AIとの探求18~妙見菩薩像の謎を追う③

 令和7年12月2日(火)

【妙見菩薩像の謎を追う③~古い街道の謎】



東小松川村鎮守 香取神社

〇=陽子

■=Yahoo!AI


さて、妙見島に興味を持ち、島の名称のルーツとなった千葉氏の妙見信仰を調査していたところ、妙見菩薩像を一時的に預かっていた東小松村の香取神社と、千葉氏が信仰していた下総国総鎮守(葛飾八幡宮)、妙見信仰の縁が深い中山法華経寺、そして、守護神である千葉妙見宮(千葉神社)は、千葉街道沿いにあることに気がついた。

*千葉街道についての江戸川区郷土資料館解説文はこちちら

https://www.city.edogawa.tokyo.jp/documents/9204/3-02.pdf


その他、わかりやすい解説シートがあったので、こちらも紹介したい。

「市川で江戸川を渡り千葉と東京を結ぶ大動脈、国道14号は通称「千葉街道」として知られていますが、この道筋がそう呼ばれるようになったのは、明治6年(1873年)千葉市が県庁所在地になってからのことです。明治時代に整備されたこの道は千葉から東京に出るために最初に造られたもので、江戸時代の千葉寺参りの道がほぼ踏襲されましたが、千葉においては東京への距離を短縮するために海岸よりのコースがとられました。」

https://www.pref.chiba.lg.jp/kendosei/meiji150/documents/02kaidou2.pdf



なるほど!
千葉寺は確かに14号線ではなく、大網街道沿いにある。千葉神社は千葉氏の守護神であり、千葉寺は菩提寺。そして千葉城が居城。千葉街道が整備されたのが明治以降であるなら、それ以前の道筋は千葉寺参詣ルートであったのだろう。


(珍しく、Yahoo!のAIに質問してみた)


■Yahoo!AI

「元佐倉道とは」 

元佐倉道は、江戸時代初期に江戸と房総を結ぶ主要な街道として開かれ、現在の千葉街道(国道14号)の原型となった道です。両国橋から竪川の北岸を東に進み、逆井の渡しで中川を渡り、小岩を経て房総へ至るルートでした。 

元佐倉道の概要

元佐倉道は、江戸時代に両国から小岩市川の渡しまでを結び、江戸と房総間の重要な交通路でした。特に成田詣でに向かう庶民に利用されました。 

歴史的変遷

開設と名称変更

元佐倉道は、両国橋が架けられた1659年までに開通しました。1875年には千葉街道と改称され、1920年には国道七号、1952年には国道十四号となりました。 

主要往還としての機能

元禄時代には、小岩市川の渡しから新宿へ向かう佐倉道が主要な往還となりました。しかし、元佐倉道もその後も区内の主要な道として機能し、その大半が現在の千葉街道となっています。 

現在の状況

元佐倉道の一部は、現在の千葉街道(国道14号)として利用されています。江戸川区松島1丁目の八蔵橋から中川土手に至る部分は、旧道の面影を残す史跡として登録されています。 

経路の特徴

元佐倉道は、両国橋から竪川の北岸に沿って東に進み、逆井の渡しで中川を渡り、小岩市川の関所へほぼ一直線に伸びていました。このルートは、新宿経由よりも約4km短い近道でした。 

元佐倉道跡 

元佐倉道は北小岩3丁目の小岩市川の渡しから小松川2丁目の逆井の渡しに至るほぼ一直線の道で、江戸と房総を結ぶ主要な道として機能していました。元禄の頃、主要往還としての機能は、小岩市川の渡しから新宿へ向う佐倉道に移りました。しかし、その後も区内の主要な道として機能し、その大半が今の千葉街道となっています。区が史跡として登録した松島1丁目の八蔵橋から中川土手に至る部分は、わずかながら旧道のたたずまいを伝えています。 

江戸川区登録史跡・史跡

松島12丁目境

昭和58315日 告示



〇元佐倉道って何ですか?何故に「元」?


■元佐倉道は、かつて存在した佐倉と江戸を結ぶ主要な街道です。江戸時代初期に作られ、主に物資の輸送や人々が行き交う道として利用されました。 

🤔 なぜ「元」がつくの?

「元」佐倉道という名前は、後に「本佐倉道」が整備されたことに由来します。本佐倉道が主要な街道となってからは、かつての道は「元の佐倉道」と呼ばれるようになりました。 

元佐倉道: 初期に利用された道

本佐倉道: 後に開かれた主要な道

それぞれの道は、時代とともに役割を変えていきました。 

🗺️ 現在の様子

現在、元佐倉道はほとんど残っていませんが、一部の地域ではその痕跡を見つけることができます。 

道標: 古い道標が残されている場所

地名: 街道にちなんだ地名

伝承: 地域に残る言い伝え

歴史的な背景を知ると、普段の景色も違って見えてくるかもしれませんね。

 

〇元佐倉道は成田詣での参詣ルートだったそうですが、中世の道も同じ街道でしたか?

