イエシュアと前世記憶

 


☆『アンナ、イエスの祖母』ナチュラルスピリット発行 クレア・ハートソング著 大槻麻衣子/北川隆三郎 訳


昨夜読了。読み応えがありすぎて、放心してしまった。

特に、最後の晩餐からゴルゴダでの磔刑までの、三次元(目に見える世界)の出来事と、高次元(目に見えない世界)の描写と両側面から味わうという、なんとも新鮮な読書体験となった。いやはや、すごかった・・・・。こういう類の本が出版される時代になったのだなあと、驚くばかりである。1冊の本に印字された文字(三次元情報)に折り重なるように、多次元情報が組み込まれていると言えばよいのだろうか。同時に多側面の真実も伝わってくる。

この感覚は、催眠療法を体験したことがある人ならよく理解できると思われる。実は誰もが多次元存在であり、出来事の意味は多面体で重層的となる。この肉体で見て、聴いて、感じて、脳で解釈している世界はほんのわずかな一側面でしかないということだ。

英文のオリジナル本を文字通り日本語に置き換えての翻訳では、読者にはほとんど伝わらなかっただろうと思う。翻訳を手掛けた大槻麻衣子氏は、ヒプノセラピストであり、日本医療催眠学会副理事長も務められている。催眠療法の第一人者である彼女が翻訳の土台を作ったからこその賜物であり、ここに宇宙の大いなる采配を感じずにはいられない。

現在、地球が五次元領域に移行しつつあるとは、スピリチュアル界隈での常識である。地球及び肉体を持つ人間の次元上昇(アセンション)とされ、信念の手放しや、内面の浄化・統合に導かれている人も多い。2020年以降はその傾向に拍車がかかり、猛スピードで宇宙シナリオが展開されている。外側世界は自身の内面世界の投影であるから、まるで急流を舟で下るようなドラマ展開は、常に内面(精神世界)の変化と捉えることが出来る。

聖書であまりに有名な、イエス・キリスト(イエシュア)の磔刑エピソードは、個人の次元上昇ストーリーに置き換えることもできる。イエシュアは、全人類の罪を償うために肉体的苦痛を自ら引き受け、苦しみつつ非業の死を遂げたわけではなかった。磔刑はあまりに衝撃的エピソードであるが、もし穏やかに言い換えるなら、蛹から蝶への変容とも表現できよう。2000年の時を経て、アセンションに備えた種蒔きだった。

イエシュアの辿った道は、蝶が辿る道でもあり、蝶は私でもあり、あなたでもある。

という示唆で今はとどめておこう。また、前置きが長くなってしまった・・・。


今日は、私の前世療法体験の中で、イエシュアに関して客観的にこの本で検証できた点を紹介してみたい。


☆2022年10月5日投稿『前世療法体験~ヨルダン編』

だいぶ前のブログ投稿だが、以下に再掲する。

そして、今回『アンナ、イエスの祖母』から検証できた部分や新たな気付きを赤字で追記する。このように、催眠療法からの気づきは、数年後に理解につながってくることもある。時期が来れば蒔かれた種は発芽する。


☆テーマ

左胸に不調がある。原因が分かる前世を見たい。

⇒当時は詳しく書いていないが、2020年3月と2023年1月に手術した乳がんのことを不調と書いたのだ。立て続けに体験させられる病の意味を知りたかった。


☆雲に包まれて前世へ

雲が連れて行ってくれた先は、まばらに、短い草が生える荒野。

長方形の人工的に切り出された石材がいくつも置かれている場所。その石材の上に私は立っている。神殿の建築現場のよう。

質素な麻のような布でできたストンとした形の服を着ている男性。土ぼこりのせいで、服は汚れている。40歳くらいか。白髪。体形はがっしり。顔は四角。理由は分からないがとても悲しい気持ちでいる。〇万年前?自信がない。世界地図で言うと中近東あたりか?ヨーロッパよりは下の方。もしかしてアトランティス?彼の名前を確認したところ、ヨルダンと聞こえた。意味深な名だ。

⇒正直、今でも時間感覚がよく分からない。なので、イエシュアの時代だと言い切ることは不可能だが、エピソードに共通点が多いので、紀元30年あたりかも?と微かに思わなくもない。


