雪が溶けて謎も解けて川になった

 「お墓はどこにある③~雪が溶けたら」(3月27日投稿)の後日談と、宇宙規模の気づきについて。


☆本当に連絡をくれた!

4月13日(土)

〇〇市史編さん係のSさんからスマホに電話が入った。

確かに「雪が溶けたらお墓を調べてきてあげますよ。」と言われてはいたが、私は心のどこかで、そのまま忘れられて連絡も来ないのではないかと思っていた。Sさんは、探偵ではないし、私は報酬を払うわけでもない。Sさんにとっては気まぐれな約束であり、履行する義務は一切無い。

だから、電話が来た時は、「本当に連絡をくれたんだ!」と驚いてしまった。

Sさんは、経過をかいつまんで説明してくださった上で、写真を送りたいのでメルアドを教えてほしいと言った。

☆つながる情報

Sさんは本気だった。雪が溶けたので、私の先祖の墓があると予想される町営霊園へ仕事のついでに足を運んでくださった。まず、その町の〇〇精肉店へわざわざ寄ってくださった。

〇〇精肉店については、先月図書館のレファレンスで知らされており、私から手紙を出していた。その回答が届いたのが4月12日だった。〇〇精肉店の店主は私の曾祖父の弟の家系の子孫であった。昔の写真のコピーや町の温泉街マップ、そして手書きで几帳面に描かれた墓所の地図まで同封してくださっていた。その墓所には、曾祖父の弟家系の墓と、曾祖父の兄が建立した墓(法名が二名分墓石に彫ってあるが俗名不詳)が建っていたが、肝心の高祖父と曾祖父の兄の墓は無かった。精肉店店主も、さすがに高祖父の墓は知らないということだった。

私はそのことはSさんに知らせてはいなかったのだが、市史編さんを仕事とするSさんにとって、スキルを駆使すれば〇〇精肉店を見つけることは自然な流れだったのだろう。Sさんは、精肉店を訪問し事情を説明したところ、「手紙が来ていたから、(私へ)回答を送ったよ。」と言われたとのこと。そこで、店主が私に送ってくれた墓所の地図の下書きの写真を撮影させてもらい、実際に霊園へ足を運んだ。

Sさんは、墓石を四方向から撮影した画像をたくさんメール送信してくれた。ついでに、霊園から眺められる美しい円錐型の山の写真も撮影してくれた。その山は、曾祖父の兄が創設した〇〇旅館を長男が引き継いだ際に、その山の名に名称変更しており、〇〇家にとってはたいそう縁深い山なのだ。それを知ってか知らずかSさんは無意識にそこまで汲み取ってくださったのか、しっかり撮影してくださった。私の先祖たちは、この美しい山を眺めながら、過酷な開拓人生を乗り越えて命を後世に繋げてくれた。そのため子孫の一人として山の姿を拝めることは、感慨もひとしおであった。

☆アドバイス

Sさんは、高祖父と曾祖父の兄の墓が見つからなかったことを気にしてくださり、次のようなアドバイスをくださった。

・〇市内の方に移転している可能性もある。〇市内の同じ苗字の人に聞いてみる方法もあるのでは。

・〇市役所内にも、同じ苗字の人が働いているから、後日聞いておく。

・この苗字はどうやら〇市では2系統あるようだ。一つは、私の先祖の(北陸から入植した)系統。もうひとつは、神奈川県から入ってきた系統。

・戸籍の附票というものがあり、それには住所の変遷が記載されている。確か保存期間は短いので残されているかどうか分からないが、住所が分かれば調べやすいかもしれない。

そして、Sさんは、わざわざ墓誌から調べた家系図まで作成して送ってくださった。「このようにお墓を調査しながら家系図の空白部分を埋めていくのだよ」と手法の一つを教えてくださった。私が今後やりやすいように考えてくださったのだろう。

☆なぜここまでしてくださるのか?

