抄読会~目的と手段は同じとは?
昨夜は二か月に一回のペースで行われている抄読会にZOOM参加させてもらった。
使用する本は『You Can Have it All 』
32章〈目的と手段は同じの法則〉ページにして4頁ほどを参加者が順番に声に出して読み上げる。そして、好きなように発言していく。時間は1時間半。
なかなか興味深い内容だったので、以下に紹介してみたい。
二つの姿勢を紹介するが、あなたは今、どちらの姿勢に馴染みを感じるだろうか?
〇「目的は手段を正当化する」という姿勢
・この世の中では結果がものをいう。
・ゴール達成に躍起になって、馬車馬のごとく自分に鞭打つ。
・親などの権威者が用意したお仕着せゴールに従う。
・目的のためなら手段を選ばず。
・成功者は尊敬され賞賛を浴び栄光を勝ち取る。
・目的は手段を正当化するというのは世間の常識。
・家族や友人は二の次、幸福や健康を犠牲にするのもいとわない。こんな姿勢の人は成功者の鑑とあがめられる。
・将来の幸福のためなら今がみじめでも我慢する。
・老後に悠々自適の人生を楽しむため、好きでもない仕事を定年までつとめあげる。
・平和のために戦争をする。
・犯罪防止のために人を罰する。
・ある結果を獲得しようとして、それと正反対の行動をとる。
・このやり方が逆効果だと示す多くの証拠をつきつけられてもこの方式をあらためない。
・『〇〇しなければならない人生」が永遠に続く。
・人生は闘いであり苦しみであり何かを手に入れるには努力が必要。人は競争したがる生きもの。人に心を開くと傷つけられてしまうのがオチ。この幻想を真実にするために人生を一生懸命『すること』につぎ込む。
〇「目的と手段はひとつ」という姿勢
・ほんとうに「目的は手段を正当化するのか?」と疑問を持っている。
・平和を望むなら、自分の心を平和にし、つねにそれを表現する。
・無条件の愛とサポートが欲しいなら、それらを心に抱き、すべての人やものにあらゆる瞬間にそれを表現する。
・100%完璧な人生を望むなら、どんなときも、すべての人、ものに完璧さを見出し感じる。(自分自身も含め)
・宇宙本来の豊かさを呼び寄せたいなら、自分がもっている豊かさを認識し、それに感謝する。
・どのように自分を表現しているかが、そのまま自分にはねかえっているだけということを知っている。
・私が表現する「もの」=私が得る「もの」ということを知っている。
・『〇〇しなければならない人生」は私が望む人生ではない。
・心を開いてそこからわきあがるものをありのままに表現する。そうすれば、苦労しなくても必要なものは自然にやってくる。(宇宙の性質=豊かさを経験する方法)
・人は「する」生きものではなく、「在る」生きもの。ありのままの自分で「在る」ほうがずっとhappyでいられる。
この二つの姿勢について、様々な意見が出された。
☆ある高校生のケース
高校生の彼は、海外留学を目指して受験勉強中であるが、勉強が辛くて仕方がない。よくよく話を聞いてみたところ、目的は「海外に住んでみたい」であり、手段が「親を説得し資金を出してもらうために、行きたくないが大学に入る」となっていた。やりたいことのために好きではないことをして苦しんでいたわけだ。まあ、ここまでは「それって普通だよね?」と大抵の方は思うだろう。この話の相談相手となったAさんは、次のようにアドバイスをしたそうだ。「目的が海外に住むことだったら、別に大学に行かなくてもいいんじゃないの?今すぐ海外へ行ったらいいじゃない。親が資金援助してくれないのなら、アルバイトでも何でもして自力でお金を貯めればいい。好きな目的のために働くなら、きっと苦労も苦労と思わないはず。親の望むとおりにならなくても別にいいんじゃないの?自分を表現するために〇〇したい!と真剣に相手に伝えてごらんなさい。」高校生の彼は、黙ってしまったそうだ。
☆ある知り合いのケース
知り合いが、学生時代、あまりに自転車好きが高じて、自転車を職業にしようと夢を持っていた。Bさんは、同年代でもあり、それを応援していた。しかし、親が強固に反対をした。自転車乗りの仕事など、不安定すぎるというのが理由だった。彼は、結局は夢を諦め、堅実な公務員となって平穏な一生を送ることとなった。そして、余暇を利用し趣味として自転車を楽しんだ。Bさんは、この知り合いの一生を眺めて「無理に自転車乗りの夢を叶えなくても良かったんじゃないの?これはこれで、いい人生なんじゃないの?」と思った。
