祀るために依り代(神体)を定めそれを納めるための施設として祠や社が造られる。祈る人たちの気持ちであるから、そもそもは素朴なものである。
それが立派な神社建築となって研を競うようになるのは6世紀に仏教が渡来したのがきっかけである。それに対抗するために神社が建築されるようになる。以降、仏教と儒教と習合し千年余りも混沌の時代が続き、江戸時代半ばを過ぎてようやく神道本来の姿である惟神道にたどりつく。これが「国学」「復古神道」と呼ばれる。
いにしえの純一無垢の姿に帰れという思潮。そのために『古事記』『万葉集』を雑知識を排除して素直な気持ちで研究し古代日本人本来の心である「やまとごころ」をつかもうとした。これが「復古」の意味。
新たな蠢動
明治政府は各地の海人族が連立して成し遂げた政権である。戦国時代以降、政権は天皇を疎外することによってこの国にある種の活力をもたらしたが、その政権も200年過ぎることから停滞が始まり末期症状は誰の眼にも明らかだった。
海人族の流れを汲む若い力によって国家としての近代化も成し遂げることになる。彼らが仰ぎ見ていたのはかつて故郷で見ていた時から変わることのない北極星であった。国家の指針は不動の北極星にあって江戸城に迎えた天皇は自らを北斗七星の一つに位置付けて北極星を仰ぎ見るという祭祀「四方拝」を行う。海人族の政権が天皇を取りこむことによって新たな政権を打ち立てた証。
天皇は徳川からアメノミナカヌシ神を奪還した。天武が定めた「現御神(現人神)」に服した。
鎖国から開国に転換した日本が西洋の列強の前では東洋の一小国であるとの現実を自覚したとき、万国の観念を受容しなければならず、日本の皇祖・天照大御神だけではなく、より普遍的な始原的な神の存在が求められたため。その普遍的存在者の下において日本と西洋を位置づけることが求められた。宇宙全体の中心、宇宙の創造神が求められることになった。天武天皇の構想が欧米列強が押しかけて来たことによって明治の開国でようやく求められることになった。天武天皇の崩御から千年経ってふたたび天皇を現人神と位置付けた新たな統治理念を打ち出したのが帝国憲法である。
新たな四方拝は北辰拝礼(属星拝礼ではなくなった)である。呪文はすべて陰陽道のもので神道の祝詞とはまったく別もの。天皇は属星を選ばず北辰と一体になった。
「うしはく」と「しらす」
『古事記』の国譲り神話の中で、アマテラスの使者が、大国主神が通統治する日本の国を譲るように求めた件は次のように記述。
「汝がうしはける葦原中国は、我が御子のしらさむ国」
ここでは明確に「うしはく・うしはける」は神のなせること、「しらす・しろしめる」は天皇のなせることとの書き分けがなされている。
天皇という称号は、天武帝が「天皇大帝」より採ったもの。しかし「大帝」の語が付帯していないのは、大帝にまで及んでいないことを示すと解釈できる。生前は北斗七星の属星を拝し、崩御して初めて天皇大帝となる。天皇という尊号はいずれ天皇大帝となることを約束された証。いまだ生身であることの名乗り。天皇は、いわば天皇大帝の地上における代理人すなわち現御神(現人神)であって、その役目を果たした後には天に昇り、北辰に合体する。これが天武天皇は考えた天地構造の最終形態。
アメノミナカヌシ神が引き寄せた星辰信仰は、人々に浸透する前に天武帝が崩御し、幻となった。それから千年の時を越えて、江戸時代後半から明治時代にかけて、国学者によってよみがえることとなった。
天文系の神話は、天武帝が海部一族と共に組み立てた。それ以前にアマテラスとスサノヲの対立神話はすでにあった。ここにツクヨミを加えたのは、アマテラスを太陽神(日神)として位置付けるため、その対置存在として必要だった。またそれは、夜と昼の体現であり、陰と陽、男性と女性でもある。これで天武の得意とする陰陽五行に整合する。
それら天文神の頂点には北極星、北辰が不可欠。そこで、アメノミナカヌシを当てはめた。神話のない最高神の誕生である。日本神話は史実である。例外は後付けの創作であることを証明することになる。「天文神話」は潤色であって、アメノミナカヌシという最高神を創作するための潤色。アメノミナカヌシ神は、陰陽の統合体であり、太極、太一などと称されるのは、こういった意味付けをすべて体現するため。
『日本書紀』一書の第四が、はたしていずれの家系の伝承なのか不詳であるが、この伝承においてのみアメノミナカヌシが登場するもので、しかも造化神であることも判明している。こういった種類の各氏の伝承に目を通していた天武天皇はこれに目を付けた。