☆前世の家

自分の家ではない。仮小屋のよう。自宅というものは持っておらず、転々と移動する生活。草ぶきの質素な屋根と柱だけの家。入り口は無く、一方向が開けっ放し。内部には何もない。めったに雨は降らないため、おそらく日除けのための屋根なのだろう。ヨルダンは、武具のようなものを身に着けている。

指示が出るまでここで待機中だと言う。誰かを殺しに行くところ。兵士や役人のようなイメージ。実際に闘ったり、闘いの監視をしたりする仕事についている。

周りには、数十人ほどの人影が見える。地面にしゃがんでいる下働きの若い男性達。ヨルダンの部下か。少し見下しているような感じがする。この国は統治者が治めていて、兵は確固とした上下関係で組織されている。ヨルダンは、下層階級だが、少数の部下を持つ程度の階級ではある。

仮小屋の付近に、馬かロバかラクダだろうか、四本足の動物がいて、背中に皮袋を取り付けている。その中に食料があり、ヨルダンは立ったまま大急ぎで食事をする。座ってゆっくりする暇がない。いつ出動命令がくるか分からないので緊張してピリピリしている。ヨルダンの部下に意識交代してみたが、彼らの間に人間的心の交流は無い。ヨルダンは部下を人間扱いしていなかった様子。

誰を殺しに行くのか、セラピストから質問される。

統治者により、とある人物を殺害せよと命令が出た。統治者にとって都合の悪い人物だった。

(私は最初、キリストではないかと勘違いした。時代が全然違うので、似たような人物だったのだろう。)

殺害されようとしている彼は、いわゆるヒーラーであり、手かざしで、病人を治してしまうため、国民たちの中でうわさになりつつあった。彼のことを、みんなは、「あの人」と呼ぶ。なぜか、誰も名を知らない。殺害を命令された兵のグループはいくつもあり、ヨルダンだけがやらなければならないわけではない。ヨルダンは、気が重く、彼を殺したくないと言う。肩が重い。喉が締め付けられ、嫌な気持ちになっている。

⇒p338~339「ローマの衛兵は、ローマ帝国ユダヤ属州総督に内乱の発生を知らせた。ヘブライ人の指導者ヘロデ・アンティパスに向かい神殿の大司祭アンナスはこの異端者を何とかしてくれと要求した。」とある。最後の晩餐5日前にイエシュアがエルサレムに入城してからの独善的な司祭やローマ兵士達の混乱ぶりが見て取れる記述である。ヨルダンはローマ帝国の下級兵士だったと思われるので、詳しい事情は知らされないまでも、兵士仲間のうわさ程度には事情を把握していたのだろう。この段階では磔刑よりは、闇から闇に葬ろうという短絡的な暗殺計画があったのかもしれない。


☆重要な場面

月が出ている荒野。争いの跡。沢山の死体。遠くに見える丘。口の中が苦くなる。

「あの人」が、統治者の命令を受けた兵に捕えられ、向こうの丘の上で処刑されたらしい。ヨルダンは、その様子を1キロほど離れたところから眺めている。当時、荒野に建造物が無かったため、ずいぶん遠くまで見渡せたようだ。喧噪も風に乗って聴こえてくる。

⇒この場面は体感でよく覚えている。ヨルダンは処刑場(ゴルゴダ)からは遠く離れた場所にいるのだが、荒野を渡る風に乗って、喧騒が伝わってきていた。そして、いくつかの低い丘がボコボコと連なり、空気が乾いているため音の伝わり方がダイレクトだったように感じる。暗かったので夜の場面だと私は勘違いしていた。本の説明によると、刑が執行されていた時間帯に日蝕が起こり、その後は数日間の嵐となり太陽は隠されていたとある。

複雑な悲しみを感じる。ヨルダンは、統治者の命令を受ける上層部のそのまた部下の下の方の立場である。意見など言える立場ではないのだ。

悲しくやるせない気持ち。ヨルダンは彼を密かに慕っていた。一回しか顔を合わせていないが、彼の手の温かさから、無条件の愛を受け取っていた。ヨルダンにとって、無条件の愛を体感したことは人生初だった。そのことが忘れられなかった。彼は他人ではあったが、肉親がいるならこんな思いを抱くのだろうか?と想像した。彼には死んでほしくなかった。たった数分の出会いだったが、ヨルダンは彼を大切に感じていた。

