テレパシーおじさん登場
昨日、8月8日
東京は、朝から3時近くまで雨だった。台風の影響は、思った程ではなかったが、激しい雨が滝のごとく道路を叩きつけていた。
台風のせいなのか、ライオンズゲートのせいなのか(宇宙エネルギーが最高潮に達する日らしい)。朝から全身が重かった。一日中、図書館カウンターでの仕事が入っていたので、出勤前に少しでもエネルギー回復に努めた。
水を飲む。簡単な体操をする。気功。大好きな柑橘系のオードトワレを吹きかける。植物や亀に話しかける。神様とご先祖様に、「今日一日、よい仕事ができますように。助けてください。」と祈る。等々。
この体調であれば、一日グッタリ寝ているところだが、仕事なのでそうもいかない。神様のような高次元の存在は、助けてと祈れば、きちんと助けてくれるらしいので、実験もしてみたかった。
さて、図書館でのカウンター対応はデビューしたばかり。まだ何も分からず、オロオロしながら優しい先輩に背後を守られ、一つひとつ、夢中でこなしていった。いろいろ教わることは楽しい。つい、根掘り葉掘り聞いてしまい、先輩を困らせる場面もあり。「焦らずゆっくり覚えて大丈夫です。レアケースは、都度、相談していきましょう。」と、たしなめられた。想像力豊かな私なので、あんな時、こんなケースはどうなの?と思うと、つい回答を焦って得ようとしてしまう。不安がベースにあるからだと思う。私の中に、こんな気質があるんだなあと改めて理解した。他人と接すると、確かに、自分のことを深く知る機会となる。社会に出るのも学びに繋がる。有難いなあと素直に感じた。
ある、一人の高齢者男性がやってきて、黙って図書館利用者カードを、私に向かい差し出してきた。
何だろう?予約本の受け取り?確認のため話しかけようとした瞬間、背後の先輩が、○○新聞をその高齢者に渡した。カードと引き替えに、特定の新聞を読めるルールらしい。
「今の利用者さん、何か言いました?私、聞こえませんでした。」
先輩「あの人は、いつも同じ新聞なのです。こちらから質問すると怒り出す気難しい人だから、いつもこうやって対応します。」
へえ~。常連ルールか。
馴染みの居酒屋へ行くと、オカミサンが、「はい、いつもの。」と言って、好みの酒とツマミをサッと出してくれる。そんな世界が大好きな世代か。きっと奥様も、何も言わずともアレコレ世話をしてくれて、彼の口癖は「言われないと分からないのか!」だろうなあ。
彼のような人は、よくいる。昔、勤めていた図書館にもいた。カウンターに本をドサッと置くので「貸し出しですか?」と聞くと、烈火のごとく怒る。「あ、すみません。返却ですか?」と聞くとさらに怒る。「何で分からないんだ!おかしいだろう!」と声を張り上げる。仕方ないので、本の状態をデータで調べて対処。一言でスムーズに進むことが、時間が余計にかかってしまう。なぜ、置かれた本が貸し出しなのか返却なのか、瞬時に分からないのかを彼に説明したが、炎上するだけだった。こんな理不尽な思いを仲間にしてほしくなかったので、この件は申し送りとなった。質問すると怒り出すので、要注意!と。
ただ、その一件があり、彼が来ると緊張感マックスで対応するので、なぜか貸し出しか返却か、直感で分かるようになった。対面する機会を重ねるうちに、表情やちょっとした仕草、発せられる空気などにより、分かる。一種のテレパシーだったのだろうか?悔しい(涙)
「言われないと分からないのか!」と怒り出すおじさん達は、昭和の価値観どっぷりな世界で、周りの理不尽な怒りに曝されながら、直感を磨いてきた世代だろう。日本独特の察する文化?しかし、私はちょっと疑問を感じる。ベースが愛ではなく、恐怖だからだ。怒られるのが怖いから相手の顔色を伺い、先回りして対処する。恐怖をベースに培われたテレパシーで会話して、お互いに幸せなんだろうか?