何の見返りもないのに、Sさんはなぜここまでしてくださるのだろう。所蔵している資料を調べて教えてくださるのは図書館のレファレンスにある業務なので、公的サービスとして有り得ることだが、実際に足を運んでくださるなんて・・・・

Sさんは、「もう一つ、お墓探しを頼まれていてね。そっちも一緒に調査中なんですよ。そちらは埼玉の人からの依頼でね。」と笑っていた。どうやらお墓探しを頼まれるのは、〇市史編さん係にとって珍しいことではないようだ。

あらゆる相談事が市役所には日々舞い込むことだろうが、そのジャンルが歴史的なことであれば、全て市史編さん係に解決を委ねられるのだろう。もちろん「お墓探しは私たちの業務ではありません!」と突っぱねることも出来るだろうが、Sさんは、お墓の調査も業務の一環として柔軟に対応しているようだ。(注!私は「お墓を探してほしい」と元々依頼してはいない。地名を問い合わせただけであり、Sさんが私の真意を汲んでくださって申し出てくれた。どこの市役所も同じとは限らない)

これは私の想像なのだが、おそらくそこから新しい歴史的事実が掘り起こされる可能性が潜んでいるからではないかと思う。市史編さんとは、何も地元の名士(旧家)の蔵に保管された古文書類を扱うだけではない。庶民にとっては取るに足らない領収書一枚、メモ一枚ですら、50年100年経過すれば貴重な資料となる。ということは、対象は何も、〇市内に限ったことではない。明治以降、人の移動は自由になったので、〇市の歴史的事実を紐解ける資料や言い伝えが日本全国に流出している可能性もある。〇市にとって貴重な事実を記した何か(日記すら貴重)が、東京の誰かの家のクローゼットにしまい込まれていることだって考えられる。市史をアップデートさせることが使命であるのなら、持ち込まれる相談事の背後に何か潜んでいるかもしれないと考えるのは自然なことだろう。もし私が市史編さん係員だったなら、確かに喜んで持ち込まれた案件に関わるだろうなあと思った。案件は新発見につながる可能性の宝庫だからだ。もちろん、上司の理解があればという前提が必要ではある。

Sさんは、「次は〇市内の同じ苗字の人に聞いてみるかなあ。本日の調査はここまでです。」と言って、引き続き調査を続行してくださるニュアンスを残してメールを結んだ。

☆感動は言葉を超える

翌日、〇市内にある高浜虚子の句碑の画像も送ってくださった。高浜虚子が昭和8年にこのあたりを旅した際に、上述の円錐形の美しい山を目にし、その感動を俳句にしたためたものである。素直な感動が真っすぐに伝わってきて、本物の感動は一切の修辞を排するものなのだなあと感じた。

「松島や ああ松島や 松島や」を例にしてみよう。

あまりの絶景に俳句を読めなかった松尾芭蕉の代わりに、弟子の一人が詠んだ一句とされているが、あまりに有名な俳句である。松尾芭蕉は松島で俳句を詠み損ねたと言われている。つまり、あまりの絶景に感動すると、人は言葉を超えた大いなる意識レベルにまで到達し、その感動を素直に表現しようとしても、プロですら言葉にならないものなのだと伝えるエピソードである。高浜虚子が詠んだ俳句も、小学生でもわかる素直な五七五で綴られており、心底感動したのだな~と推察できる句であった。

この句碑を私に送ってくださるSさんのセンスに心がほんわかとあたたまったのは言うまでもない。

☆置かれた場所で咲きなさいの本意

市役所に勤務するなど、夢も希望もないし、ただ生活の安定を優先したのだろうと揶揄されることも多いだろうが、Sさんのような人物が働いているのを知ると、そうではないなとも思う。それこそ不要な信念であり、こういった思い込みはどんどん手放して行った方がいいだろう。

渡辺和子さんの名言「置かれた場所で咲きなさい」は、あまりに有名であるが、風の時代に入り各々の人生を自由に謳歌しようという風潮の上では賛否両論の解釈が成り立つであろう。

どの言葉もそうであるが、視点をどこに置くかで意味深さが変化するというという前提で語るなら、

「どの人生も私の魂の選択であり、この体験をすることで私の魂は進化することができるのだ。どの体験も失敗ではない。私はこの唯一無二の人生を最後まで生き抜き体験し尽くします!」という気づきに他ならないと思うのだ。

私は4年前に、30年勤めた区役所を退職している。二回もうつ病で休職し、最後は癌を発症し辞める決意に至った。この四年間スピリチュアルなことや心理学的なことを学び、いくつか資格も取得した。個人事業主として開業届も出した。同じ学びを共にした友人と団体も設立し、実際に社会貢献する機会も得た。魂の求めに応じて必要な学びに邁進し、魂の縁の深い方々と出会いを果たせた貴重な4年間だったと思う。だったら、なぜ最初から公務員という職業に就くのではなく、精神世界系の道へストレートに進まなかったのか?と思わなくもない。もしそちらに進んでいれば、大きな病を何度も経験し、苦しむことも無かったのではないか?と。