ヨルダンは、以前、彼に手かざしで体を治してもらった経験があったのだと言う。

「では、その場面に遡って見て見ましょう」と、セラピストから提案される。


☆体を治してもらっている場面へ遡る

ヨルダンは、左側の背中に不調を感じていた。(腎臓?)あまりに痛くて、我慢できないため、うわさの彼のところへ出かけて行った。上司に知られると処罰されてしまうため、顔を隠してこっそり出かけた。ただ、ヨルダンも半信半疑ではあった。

噂の彼は、痩せていて普通の人。ニコニコしている。

彼のヒーラーとしてのうわさを聞き付けた国民が、荒野で長蛇の列をなしている。並んでいる人の中には、「本当だろうか?」と意地悪な目で見ている人もいる。治療時間は人によるが、大抵は短い。元気になったり、歩けるようになっていく人が続出している様子。手当は、立ったままの人や横になる人もいる。特に椅子やベッドがあるわけでなく、地面で行われている。長蛇の列はサクサク進んで行く。死にかけた病人が寝たきりの格好のまま運ばれてきていた。その人を治せたのかどうかは不明。死ぬ者は死んでしまうのだろうと何となく思う。

⇒この場面について、私は後から顕在意識で疑いを持った。治療を待つ民衆が長蛇の列をなしていると書いているが、整然と並んで順番を待つ習慣は日本のものであり、荒野の民はきちんと並ぶようなことはしないのではないか?と疑問がわいたのだ。だから、私が催眠で見たこの場面は、私の思考作り出したのではないか?と不信感がぬぐえなかった。しかし、本の説明によると、イエシュアの仲間たちが大勢いて、治療を希望する民の整理をし、静かに順番を守らせていた様子である。歌ったり楽器を演奏したりして、場のエネルギーを清めていた効果もあるのだろう。荒野の民は整然と並ぶはずはないという私の強固な疑いは払拭された。

ヨルダンの番になる。ヨルダンは、彼に悪態をついている。「怪しいもんだ。治せるもんかどうか、治してみろ!」と挑発する。強がらないと、彼の前に立てなかった。勇気を出すために反発心を露わにした。人を見下さないと生きられない時代だったのだ。ヨルダンに「素直」の意味は理解できなかっただろう。

彼は、両手を軽く広げ、静かな微笑みをたたえて、立っている。ヨルダンは彼に痛む背中の方を向ける。彼の手が背中に触れるのを感じる。

その瞬間、背中があたたかくなり、腎臓に怒りのエネルギーを溜めていたことが分かる。ヨルダンの中で突然変容が起こる。心の固い殻がパーンとはじけ、砕けた感覚。ヨルダンは、感情コントロールを失い、ボトボトと涙を流す。心の中で「人の手とは、こんなに温かいものか。私は初めて、人の手の温かさに触れた。」と感じている。ヨルダンは放心状態となり、お礼も言わず、荒野をヨロヨロと歩き出す。身体が温かく、光っているかのようだ。痛みはもう無い。

その後、「あの人」に直接会う事は無かった。

⇒本には、イエシュアがヒーリングにより病気や障害を持つ人々を次々癒やしていたエピソードが描かれている。気功やレイキの施術をするヒーラーなら、なぜ病や障害が消えるのか説明できるのだろう。本には宇宙エネルギーや粒子の側面から詳細が説明されていたが、その変容の仕組みは私には理解できない。イエシュアは、確かにヒーリングに手を使っていた。そして、患者のオーラを読み取り、その魂が病や障害の現象を手放したいと望まないのであれば、それを取り除くようなことはしなかった。あくまで個々の魂の自由選択を尊重していたとある。そのため、イエシュアがヒーリングする相手が全員回復したわけではなく、魂の選択により亡くなる人は亡くなった。民衆からするとイエシュアの施術は失敗することもあると解釈され、病死者の家族から不当に恨まれたこともあったようだ。

ヨルダンにとって、人は「殺すか殺されるか。闘いの相手」でしかなかった。この時、意図せず、「無条件に愛される」体験をしてしまった。衝撃的な出来事だった。

もう、人殺しや兵としての人生は辞めたいと思ったが帰る場所が兵舎しかない。このまま荒野をずっと果てまで歩いていったらどうなるんだろう?とふと考えてみるが、実行できなかった。本能が食べ物を欲した。生きるために、兵舎へ戻っていく。人生の選択肢は無かった。生きたければ、兵として戦いの人生を生きる。それを拒絶すれば、荒野で野垂れ死ぬか、処罰され死刑になるか。いずれにしてもその人生を辞めるには、死しかなかった。

