「あるがまま」と「見性」
昨日投稿した、強固な観念を手放すということについて、私が陥っていた罠に言及したい。
強固な観念があるよ。手放すと自由になれるよ。
と、(おそらく自分自身から)メッセージをもらったが、具体的に何を指すのか、はっきりせず、ぼんやりしていた。
手がかりとしては、「○○すべき」というフレーズが頭の中に響き渡ったら、手放しチャンス到来!と理解していた。
しかし、ややこしいのは、なぜ観念を手放して自由にならなければならないのか?というところ。
私は、人間として、成長するためだと考えていた。少しましな人間になりたいと、幸せになりたいと願っていた。皮肉だが、これすら「○○すべき」という観念だ。
観念を手放すべきという観念を·····以下、エンドレスに続く
ああ、人間とは、とことん、ややこしい。自我を使って、こういう罠を幾重にも仕掛けて「もっと遊ぼうよ!」と誘ってくる。何の遊び?「眠り」である。
今朝、読んでいた本に、ヒントがあったので紹介したい。
「物質文明が過渡期を迎えると、人は精神的な充足や成長を求めだします。それはとても素晴らしいことですが、いくつかの落とし穴もあります。例えば、精神性の高い人を生きようとする傾向です。
目覚めやさとりを経験すると、どんな人になると思いますか。例えば、
穏やかで感情の起伏が少ない
誰にでも優しい
いつもほほ笑みをたたえている
落ち込むことがない
物欲がない
性の衝動を超越している
常に寛容的
その他もろもろ。
多くの人は、目覚めやさとりに対してこのようなイメージ、先入観を持っています。そして無意識に、そんな人間になろうと努力するのです。なれるなら努力してもいいですが、実際には僕たちはそのような人になれませんし、なる必要もありません。なぜなら、さとったらこのようになるであろう、というイメージ、先入観そのものが間違っているからです。
もし、さとった人に共通する部分があるとしたら、それは変な人くらいだと思います。
人の評価にあまり関心がなくなり、自分の心のままに生きだすので、多くの場合変人に見られます。言いたいことを言い、やりたいことだけをやりだすと思います。しかしそれも個人差があり、こうなるとは言いきれません。少なくとも、高潔で聖なる存在でないことだけは確かです。
それじゃあ目覚めても意味がないじゃないか。尊敬できないじゃないかと思うかもしれませんが、そのような考え方が既に「人間とはこうあるべき」という観念に陥っています。
そもそも、僕たちの感情やメンタル状態は一定ではないのです。それが生きるということであり、生きるとは絶えず変化している、ということです。
あるときは優しく穏やかでも、あるときはちょっとしたことに腹を立てたりもします。それでいいのです。感情を一定にして、常に穏やかな人であろうとすれば、不自然になるだけです。精神性の高さとは、そんな人間的な面がなくなることではありません。いくらさとった人でも、新しい物が欲しくなったり、性の衝動が体中を駆け巡ったりもします。生きていれば当たり前のことです。
それなのに自分の精神性を高めるために、高潔な人格になろうと奮闘する人がいます。行動を律し、身を厳しさの中に置き、正しい生き方、正しい座り方、正しい修行法、正しい生活態度、正しい·······。
そして、いつの日かさとろうというわけです。でも、決してさとれないと思います。
だって、さとろうとして努力しているということは、いまのままの自分ではダメだということが前提になっているからです。
では、目覚めたらどんな人になるのでしょう。
その答えは簡単です。
その人自身になるのです。
さとりとは、いまのままの自分でOKだということを知ることなのです。自分ではない何かになろうとする態度こそが、さとりを遠ざけています。少なくともあるがままの自分にはリアルなものがあります。完璧であろうとする努力をやめれば、物事は自然に落ち着くところに落ち着いてきます。自分以外の誰かになるのをやめ、あるがままの自分にくつろいだとき、心に平安が広がります。それがさとりです。
いままでに何度も何度も聞いてきたでしょ?
あるがままのあなたでOKだって。
いままでに何度も何度も本で読んだでしょ?