☆ある作家のケース
目的など持たないようにしている。自分がやりたい楽しいと思うことに夢中になって集中していると、作品が出来上がっていく。傍から見ると、「どうしてそんなに努力できるの?」と不思議がられるが、自分としては努力している意識が一切ない。そうやって、自分の中からわきあがるものに正直に表現をしていると、不思議な導きがおとずれる。意図しなくても、出版が決まっていったりする。かえって、「こうしてやろう!」と目的を意図してしまうと、エゴが働くのか、必ず途中でうまくいかなくなってしまう。自分は目的を持たずに、楽しんでやるようにしている。
☆ある会社員のケース
平日は会社で疲弊するほど働いている。休みの日は、疲れて何もしたくない。ソファで寝ころがって、お菓子を食べたりして過ごしている。時々、何もしていない自分に対して、私これでいいんだろうか?と思ってしまう。幼い頃読んだ『アリとキリギリス』を思い出す。キリギリスのような惨めな結果になるかも?と恐れている。
☆私のケース
3年前までは、馬車馬のように働いていた。すべては、安定した老後のため。未来の悠々自適な生活のためなら、我慢して働くことが常識だと思っていた。ストレスと肉体的疲労、食生活の乱れなど、様々な原因で大きな病気となった。結果、退職することとなった。強制的に苦しい仕事から引き離されたことによって、「もしかしたら、今を楽しんで生きてもいいんじゃないの?」と思えるようになった。まだまだ、世間の常識や「〇〇すべき」という洗脳から自由になれてはいないが、少しずつ、本来の自分を表現することを模索し始めている。今は、催眠療法や潜在意識の事を学んで、自分の内面を知っていく過程が楽しくて仕方ない。未来に確固たる目的があるわけではない。サロンを開こうとか、誰かの役に立とうとか、誰かに教えようとか、そういう目的意識は何となく脇に置いている。今は、学びの過程を思いきり楽しんで過ごしている。こういう意識で居た方が、宇宙の采配が起こり、ベストな流れに乗っていきやすいように思う。頭で一生懸命考えた目的は、実は本当にやりたいことではないんじゃないかな?と思う。エゴは本当の自分を否定したがる傾向にあるからだ。
☆あるセラピストのケース
この二つの姿勢を催眠的に分類すると、前者が「顕在意識的生き方」後者を「潜在意識的生き方」と表現できるかもしれない。どちらがいい悪いではないと思うが。そもそも、自分は「人生は既に宇宙により決められていて、選択は宇宙によって動かされている」と思っている。(上述会社員のケース)さんは、寝転がっていて何もしていないと言うが、人は必ず何かしら動かされる。「私、今日は絶対動かないぞ」と決意して横になっても、何らかの行動をとってしまう。何もしていないようで、宇宙に動かされるのだから、そのままで大丈夫。「目的と手段はひとつ」と言うより「目的とプロセスはひとつ」と言う表現の方がしっくりくる。大切なことは過程にある。好きなことが出来たから良いとか、出来なかったから悪いとか、何が良かったのかはよく分からない。目的にたどり着かなかったとしても、好きなことが出来なかったわけでもない。
☆障害者教育に携わる方のケース
何か出来る人が人なんだろうか?〇〇できる人、〇〇できない人という考えに違和感がある。その人の存在が在るということを大切にしている。もしかしたら、表現手段が、努力義務になってしまい、何かに対して反応することが「〇〇する」ということなんじゃないだろうか。「在る」とは、楽しんでいる自分のこと。人目を気にした途端に楽しいだけではなくなってしまう。
☆宗教家のケース
一か月後に死ぬとしたら何をする?後回しにすると出来なくなる。先延ばしにするのはもったいない。
☆その他のケース
前者の姿勢以外、他に価値観を知らなかったため、揺れながら生きて来た。本音を大事にするか、家族を大事にするか、それぞれの価値観によるものだと思う。親が悲しむと思うと躊躇してしまうのも本音。特に親世代は、我慢しないと幸せになれないと思い込みがあるように感じている。何かやりたいなら何かを犠牲にしなければならないなど。これも誰かからの刷り込みかもしれないが。どんな職業について、どんな不本意な選択をしたとしても、人間として成長していく過程であり、「本当の自分って何?」ということを、いろいろそぎ落としながら学んでいくのだろう。