⇒今朝、この過去のブログを読み直して驚いた。私の記憶では、ヨルダンは一人荒野に彷徨い出て、野垂れ死んだはずだ。当時の催眠下では複数あるパラレルを同時に感じ取っていたのかもしれない。幾通りもの過去や未来の可能性が同時に存在し、今ここの意識がどのパラレルにフォーカスしたいか?なのかもしれない。世界線を移行したために起こるマンデラエフェクトも興味深い。

☆次の場面

牢屋に入れられている。ヨルダンは、上司の命令を拒絶したため、死刑になる。もう闘いは嫌だと反抗したのだった。ヨルダンは、自分が残酷な刑により殺されることを知っているが、清々しい気持ちで牢屋から外の月を眺めている。「これでよかった。もう闘わなくていい。人を殺さなくてよくなる。」そう思うと、とても心が軽く安らいでくる。死への恐怖は無い。ただ、安らぎを感じる。肉体は牢に閉じ込められているのに、心は自由を取り戻していた。ヨルダンは、人生初、自分の意思で自分らしい人生を選び取ったのだ。皮肉な対比だが、このシチュエーションに深い学びを感じ取った。「背中がずっと温かい。人の温かさを初めて感じた。こんな優しく触ってもらったことがない。あんな人もいるのだ。衝撃的だった。もう人を殺さない。あの人みたいに温かい人になりたかった。これで終わらせることが出来る。唯一自分が決めた判断だった。最後の判断は正しかったと誇りに思う。」とヨルダンは心中を語る。

生きる=不自由=肉体(物質次元)=目に見える 

死=自由=魂(意識エネルギー)=目に見えない 

という図式が浮かんだ。

どちらがいい悪いではなく、宇宙の仕組みとして表裏一体なのではないか。

表裏一体で、どちらも存在しているのに、どちらか一方だけをあるものと勘違いし、もう一方を否定することで、苦しみが生まれるのではないだろうか。苦しみの代表格は、「死への恐怖」だろう。死を自然にあるものとして、あるがまま受け入れる。その心境に達したから、ヨルダンはあんなに穏やかな心境で牢屋で過ごせていたのだ。その域に達することで、ヨルダンはその一生での学びを終え、(処刑という手段ではあるが)魂の故郷へ戻ることが叶ったのかもしれない。

処刑場所へ。周りは群衆が取り囲み、見物している。かなりの喧騒のはずだが、ヨルダンの耳には入っていない。現実で起きていることがとても遠い。まわりの光景はスローモーションとなり、無音の世界になっている。とても穏やかな気持ちで、杭に縛り付けられる。これから、槍で突かれ、火をかけられると知っているが、動じていない。


☆臨終

魂が肉体から離れ、上空から遺体を眺める。「苦しんでいない表情だ」と言う。


質問:どんな一生でしたか?

前世魂:自分の意思がない、指示を聞く人生だった。

質問:何を学びましたか?

前世魂:人の手が温かいということ。

質問:次はどんな人生を送りたいですか?

前世魂:闘いのない人生・・・・それと・・・(しばし沈黙)人の温かさを伝えられるようになりたい。


☆中間世へ

セラピストに誘導され、魂の行くべき場所、中間世へ到着。

ヨルダンは、そこで感極まり泣き崩れる。「あの人が・・・あの人がいます!」

「あの人」が、ヨルダンを「弟よ。」と呼びかけてくれる。魂を天界へ連れて行くために、迎えに来てくれたようだ。言葉は無いが、「よく耐えた。お疲れ様だったね。」と労われている感覚がする。(ちなみに「弟よ。」とは、血縁の弟という意味ではなく、親愛の情を示す時のフレーズであったようだ。「よう!兄弟!」みたいな)


☆現在の私と前世魂の対話

私:私の左胸の不調は、あなたの前世と関係ありますか?