 

■元佐倉道が成田詣での参詣ルートであったという情報について、中世の道が同じ街道であったかという点ですね。そして、千葉氏の下総国守護時代のことも併せて知りたいということ、承知いたしました。 

中世、特に千葉氏が下総国守護を務めていた時代において、元佐倉道が成田詣での参詣ルートとして現在のように定着していたかは、明確な情報がありません。しかし、現在の道路網が整備される以前から、人々の往来のための道は存在していました。

 

🛤️ 中世の街道と成田詣

中世の成田山新勝寺への参詣は、現代の成田詣のように特定の「参詣道」が確立されていたというよりは、各地から様々な道を通って人々が訪れていたと考えられます。当時の街道は、現代の道路のように整備されたものではなく、地形や集落、荘園の範囲などによって複雑に入り組んでいた可能性が高いです。 

⛩️ 成田山新勝寺の発展

成田山新勝寺は、平安時代に端を発しており、源頼義が平忠常の乱を平定する際に戦勝を祈願したことでも知られています。中世を通じて信仰を集めていたことは確実ですが、参詣道の整備や、それに伴う「元佐倉道」のような名称の道の利用がいつから始まったかは、さらなる詳細な調査が必要です。 

🏯 千葉氏の下総国守護時代

千葉氏は、平安時代の桓武平氏の流れを汲む豪族で、下総国千葉郷(現在の千葉市)を本拠地とし、「千葉」を称しました。源頼朝の挙兵に協力し、鎌倉幕府の成立に貢献した千葉常胤が「師父」と呼ばれるほどの信頼を得ていました。 

🛡️ 守護職としての千葉氏

鎌倉時代から室町時代にかけて、千葉氏は下総国の守護として大きな勢力を持ちました。一時は伊賀守護職や上総守護職も兼ねるほどでした。歴代当主は下総の守護と権介を兼ね、特別な敬意を込めて「千葉介(ちばのすけ)」と呼ばれました。 

時代            千葉氏の主な活動                 詳細

平安時代                 桓武平氏の一族    坂東に下向し、武家として勢力拡大

鎌倉時代                 下総守護に任命    源頼朝を支援し、幕府から厚い信頼を得る

室町時代                 下総守護を維持    関東管領と将軍家の対立に巻き込まれ内紛が発生

💥 戦国時代における衰退

室町時代になると、鎌倉公方と京都の将軍家の対立に巻き込まれ、千葉氏宗家で内紛が起こります。家老の円城寺氏と原氏の対立が引き金となり、宗家の当主が滅ぼされるなど、嫡流は途絶えました。その後、傍流が宗家を継承し、居城を佐倉に移しました。この混乱により、千葉氏の勢力は次第に衰退していきました。 

千葉氏は、下総国を長期にわたって支配した名族であり、その歴史は関東地方の歴史と深く結びついています。

 

〇江戸川区の妙見島の名の由来が千葉氏が妙見菩薩像を祀ったからと知りました。

千葉氏の信仰が、千葉寺・千葉神社(妙見宮)から発し、中山法華経寺、葛飾八幡宮も信仰で関わっているようだと知りました。

また、東小松川香取神社も、妙見島の妙見菩薩像を一時預かっていたようで、千葉寺を除きすべての位置が千葉街道(元佐倉道)沿いにあることから、千葉氏の守護の影響を多大に受けた中世以降の江戸川区という地域と千葉を結ぶ街道が元々あったのではないか?むかし道があるなら調査したいと思っています。


■お尋ねいただいた千葉氏と妙見信仰、そして江戸川区周辺の街道についてですね。非常に興味深い歴史の繋がりが見えてきますね!中世の道筋を辿ることは、現代ではなかなか難しいですが、残された記録や地名から推測することは可能です。 

🌟 千葉氏と妙見信仰の広がり

千葉氏は、その祖である平良文の時代から妙見菩薩を厚く信仰していました。妙見菩薩は、北極星や北斗七星を神格化したもので、護国、災疫消滅、招福長寿に霊験があるとされています。特に千葉氏は、戦の際に妙見菩薩の加護を得て勝利を収めたという伝承があり、一族郎党の守護神として各地に妙見像を祀りました。千葉氏の家紋が月星紋であるのも、妙見菩薩のお告げに基づくとされています。 