『日本書紀』とは別に、国内向け(ヤマト民族向け)の統治理念として、超越的存在としての天皇神を最上位に置くことで、統治構造をより明確かつ具体的にしようと考えたのだ。これまでの曖昧で情緒的な天皇(おおきみ、すめらみこと)観から大きく転じて、天空に常にあって、しかも唯一不動の存在である北極星を、歴代天皇の統合体とすることで、天皇統治を完成させることができると構想したのであろう。
アメノミナカヌシ神に天武天皇が着目したのは「主」にある。「あめのみなかでうしはくする神」、なんと都合の良い名であろう。これぞ頂点に君臨するに相応しい。『古事記』という形に昇華させることによって、アメノミナカヌシ神を最後の審判を下す存在、またすべての神々および天皇の存在保証として捉えなおしたもの。天武天皇(大海人)は「そらみつ」者こそが最終的な神の中の神であるとの思想から、それにふさわしい存在にアメノミナカヌシ神を選んだ。それまでほとんど注目されることのなかった神に新世界の構想を託した。
天皇たる者はすべて死すればアメノミナカヌシ神に統合される、というのが天武天皇が到達した思想。アメノミナカヌシ神の依り代(神体)は天に輝く北極星そのものであって、他にはありえない。だからそれを祭神とする神社が地上に存在することなどあえりえない。ところが星神社を始めとする多くの神社に祀られている。その理由は、少なからぬ星神社がすでにあって、江戸時代になってからその祭神をアメノミナカヌシ神に変更したか、または追加合祀したものであるだろう。その罪深い所業を行わせた者は徳川家康と天海。家康・天海は、アメノミナカヌシ神を我が物にしようとして失敗した。東照宮が維新によって激減したのはその証である。
真の復古とは
アメノミナカヌシは観念的に創造された神であるから、神話も祭りも存在しないが、もし仮に神殿から解放されて、天武帝の構想がよみがえるなら、まったく異質な新しい神道信仰となって、現代日本を切り拓く思想的支柱か、ある種の原動力になるかもしれない。もはや天孫族や海人族、皇別や神別、弥生文化や縄文文化などの線引きは混沌としてきているが、私達はそれらの血脈を確実に受け継いでいる。時代の蠢動がそれを呼び覚ますことになるとすれば、これもまたある種の復古であるのだろう。
あとがき
稲作民族にとって何よりも大事なのは「太陽」。稲作の生育に直結する天の恵みの根元。
海洋民族にとって何よりも大事なのは「北極星」。大海原を航行するため方角を示す確かな指針。畏敬するのは自然の成り行き。
日本人は太陽と北極星、いずれも「星」を崇めることで、それぞれ民族的アイデンティティを保有。民族や血族そのものではなく擬制であるが。
稲作民族と海洋民族とでは、古代においては根本的な価値観が異なる。その両者は、別々の経路によって日本列島へ到達。
片や内陸の平地に依拠して国を造り、片や海浜に船着き場にふさわしい地理(湾)を探し出し航海の拠点を設けた。
古代においてそれぞれ人口も少ないところから、互いに交わることは稀であった。
この二者が定住する遥か昔から、列島各地には小規模な集落が偏在していた。闘争を好まず、山の恵みや海河の恵みをわけあって穏やかに暮らす人々である。縄の紋様をほどこした土器を使うところから、後に縄文人と呼ばれる人々である。
平地と海浜と山間と、三つの異なる国が入り交じるかのようにこの列島で暮らしてきた。
そんな均衡が失われることになった。稲作による内陸平地人口の激増である。漁撈や狩猟は自然が頼りであるが、稲作や畑作は耕作技術の発達や統率された人海戦術などによって、経済力も軍事力も圧倒的な力を獲得する。その勢いのままに列島を統治するにはもう一つの力、「祭祀力(信仰力)」が不可欠。信仰篤い古代の人々にとっては祭祀こそがもっとも大切であって、祭祀権を持つものがすなわち統治者とされたからだ。
山人は山の神を、海人は海の神を祀っていたが、平地人のみは人が統治した。これを「スメラミコト」という。「統べる王」のこと。
スメラミコトは、山の神(高御産巣日神)、海の神(神産巣日神)を並立統合し、統合の象徴として北極星を掲げた。これをアメノミナカヌシ神(天之御中主神)という。
記・紀の神話篇に事績も神話もない神は、こうして頂点に鎮まった。ヤマトの成立は、擬制の終焉である。
日本および日本人の歴史と文化は、古事記神話を始めとする様々な原理によって成立しており、その原型は古代から上代においてすでに出来上がっていた。それが長い空白の歳月を経て、今またよみがえろうとしている気配がある。
~終わり~
この後、頭の整理をするために、AIにいろいろ質問してみた。私の理解が浅いので、
質問内容が稚拙だが、AIが分かりやすく説明してくれている。次の投稿で紹介する。
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