前世魂は、その件について直接的な回答はしてくれなかったのだが、次のような話をしてくれた。

前世魂:導きがあった。背中に手を添えられた温かさにより、本来の力に戻してもらった。この体験が今後の強みになっていく。ここで得た気付きを「導き」と言う。誰でも導きのタイミングがくる。私も導かれた。

表と裏の関係。物事は表裏一体。表があれば必ず裏もある。背中と胸。前と後ろ。すごく関係している。あなたは背中に温かさを感じる時、温かさと病の苦しみは表裏一体。必ず苦しみ、痛みには、添えられた手があると感じることが出来るはず。両方知る事で学ぶ。どんな時も、必ず背中を温めてくれている存在がいる。それに気づくことが大切。あなただけが特別なわけではない。皆同じ。

私:背中に触れられた温かみ(無条件の愛)と、人間の意識で言う不都合な部分は必ず対になっていて、両方知ることで癒やされていくイメージを受け取った。温かさだけでもダメ。辛さ苦しみ痛みだけでもダメ。両方知らないと。両方セットで、そこから学んでいくというメッセージを何となく受け取った。

私:ヒプノセラピストとして疑問点があり質問します。辛い経験をした前世魂は、どのように癒されるのですか。催眠療法のどの段階で癒やしが起こっているのでしょうか。例えば、前世魂との対話の段階であなたをエネルギーヒーリングする必要はなかったでしょうか。

前世魂:前世の記憶を思い出してくれるだけでいい。こんな前世もあったのだと。そして同じエネルギーがあなたの中にあるのだと、受け入れることだ。特別に前世魂に向けてヒーリングなど、癒しエネルギーを送る必要は無い。なぜなら、前世とはいえ、魂同士は、今ここで繋がっているからだ。このセッションで、あなたが解放され軽くなれば、前世の私も軽くなる。あなたがスッキリすれば、私もスッキリする。今のあなたのエネルギーが私に届く。前世だけでなく、過去も現在も未来も、今ここにつながっている。今のあなたを大切にしてほしい。

*補足:この回答は、一読しただけではなかなか理解できないと思う。前世魂は、パラレルワールドのことを言っていたのではないかと思う。パラレルは無数にあり、意識のフォーカス(現在の波動)に応じて、ひとつのパラレルを体験している。フォーカスを変えれば、世界も変わる。今、喜びに満ちた波動を発していれば、過去も未来も、喜びに満ちたものになる。過去に起きた出来事は変わらなくても、解釈を変えることは出来る。(私は親から憎まれていた。⇒私は親から愛されていた。等)


☆ハイアーセルフとの対話

右上にピカッと光る強い輝きを感じる。イメージの中で人の形を作り、手をつなぐ。滝のそばに居るような清々しい感じがする。実際にエネルギーの流れが滝のように降りてきていたのだろう。ハイアーセルフは愛に満ちているという表現より、「あっさり味の家庭料理」みたいなエネルギー。つまり、私にしっくりなじんでいるということ。私なのだから、当たり前なのか。毎日浴びても飽きないエネルギーといったところ。

私:私に何かメッセージをください。特に、肉体の不調について。

ハイアー:あなたは、いつでもメッセージを受け取っている。あなたは分かっている。時々聞かない振りをしますが。体の事。飲食とか行動の選択とか。本当は分かっているけど改めなかったこともある。

先ほど、セラピストとの事前面談時、彼女から「精神面だけでなく、肉体も大切に。」という話をされていましたね。その時あなたは「そうだ。私は分かっていたのに、つい精神面ばかり向上しようとしていた。」と図星すぎて、心がはっとしましたね。肉体を二の次にしていたこと、本当は分かっていましたね。もうちょっと体のこと過信しないで大切にしてあげなさい。大切なことを言ってもらえましたね。彼女に感謝したいですね。

私:表裏一体について、もう少し分かるように説明してください

ハイアー:人による。あなたの場合は、一つの出来事に表と裏の体験がある。例えば、幸福と不幸、健康と病、など対になっている。片方で済む人も両方体験し学びを深める人もいる。過去世でA面やったから、今世はB面とか、学び方は人それぞれ。どれがいい悪いではない。今世B面だけで、あの人楽そうでいいと思うかもしれないが、実は過去世でA面をやっている。必ず対になる。それが法則。左胸の不調という現象から何を体験し何を学ぶのかが問われている。結果はそんなに・・・結果というよりは、どう感じどう学んだか、どんな体験をしたのかというところを魂は求める。

