エゴだって消えたくないのだ

最近のことだ。

大きな、ネガティブな感情が沸き上がってきて、戸惑った。

昨年9月から、催眠療法を学び、セッションを通し、山ほど感情を浄化してきた。

今年に入ってからは、日々を心穏やかに過ごすようになり、我ながら、浄化もかなり進み、エネルギーも軽くなったなあと自負していた。

そんな矢先、冒頭の出来事である。

まだ、私の中に、こんな強烈な感情が残っていたのか·······。愕然とした。

この時は、世界で一番信頼している人物に感情をぶちまけて、(つまり、当たり散らした)発散した。この強烈な感情を誰かにぶつけるしか方法が無かったとすれば、無意識に相手を選んだのだろう。何をぶつけても、無条件に私を受け入れ、許してくれる人。

皮肉にも、一番大切にしたい家族なのだが、どうしようもなかった。ぶつけた相手は、変わらず、大きな愛で、私を包んでくれている。おかげで、感謝の気持ちが湧いてきて、さらに信頼する気持ちが増したのだった。

それにしても、きちんと浄化してきていたはずなのに、何故だろう?

と、解せない気持ちでいたところ、昨夜、エゴについて語られている動画を偶然観て、分かったことがある。

感情というものは、ある程度浄化が進んでいる人でも、出てきてしまうもの。普段穏やかでも、「今日は、私は、機嫌が悪いの。」という日があってもおかしくはない。人間とはそういうもの。聖人君子ではないのだから、そんな自分でOK。

エゴとは、自身の思考が生み出したもの。エゴによりさまざまな感情が出てくる。この三次元世界を生き抜くために、身に付けてきた、自分の分身。

エゴだって、自分の一部なのだから、消えたくないわけだ。

例えば、生きるために身に付けた「怒り」の感情を、「怒りはもう要らないから、消えろ!」と即座に否定したとしても、エゴの立場からすれば、自分を守ってきた自負がある。「消えろ!」と思えば思うほど、強固になる。「消えたくない!」と。

もし、「怒り」の感情を感じたら、即座に否定するのではなく、しっかり感じ切ることが大切。

感情に振り回されがちな人は、もしかしたら、出てきた感情を感じきる前に、「この感情はいけないことだ。」と否定してしまっているかもしれない。

しっかり、とことん、感じてあげると、不思議なことに、その感情は消えていく。

感じる前に、押し殺してしまうと、感情は記憶とともに潜在意識に仕舞い込まれる。感じなかったからセーフという仕組みではない。

感情は、似たようなシチュエーションを引き起こし、「さあ、私を感じて!」と、チャンスを狙い、アピールしてくる。

なるほど!

エゴだって消えたくない。

この考え方は、新たな視点をもたらしてくれた。

エゴは三次元世界で身につけたとは言え、自分の分身である。生きるために身につけた、云わば恩人でもある。エゴは、自分を守るために存在しているので、キッチリ役割を全うするまでは、やる気満々なわけだ。義理堅いというのか。ある意味、愛情深いのだと思った。

その感情をとことん、感じ切れば、「私は○○と感じているんだね。」としみじみ腑に落ちる。すると、そこに不思議な転換が生じる。何かが明らかになる。その新たな発見は、自ら見出だした学びとなり、智恵となる。

感情は、役割を果たし、安心してスッと消えていく。

今までは、ネガティブな感情を毛嫌いし、そんなことを感じてしまう自分を否定しがちであったが、

何となく、エゴを愛おしく感じるようになれた。

不要な感情の手放しをする際に

「その感情を味わい、感謝して、手放す。」と言われているが、ようやく意味が分かった。私は、形だけで、やっていたかもしれない。

エゴだって、自分の分身ということは、愛のエネルギーからできている。「消えろ!」ではなく、「元々の愛のエネルギー(光)に戻ってもいいよ。今まで守ってくれてありがとう。」ということだった。

この宇宙に存在する全ては、愛から生まれ、愛から離れて、愛に戻るための、長い旅をしているのだなあ。より愛を知るために。

というところまでを
夜中の三時に目が覚めたため、書いておいた。

先ほど、何の気なしに、カレーを煮込む合間に手にした本に、もっと詳しいことが書いてあり、ビックリした。私の理解に合わせて、現実化が起きてくる。

以下に、本の一節を紹介したい。

「感情は、人に情報を与える知的システム」

感情は、心構えや思考を反映したものであるために、逆に、感情を通して自分がどういう心構えや考えを持っているかが分かります。心構えは内的姿勢として前に表現しました。どういう状況で、どのような人にどのような感情を抱くのか、よく注意していれば、自分自身の評価基準、先入観、尺度、ひずみに気づくことができます。

つまり、感じることによって、感情は人に情報を与える知的システムともなっています。感情というパワフルなエネルギーはあなたを映す鏡とも言えるでしょう。あなたがイライラしたり、不快な感じがしたり、嫌悪感、怒り、不安を感じるときは、その対象についての心構えに問題のあることが多いので、そのことを通じて自分はどのような人間なのかを知る格好の材料とすることができます。

無条件の愛と受容という至高の心境はとてもハードルが高く、ほとんどの人は自分にとって無縁のものだと考えがちです。至高の精神性とは、思考や観念ではなく、内面からふつふつと泉のようにわき上がる喜び、平安を深く感じられること、物事が一体として感じられること、その心境を保持できている状態という意味です。普段の修練によってやっと到達できる境涯であるとも、また、今すぐにでも獲得できる心境であると言えるでしょう。あなたもたとえ一瞬であっても、この境涯に立ち入ったことがあるはずです。ただ、その心境の持つ振動を保てず、すぐにエゴ意識に引きずり落とされてしまうだけなのです。

しかしながら、実際には私たちの故郷はその無条件の愛と受容という波動域にあり、エゴ意識下にある波動域よりもはるかに長くその高みの波動域の中で生活し、慣れ親しんでいる心境なのです。今からつくり上げる何か困難なものではなく、自分の中に既に存在している心境です。私たちはそれを忘れてしまっているだけなのです。もろもろの感情は愛から派生した、その変形です。日常生活で味わう感情は、自分の中にすでに、高い叙情性を伴う心境があることを思いだす手助けをしてくれている、自分が本来どんな存在であるのかを知らせてくれる知的システムです。

一般通念として、私たちは個我(現在の自己)と今の肉体とが自己のすべてであると刷り込まれてきましたが、実際はそうではありません。それは、自己のほんの一部にすぎません。

私たちは、エゴ意識と根源エネルギーに連なる公我~統合意識が共存した状態で生きています。エゴ意識のみが私たちのすべてではなく、より大きな公我が本来の私たちであることを常に思い出して、意識をその方向へ向けておくことが、感情のコントロールにとって大事です。ここで言うエゴ意識とは、嫉妬、比較、増上、卑下、欲求不満などの感情の影響下に個我の波動がある場合のことです。公我~統合意識とは、やすらぎ、喜び、静寂、清々しさを感じるときの意識状態のことで、無条件の愛と受容の振動状態の意識です。

この至福の状態は、すべての生命体にとって自然の状態、本来の状態です。生命本来の振動状態は至福であって、高度に進化した生命体は自在にこの状態に入ることができます。感情は私たちにとってエネルギー源でもありますから、砂をかむような味気ない生活とは違う豊かさを与えてくれます。

『驚異の高次元世界』木村忠孝 著 たま出版
138~141頁より

 

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