しかし、今なら理解できる。私の魂は、この体験をしたかったのだ。私が決めた魂のカリキュラムでは、この順番での積み重ねが二極を味わった上で統合へ至るという道筋に一番沿っていた。だから、公務員で苦しんだことも、大きな病を患ったことも、その反動で大きく精神世界へ傾いたのも、必然であった。両極を知らないことには、統合には至れないからである。どちらの体験も大切だった。

そして、魂の求めに応じ、素直に従った結果、この四年間積み上げてきたすべてをリセットし、私は元の場所へ帰ったのだった。なんと私は、不思議な流れに乗せられて、四年前に退職した同じ職場で、以前担当していた同じ仕事に四月から就いている。今度は公務員ではなく派遣会社のスタッフとして委託業務についているので立場は違うが、やっていることは同じである。なぜ、こんな流れになったのだろうと、頭で考えても理解できなかった。せっかく脱出したのに、あんなに苦しかった場所になぜわざわざ戻るのか?おかしいだろう?と頭では考えるが、私のハート部分では、ワクワクときめいているのが感じられた。だからその感覚に素直に従うしかなかった。きっと戻ることで、次なる人生の展開が待っているのだろう。私はそこから何かに気づくことになるのだろう。

ちなみに、私の魂に「この四年間は何だったのか?」と質問してみたところ、回答は「だって、やってみたかったんだも~ん。」であった。(笑)

そんな流れの中、〇市役所職員のSさんとご縁が出来て、私の公務員像の思い込みが払拭されることになった。これは風の時代になったからだろうか。それとも、パラレルを移行したから出会う人物像も変化したのだろうか。

今、私が出会う方々は、初対面であっても、皆、とてもあたたたく、気さくで優しい。私を取り巻く世界は、何だか一段階柔らかくなった。

なぜなら、4年前は戦場のようだった職場が、同じ業務をしていても、ユーモアたっぷりの会話が交わされ全体が微笑みに満ちているからである。もちろん立場が全然違うということもあるが、働き方や心持一つでこうも体験する世界が変化するのだという分かりやすい例になるかと思う。

☆雪が溶けたら謎も解けた

~雪が溶けて 川になって 流れていきます

謎が解けて 宇宙の川になって 流れていきます~

体験をありのままに受け入れていくことの意味を腑に落とせた気がする。

気づきは段階的にもたらされ、一気に核心まで到達することはない。おそらく、この人生をまっとうしたとしても、核心に至るには程遠いだろう。何万年周期の宇宙の流れから見れば、細かく刻まれた気づきのレイヤーこそが、醍醐味なのであるから、私は私の意識担当の今ここでの体験をじっくり味わうのみである。


Sさんが撮影してくれた円錐形の美しい山

☆でっかい丸

今月に入ってから、もう二回も宇宙からでっかい丸を見せられている。
つまり、気象現象のハロのことである。
このブログではおなじみであるから、続けて読んでくださっている友人たちは理解くださることと思う。
そう。私の人生の転換期や、意味ある人物に出会う時期などに、必ず見せられる巨大な丸である。
宇宙からの渾身の「OK」サインであると私は捉えている。
私にとって宇宙交信の合図は気象現象であるが、それは単に私が空を眺めるのが好きだからだと思う。ハロの他には虹や彩雲の形で知らせがくることもある。

人によって、目に見えない世界からの合図は異なるだろう。各々の得意な感覚器官を通して、「なんか不思議だな~。」と思うような体験をされたことがあれば、それがその人にとって宇宙と取り決めたサインなのだろう。

このように、人は目に見えない世界の存在と人生を共同創造しているのだと思う。
たった独りで人生と格闘している人など、一人もいないのだ。この「私」という意識の背後にどれだけの応援と支えがあることか。その証の一つとして、私の例を残しておきたいと思う。

 
4月7日撮影 亀戸上空



 4月13日撮影 靖国神社上空


同じく13日撮影 皇居上空に龍神と鳳凰が合体したような雲




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