私:肉体を持つ私としては、複雑。分かる気もするけど。顕在意識と潜在意識の把握する領域、価値観が全然違うという事が分かった。表裏一体の説明も、言葉にすると真実から遠のく気もする。ハイアーセルフが伝えたいことは、エネルギーで受け取るともっと多面的で重層的なのだけど、私の言葉の置き換えがうまくいっていなくて、もどかしい。どうしても物質次元の二元論で語るしかないので、難しい。でも、このニュアンスを少しでも工夫して、誰かに伝えていきたいと思う。


☆日蓮との対話

セラピストの誘導で、日蓮に来てもらう。日蓮は、身延山奥の院の日蓮聖人立像と同じ格好で現れる。日蓮のエネルギーを感じて、あ!っと気付いたことがある。

何と、日蓮のエネルギーと「あの人」のエネルギーが同じだったのだ。

そこで、さらに思い出した。

ブログにも書いておいたが(『日蓮と賢治とイーハトーヴ』10・1)私は、身延山奥の院で、日蓮が温かい手で私の背中を触れてくれたように感じていたのだった。その感覚と、〇万年の時を遡り、前世のヨルダンが、「あの人」から手かざしヒーリングを背中に受けた時の体感が同じだったのだ。その温かさを言葉に変換するなら、やはり「無条件の愛のエネルギー」だ。

「あの人」と日蓮に魂の繋がりがあるのかどうかは正直分からない。ただ、どの時代にもこのようなエネルギーを持った人物が生きていただろうと思った。そして、時代に合わせ、ヒーラー、僧侶、政治家、医師、教師、芸術家など、人々に影響を与える役割を担いながら、分離極まるこの物質次元で、目に見えないエネルギーで応援してくれていたのではないだろうか。「あなたの本質を忘れないで。」と。

宮沢賢治にも同じエネルギーが流れているそうだ。生まれ変わりかどうかは分からないが、太古から連綿と引き継がれている。歴史上の出来事に影響を与える愛のエネルギー。そういう役割をするエネルギーがある。分霊のようなニュアンス。

私は、さらに思親閣でお経を聴いていた時、日蓮から「磨きなさい」とメッセージを受け取っていた。私の中の鏡を磨いていくと、いつか曇りが取れて、本当の輝きを映し出すだろう。「あなたの本質は、光。その輝きを忘れないで。」というメッセージだったのだ。自分の中の鏡を磨くとは、曇り(エゴ)を取り払うことに通じるだろう。

ヨルダンは、「あの人」から無条件の愛のエネルギーを受け取り、自らの曇りに気づいた。それは、闘いのエネルギーだった。ヨルダンは自分の意思でそれを手放したのだ。そして、肉体を脱ぐことで、本質のエネルギーの中へ帰還していった。

光⇒物質次元体験(分離)⇒鏡を磨く(エゴを手放す)⇒光を思い出す(統合)⇒光へ帰還

この流れは、光(魂)が学びたくてやっていることであり、分離体験中は様々なことが起こるだろう。分離極まれば、殺し殺され、病や貧困に苦しむこともあるだろう。しかし、どんな出来事も、高次元から見れば良い悪いは無いのである。どの段階にいる魂も、この循環の中で学んでいる仲間であり、本来意識はひとつである。循環の段階に応じ、様々な役割を演じながら影響し合い、学びを深めていく。

学びとは、最終的には「私(光)って何?」という問いに対する答えを見つけることだ。それぞれの魂は、光へ帰還し、その一生での学びを還元していく。ありとあらゆる体験と感情がプールされていく。得たものを蓄積しながら、宇宙根源の意識は「私(光)」を味わっている。


日蓮:「表裏一体というキーワードと、背中に温かい手が添えられているということを気づいてください。あなたが気づくだけでなく、それを人に思い出させることに、あなたは関わっているのではないですか?」

催眠療法士としての職業のことを言っているのだろう。この道に進んで良かったのだなと思う。

日蓮は、微笑んで立っている。私は、身延山で起きた出来事のお礼を伝えることが出来てほっとした。

病気(現実では治療したり、薬飲んだり)だけを見るのではなく、体験と気付きが大事なんだ。それを孤独に体験しているわけではない。誰もが、どんな病気でも、苦しんでいる人でも、どんな体験をしている人でも、一人ではない。そのことをさらに実感した。