さて、参加者の話をランダムに羅列してみた。結論は、どちらがいい悪いではないが、「在る」ということを楽しむ自分ということに少し焦点を当ててみてもいいのかな?と思った。このニュアンスを誰かが、「メリーゴーランドに乗って楽しんでいる子どもみたいに」と上手い表現をされていた。
例えば、家事を義務としてこなしていると苦しくなってしまう。やらなきゃいけないと思うことは、やりたくないものだ。しかし、同じお皿を洗う行為でも、ちょっと見方を変えてみる。「お水が出てありがたいな」「きれいになって気持ちいいな」など水に手をひたして「ありがたいな」をそのまま感じていると嬉しさが込み上げてくるだろう。これが必死に「する」ことと、「在る」ことの違いである。「する」は思考(顕在意識)の領域で、「在る」は感じる(潜在意識)の領域である。本当の私につながる入り口は潜在意識の方にしかない。本当の自分を大切にして生きるとは、自分が今何を感じているのかを素直に味わってみるところからスタートするものかもしれない。
その前日に、たまたま友人と話す機会があった。彼女はとある資格試験の勉強をしていたのだが、受験を延期したのだと打ち明けてくれた。彼女には目的があり、そのために有資格者だと何かと有利だろうからと数年かけて勉強をしてきた。しかし、受験を考えると辛くなってきて、勉強に身が入らなくなった。今止めてしまうと、今までつぎ込んできた時間も学びも無駄になってしまうじゃないかと焦るのだが、どうにも気持ちが動かない。結局、受験を延期する決断をしたところ、ものすごく気持ちが軽くなったそうだ。目的のために正反対の行動(やりたくないこと)を取っていたいい例。彼女にとっては、本音に気づくために葛藤するような現実を引き寄せていたのかもしれない。この過程にこそ意味があったのだろうと思う。顕在意識で考えると。「え?今までの苦労がもったいなくない?今まで頑張った証を手に入れた方がいいんじゃない?」と思いがちだが、それこそ「〇〇すべき」という信念に縛られていることになる。不要な信念を手放して、ありのままの彼女を(湧き上がる思いを)表現していけば、彼女に必要な流れが自然にやってくることだろう。何より、吹っ切れた後の彼女の明るい笑顔が眩しかった。
この友人たちと話していて、どのように自分を表現しているかが、そのまま自分にはねかえる。ということをあらためて考えさせられていた。これもシンクロによる学びの機会の采配であろう。必要な流れが起きている。
私の場合、せっかく催眠療法を学んできた。資格も取得したのだから、人の役に立てるようにどんどん活動すべし!と意気込んでスタートしたはいいが、どんどん辛くなっていった。「〇〇すべし!」で施術するので、「〇〇できない」自分が浮き彫りになってくる。楽しいはずの職業なのに、やればやるほど苦しくなる。有料セッションを休止する決断をしたところ、大いにほっとした。気が付くと、重い鎖で自分をがんじがらめにしてしまっていた。
ただ、催眠から得られる体験を楽しもうと目的を切り替えた。「〇〇して役に立つ人になる」(顕在意識が出してくる目的)ではなく、「学びを純粋に楽しむ」(潜在意識が感じる目的)を自分に許したのだ。この意識切替は、ブログでも友人知人にも包み隠さず公言した。「え~?もったいないよ。〇〇すべきじゃないの?」と言ってくる友人は一人もいなかった。ただ、私のこの選択を受け止めて、温かく見守ってくれているのを感じる。この葛藤のあった日々を私は掛け替えのない体験だったと捉えている。この過程がなければ、今日の抄読会で得られる気づきにすら至らなかっただろう。こうやって必要な出逢いを通し、私は少しづつ学んでいる。
さてさて、私はこれから、どのように自分を表現していくのだろう。
2023年の夏至を無事通過し、宇宙エネルギーはより強力となって私たちの潜在意識に働きかけている。様々な仮面や重い鎧を脱ぎ捨てて、より軽く純粋に、本来の光輝く自分を取り戻していく過程は、人それぞれである。
宇宙の流れは本質に戻る旅へと後押ししてくれている。その流れに抵抗すれば辛くなる。流れに乗れば楽しくなる。分かりやすい・・・。
今、あなたは楽しんでいますか?
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