恐怖テレパシー盲信者の彼らは、「言われないと分からない」人々を罵倒する。そうすることで、特別対応をしてもらい、自分の思う通りに狭い範囲で世間を変えていく。気の弱い人々をねじ伏せただけなのだが。テレパシーおじさんは、きっと、周りの人々の本音も「言われなくても」ひしひしと感じ取るにちがいない。(ちょっと嫌味です。)
「言われないと分からないのか!」と、気分を害し、荒々しいエネルギーを発する人は、私の身内にもいる。無言で責め立ててくる。今までは、自分自身を責めて反省し、萎縮して生きるしか術はなかった。しかし、心身重い病気を経験してから、そのルールから離れることにした。相手から求められるテレパシー能力を私は備えていない。我が身を守るために、そっと距離を置く。
愛に基づいて察していく文化は、日本人としても心がけていきたい。しかし、明らかに理不尽な場合、恐怖や不快を感じる場合は、取り合わなくていいと思う。
とか言いつつも
カウンターの中から、おじさんが新聞片手にこちらに向かってくる姿を認め、利用者カードを即座に用意し、サッと新聞と引き替えた。スムーズ!コンマ○秒の判断!満足げに帰っていくテレパシーおじさんを見送った。
「ご利用、ありがとうございました。」
いつか、愛に基づく対応ができて、真に心を通わせることが出来るだろうか?
学びは続く。
さて、夢中で一日を送り、帰宅した。ビールがこの上なく美味い!
夫が、いろいろ気を回して、夕食を準備していてくれた。私の大好物ばかりだ。私が疲れて帰ってくるからと、あまり作業しなくてよいように自分なりに考えてくれていた。夫に何かやっておいて欲しいと念を送ってはいないが、思いやりが素直に嬉しい。愛に基づき、思いやりから自発的に行動すること。これこそが本来のテレパシーの使い方なんじゃないかなあ。
「あの人が怒るから、アレとコレを言われる前にやっておこう。」というのは、相手を愛し大切に思うからの行動ではない。本音は、「あの人、怖いし嫌い。出来るなら会いたくない。」だ。本当にお互いにテレパシー能力を発揮したならば、愛の欠如がバレバレで、虚しさしか残らない。求めても、与えても、飢えが満たされず要求がエスカレートしていくのは、そのせいだろう。テレパシーおじさんは、裸の王様だ。
そうそう
気がついたら、全身の重さが消えていた。軽い!元気だ。夫の愛情のおかげもあるが
神様は、きちんと願いを聞き入れてくれたらしい。
神様テレパシーは無敵。
誰かを幸せに、あたたかい気持ちにするためにこそ、テレパシーはあるのだと思った。
追記
先ほど、テレビの短い番組紹介で
心を開かなくては、あなたの思いは伝わらない
という名言を耳にした。
障害で苦しんでいた当事者へ妻が語った言葉らしい
胸に突き刺さった。なるほどなあと、膝を打ちたくなった。
誰も自分のことを理解してくれない!
と荒んだ気持ちになった時にこそ、思い出したいこと。
言葉にせずとも、相手に思いが伝わるテレパシーを信じるならば、思いを察しない相手に苛立ちを感じるものだろう。何で分からないんだ!コノヤロウ!と。未熟な人間めと、蔑みたくもなるのだろう。このくらい察するのが当然だと。
しかしだ。テレパシーの魔法は、自分が心を開いた時にのみ可能だとしたら?すんなり伝わらないのも仕方ないんじゃないかな?
そもそも、苛立ったり荒んだり、誰かを責めている精神状態の時に、人は心を開けない。
もうひとつ
関連して思い出したのが、
問題が起きた時と同じ次元で考えても問題は解決しない。ということ。
恐怖テレパシーを求めてくる人に、怯えて対応しても誰も幸せにはならない。相手も私も。
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