☆解催眠後の気づき

身体がほかほかしていて、熱いくらいだった。ヒーリングのようなエネルギーを浴びた感覚がしている。

誰もが、目に見えない世界から温かい手を添えられていると気づくことが出来れば、戻るべき状態に戻っていけるのだと思う。私の場合は、背中に添えられた手であったが、これは、人によって違うだろう。守られている、応援されている、愛を注がれているということは同じだが、そのことをどう感じ取るかは自由だ。頭を撫でる手、ハグ、手をつながれる感覚や、鳥の声だったり空の雲かもしれない。その人が受け取りやすい方法で、目に見えない世界から寄り添いのエネルギーを受け取るだろう。

そして、ヒプノセラピストとしての軸となる意識を再確認できた。

私は、クライアントの背中に手を当てて、温める役割であるということ。治すことが目的ではない。「あなたの本質は光ですよ。」という信頼を込めて温めるだけだ。(実際に手を当てるわけではない。比喩として使っている。)

世界は表裏一体。

表(目に見える世界。現実)では、クライアントは病や人間関係などで、苦しんでいるだろう。しかし、裏(目に見えない世界。魂。本質)から見れば、それは排除すべき出来事などではない。クライアントの魂が学びのために引き寄せた、大切な体験なのである。どんな出来事も必然であり喜びなのだ。宇宙の流れとも表現されるだろう。

セラピストが出来ることは、「素晴らしい体験をされていますね。今苦しいかもしれませんが、あなたは独りではありません。私が背後から応援していますよ。」という気持ちで背中にそっと手を添える感覚。後は、潜在意識に繋げて差し上げさえすれば、クライアントはその時に必要な気付きを得ていく。

魂の学びは人それぞれ。スピードも違う。病を消したり、痛みを和らげたりすることは一見良い事に感じるが、クライアントの成長段階によっては、まだ早いかもしれない。本人が、「この病をもう少し体験することで、もっと人の痛みが理解できるようになりたい。」と潜在意識で願っていれば、どんな施術を受けても、目に見える改善は無いだろう。反対に、改善する場合は、丁度、そのクライアントは病や苦しみの体験から必要な学びを得たということで、次の段階に進むために必要な体験(施術)を引き寄せたということだ。表現がややこしくなった。伝わるといいのだが。病を治したり、現実を改善しているのは、あくまでクライアント本人の力であり、セラピストは、切っ掛けを与えているにすぎない。治す力、幸せになる力は本人の中にあるのだ。

前から感じていたが、催眠療法のセラピストとクライアントの関係は、宇宙の流れが組んでくれたご縁であると思う。一期一会かもしれないが、必要があって出会わされ、相互に影響し合い、気付きを得て学びを深めていく。両方が成長していくので、セラピストが偉いとか、そんな次元の話ではない。一方向の流れではないのだ。クライアントが可哀そうな存在、助けるべき存在というのも違う。

この両者の関係は、どんな事にも当てはまるだろう。病や貧困や戦争も、悪役と評される人物たちも、影響を与えてくれる大切な役割だ。そこから何を感じ、何に気づき、どう行動していくのか。それがこの人生の醍醐味なのだ。

この気付きは大きかった。

人生におけるどんな出会いも、出来事も「有難う」しかないんだ。

私の左胸の不調も、表裏一体の視点から眺めてみると、腑に落ちた。私は、この経験から学ぶのだ。そして、いつも孤独ではない。背中にそっと手を当てて温めてくれている存在が確かに感じられる。「あなたは光です。」と大いなる愛と信頼を送ってくれる存在が。

そうだった。私はいつも、背中が温かかった。


以上、2022年10月5日の投稿を再掲した。


☆イエシュアに関する他のおすすめ本






こちらの2冊も、書店に平置きされており、最近立て続けに読んだ。
『アンナ、イエスの祖母』は、チャネリングによる情報だったが、こちらの2冊は催眠療法でクライアントから得られた情報である。クムランのエッセネ派でイエシュアが学んでいたことは、『イエスとエッセネ派』に詳しい。
イエシュアの葛藤や人間味あふれるふるまいなど、聖書では決して味わえない人の子としての側面を垣間見ることも出来、こちらもたいそう読み応えがある。
特に催眠療法に興味のある方にはおすすめである。


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