あるがままの自分を受け入れなさいって。
あなたはそのたびに言います。
そのことは知っていますよ。
でも、本当に深く深く、その話を受け入れたことがありますか。
ただ、頭で知っているだけで、実際には先延ばししていませんか。
あるがままの自分でOKかもしれないけれど、それはいまのあるがままじゃない。これでいいわけがない。いつかあるがままの自分にOK出せる日が来るはずだ。
そんなふうに考えていませんか。(笑)」
『さとりの授業』阿部敏郎 42~44頁
SB Creative
突き刺さった。あ~、これは、私のことだ。
つい、何者かになろうとしていた。無意識に。この無意識の自動操縦が、私を勘違い(眠り)の世界へ連れていく。
また、昨日の投稿で、「体験することをやりに来た」と書いたが、こちらの本に、理解に役立ちそうな文章があったので、ついでに紹介したい。
「いまこうして生きていると思っている世界は、単なる夢のような存在です。確かだと感じる肉体も、あらゆる物質も、実体は「無」からできています。僕たちは幻想の世界、夢の世界に生きているのです。僕たちがこうして現世(幻世)に生まれてきた理由はひとつしかありません。夢から覚めること。目覚めることです。
その目覚めが「見性」けんしょう
と呼ばれる体験です。それは実在します。
でも、いくらそのことを信じようとしても無理があるでしょう。僕たちは五感によって作られた世界を真実だと思っていますし、見えないものはにわかに信じられないからです。釈迦が言っているから、キリストが言っているからと信じ込もうとしても、心の底では信じきれません。どんなに強い信念を持っても無理です。信念とは、どこか強制的なもので、心の底ではそう思っていないから信念が必要になるのです。
では、どうすれば目覚めることができるのでしょうか。
その答えは、誰かの話を信じることではなく、自身の体験として知ることです。
例えば空気。空気は見えませんが、みんなその存在を疑うことなく認めています。空気の存在を信じようとしなくても、存在するという信念を持たなくても、あるものはあると知っています。なぜなら、いつも空気を吸っていて、その存在を経験的に知っているからです。
大切なのは信じることではなく、経験的に知ること、体験することです。
「見性」は学問や知識ではなく、経験なのです。僕たちに必要なのは、そのことについて論じたり、賞賛したり、批評したりすることではなく、そのことを実際に経験することなのです。」30~31頁
私は、昨日の投稿で、お恥ずかしい失敗談を披露した。
この失敗経験を経たことで、
「現実は自分が創っている。すべてベストなことが起きている。」
ということを心底実感した。
精神世界系を探求してきた方々なら、これは使い古されたお馴染みのフレーズであり、そんなこと知ってるよ!と笑うかもしれない。
私も知っていた。誰かの書いた本や語る言葉で、何回も目にしたり耳にしてきた。そうなってると信じ(ようとしてき)た。
しかし、
経験に優るもの無し。
知識で知ってるのと、経験で知ってるのでは、全く違う。
知識の方で、語ろうとすると、論じたり、賞賛したり、批評したりする。そこに真理の輝きは無い。「こういうことを語る自分」に酔い、エゴを満足させる行為につながる。
空気を吸って空気を知ることを例にする。その空気を語ろうと、知らせようとはたしてするだろうか。そのようにある。と空気を捉える感覚。私たちは、空気が次の瞬間消えていつ窒息するか、ドキドキしながら生きているだろうか。
眠ることで忘れてしまったこと。
見性体験は、目が覚めて「そのようにある」ことをただ、思い出す。
そのようにある「私」が開花する。
*本日発見した観念
私は、朝のうちに夕飯を作ってしまうことが多い。昼間ゆっくり過ごしたいからだ。「ゆっくりしたい。」が、私の口ぐせになっている。焦らずのんびり、好きなことして過ごしたい。
さて、先ほど、味付け玉子を作ろうと、ひたすらゆで玉子の殻を剥いていた。気がつくと、手早くやろうとしている。「早く、早く」と、自分が自分を急かしている。
あれ?
何で、手早くしなきゃならないわけ?
自分に問いかける。
「早く終わらせてゆっくりしたいから。」と答えがくる。
そこで、連想したのが、次の笑い話。うろ覚えなので、ザックリと。
とある南の島。住人は日がな一日、海辺で寝そべりのんびり過ごしていた。
そこへ、外国から来た人物がやってきて、こう言った。
「働いてお金を稼げば、豊かに幸せになりますよ。好きな物が買えて、好きなことを出来るようになりますよ。」
住人は、質問した。
「お金を使って買う物って、好きなことって何?幸せって何?」
外国の人は、嬉々として説明した。
「そりゃあ、あなた。お金さえあれば、食べたいものも買えるし、行きたい所へ旅行だって行ける。私は、働いてお金を貯めて、バカンスに出かけるんです。美しい南の島の海辺に寝そべって、のんびり過ごすんです。これが幸せです。」
住人は言った。
「なんだ。それならお金は必要はない。だって、私たちは、今まさに、好きなものを、食べて、美しい海辺に寝そべって、のんびりしているからね。」
私には、何事もスピーディに、効率よくこなさなきゃならないという観念がある。そうすれば、短時間にたくさんのことをこなせるからだ。では、なぜたくさんのことをこなす必要があるのか。他の何かをする時間を捻出したいから。他の何かは、人それぞれの価値観で違うだろうが、私は、のんびりすることだ。
私たちは、小さな頃から親や教師に、大人になってからは職場において、「早く早く」と急かされてきた。早いことが美徳だと思い込まされてきた。
のんびりするために、せかせかする。
何じゃ、そりゃ。
ゆで玉子を剥くのが、やらなきゃならないタスクになってしまうと、楽しくない。そんなタスクが延々続く毎日を私が故意に創り出している。
試しに、ゆで玉子をゆっくり剥くことを自分に許してみる。
ゆっくりゆっくり。そうすると、新たな世界が見えてくる。
殻って、こんな感触なんだな。あ、そうだ、模様つけるみたいに剥いて、つけ汁に浸したら、可愛い味つけ玉子になるんじゃない?パンダ柄とか。星とか。わ~楽しい。
こうなると、やっている行為は、こなすべきタスクではなくなる。楽しいからやっている。
「何事も早くすべき」を手放すと、違う世界が見えてくる。
本当にその観念必要かな?
この問いを心がけていきたい。
コメント
コメントを投稿