🌠 妙見信仰ゆかりの地

千葉氏の拠点であった千葉には、現在も千葉神社(妙見宮)があり、妙見信仰の中心でした。この他にも、妙見信仰に関連する場所として、以下のようなものが挙げられます。 

千葉寺: 市内で最も古い寺院の一つで、千葉常胤が再建し、千葉氏の祈願所となっていました。当主の元服の儀式もここで行われていたと伝えられています。

中山法華経寺: 詳細は不明ですが、日蓮宗の寺院にも妙見信仰が勧請される例が見られるため、千葉氏とのつながりから関わりを持った可能性も考えられます。

葛飾八幡宮: 千葉氏と八幡信仰の直接的な関係は確認できませんが、妙見信仰が日本に伝来する過程で八幡信仰と習合したという説もあります。

🚶 江戸川区と「元佐倉道」のつながり

江戸川区の妙見島に千葉氏が妙見菩薩像を祀ったという伝承、そして東小松川の香取神社が一時的に妙見菩薩像を預かっていたという話は、この地域と千葉氏、そして妙見信仰の深いつながりを示していますね。そして、これらの場所が千葉街道(元佐倉道)沿いにあるという点も非常に興味深いです。 

道の歴史

現在の千葉街道は、江戸時代には「元佐倉道」と呼ばれていました。この道は両国(墨田区)から竪川に沿って進み、中川(旧中川)を逆井の渡しで渡り、西小松川村新町(現在の旧小松川第二小学校付近)から、まっすぐに小岩・市川の渡しまで伸びていました。これは市川・船橋・佐倉・成田へと続く重要な街道でした。 

江戸川区内の千葉街道(元佐倉道)沿いには、歴史的な地名や交差点が現在も残っています。 

五分一橋: 江戸時代から架けられていたとされ、元佐倉道の要衝でした。

八蔵橋: 現在も地名として残っており、この一帯がかつて交通の要所であったことを示しています。

菅原橋、二枚橋: これらの地名も千葉街道(元佐倉道)沿いにあり、昔の道の様子をうかがわせます。

現在の千葉街道(国道14号)は、東京都江戸川区の東小松川交差点から千葉県千葉市中央区までを結んでおり、かつての房総往還を踏襲しています。特に江戸時代以前は、徒歩が主な移動手段だったため、これらの街道は物流や人の往来にとって非常に重要でした。千葉氏が下総国を統治していた中世においても、現在の元佐倉道の原型となるような道の存在は十分に考えられます。 

これらの歴史的な痕跡は、千葉氏の影響力が江戸川区にまで及んでいたこと、そして当時の主要な交通路が信仰の伝播にも大きく貢献したことを示唆していると言えるでしょう。

 

〇ひとりごと

というわけで、AIに回答いただき、今日のところは落ち着いた。夫が金曜日に、千葉神社と千葉城と千葉寺に一緒に行ってくれることになった。千葉城の郷土博物館で千葉氏関連の本を手に入れてこよう。

近々、小岩市川関所跡と市川関所跡、ついでに菅原橋交差点の由来ともなっている北野神社。余裕があれば葛飾八幡宮や中山法華経寺へも参拝に行ってみよう。


《本日の成果》


◆図書館でいろいろ調べて見た!


①江戸川区中央図書館で利用者登録

②レファレンス「古い時代の妙見島および周辺の村について調査したい」

・明治38年発行(荒川&江戸川放水路が出来る前)の『東京府南葛飾群全図』で村名

・昭和6年発行の『葛西村図』で土地の分筆状況

・地名辞典で江戸時代の村の概要

・『江戸地誌叢書』で江戸時代の絵地図

・『新編武蔵風土紀稿 大日本地誌大系第二巻』で妙覚寺と千葉氏代々尊崇の像(妙見島由来)の記述

・『東京低地の中世を考える』 編集: 葛飾区郷土と天文の博物館(1995年)の伝説の中世ー妙見島というタイトルの基調報告文

・新聞検索(ヨミダス)で過去の記事の中から「妙見島」について取り上げられている記事2件 ⇒ 狩野新右衛門という人物の新情報判明!次のブログで取り上げます。

・『江戸川区史』⇒時間無く、後日の調査とする。

このように、「古い時代の妙見島および周辺の村について調査したい」と言っただけで、続々とこれだけの資料を書架から出してきて、目の前に用意してくださった。さすがだ。


◆郷土資料館でいろいろ調べてみた!


①郷土資料を購入

『江戸川区の史跡と名所』

『江戸川区の民俗4 葛西地区の民俗』

『古文書にみる江戸時代の村とくらし①鷹狩り』

『古文書にみる江戸時代の村とくらし②街道と水運』

『江戸川の治水のあゆみ』

『地名のはなし』

『江戸川区の富士講と富士塚』

すべて江戸川区教育委員会発行

江戸川区ブックレットは、1冊210円であり、お財布にとても優しい♡


②展示物の写真撮影

今月いっぱいで、この資料館は移転してしまうので。事務室に詰めている文化財係の女性に聞いてみたら、資料館は移転するけど事務室はこのまま残るそうだ。なので、資料を購入したくなったら引き続きここに来て買えるのだそうだ。慌てて沢山買ってしまったが、少しほとした。

 


コメント

このブログの人気の投稿

透明になっていく

強固な観念の手放し

和解〜そして次なる冒険へ