はなされし かごの小鳥
12月7日
富士山本宮浅間大社にて、おみくじを引いた。
はなされし かごの小鳥の
とりどりに
たのしみ おおき
春の のべかな
籠の中にいた小鳥が放されて
自由にとび歩く様に
苦しみを逃れて楽しみの多い身となる運です。
世の為人の為に尽くしなさい。
幸福まして名も上がります。
この日、1年前に病気平癒祈願をさせていただいた際に授与された古札をお返しがてら、本殿に昇り、お礼の意味を込めて祈祷させてもらった。
現実では、12月4日に心乱れる事件が起きており、理性と感情の間で揺れ動いていた。そのため、マインドは落ち着かないまま、神前に座していた。
私達と同じ回に参列していたのは、他に二組。人形作家の女性は、自作の人形を奉納しに来たのだろう。受付の際に大きなダンボール箱を二つ、巫女さんに渡していた。
神社への奉納とは、どうやるんだろう?と以前から気になっていたので、たいへん参考になった。彼女に奏上されていた祝詞には、「人形〇〇△△」と、言葉が入っていたので、神職の祝詞を通し、祈祷の意図を伝えられるようだった。
私は今回、作りためたフラーレン(天然石ビーズで作った丸い玉)をいくつか持参していた。共に神前にて手を合わせることで、祓われ清められるのではないかと考えてのことだった。
もう一組の参列者は、歩くのもやっとの高齢女性であり、付き添いの男性(配偶者?)に強めの言葉で叱られながら、ヨロヨロ本殿に向かっていた。思わず手を貸そうかと迷ったが、付き添い男性の心情を推し量ると、何か事情があるようだったので、ただ、見守ることにした。彼女が自力で歩くこと(依存心を手放す?)ところに、彼女の課題があるように直感は伝えてきた。
後で巫女さんと彼女のちょっとした押し問答から判明したことだが、彼女の祈祷内容は悪霊退散であった。私の内心は「!?」だった。だから、彼女の名を読み上げた祝詞奏上は行われなかったのか…。悪霊退散と祝詞は、もしかしたら相性が合わないのかもしれなかった。
そもそも神社は、日頃の穢(氣枯れ)を祓ってもらい、魂の輝きを復活させる場。古の智慧によるエネルギー循環テクノロジーであると捉えている。どちらかと言うと、エゴのお願いを叶えてもらう目的ではなく、すべてのご縁に支えられ生かされていることに感謝して、八百万へ、その気持ちを表すセレモニーを行っているという感覚である。他力のようであり、実は精神的自立が促される。つまり、外側の出来事のせいにするのではなく、内面に原因を見出し、こだわりを一つひとつ、手放していく機会と捉えている。
神のエネルギーは親心に近い。転んだ我が子に、すぐ手を差し伸べることが本来の優しさではない。親心は、瞬間瞬間の命の保護と同時に、一生を俯瞰する視点も合わせ持つ。自分の力で立ち上がり、歩んでいく様を見守ってくれる存在である。だから、現実に起こる困難が、その人にとって、魂の学びのために起きているなら、その困難を乗り越えられるよう応援してくれる(氣付きに至るよう促す)働きである。疲れた時に、自然の中に赴くと、内面の重苦しさがスウッと軽くなっている体験があると思う。私達は、これを浄化と呼ぶのだろう。その時、強固に握りしめていたこだわりを、一つ手放しているのかもしれない。ああ、これでよかったんだ。と、ふうっと楽になる。いわゆる、ジャッジを超える、二極からの解放である。
人間が神と捉えている存在は、何か特定の信仰上の個性を持った存在というよりは、内奥宇宙の働きそのものではないかとも感じている。
祈祷直前に、本殿に大太鼓の音が鳴り響いた。太鼓の振動は、全身の細胞を力強くも隈無く震えさせ、私は大粒の涙を滝のように流した。ど〜ん、と鳴ったら、ど〜っ、である。このように瞬時に強力な浄化が起きていた。
思考ではどうにも説明つかないことが起きる場の一つが神社であろう。目に見えない世界が95%を占めるこの宇宙である。この時、説明がつかないけれど、この人生では、すべて私に必要なことが起きていて、私は愛のエネルギーの中で、育まれ生かされているのだと、喜びと感謝の気持ちが間欠泉のごとく ど〜んっと 吹き出してきた。ただ、もう涙を流すしか反応できなかったのだと思う。
私は、ヨロヨロと危なっかしくも、それでも何とか自力で境内を歩く上述の彼女の姿を通して、人生の困難に埋没する自我と、俯瞰する意識(真我、神、親心、高次元の自己)と、両方の働きを見させていただいたような不思議な気持ちになった。
1年前は、苺ファームのスタッフ一同による奉納に偶然同席し、便乗して神楽奉納まで楽しむことが出来た。神様からのメッセージは、「(舞でも見るように)ゆるりといたせ。」と受け取った。参拝直後に控えていた2つの手術に対して、ガチガチに緊張していた時期でもあったので、このメッセージに緊張が緩んだのは確かだ。どんなご縁にも意味がある。そこから何に気づいていくかが問われている。そんな事も感じた参拝だった。
その後、魂友たちの力添えをいただきながら、二度の入院ライフを舞を観るがごとく、ゆるりと満喫したのは、過去のブログ投稿の通りである。ちなみに、富士山を眺めることが出来る病室だったので、それも不思議なシンクロだった。
1年後の今回は、たまたまのご縁で共に昇殿参拝させていただいた一組から、学びをいただいていた。目に見えない采配は、その時に相応しい現実(幻想ドラマ)を創り上げて、私の感覚にうったえてくる。ここから私は何に気づくのだろう。そんな視点でドラマを眺めれば、すべての出来事は、宇宙の計らいであり、すべてが恩恵に変化していく。
さて、冒頭のおみくじに話を戻そう。
昇殿参拝後、境内のおみくじを引いた。「世の為人の為に尽くしなさい」のところを読んで、私は感極まって、ボロボロ涙を流した。神様メッセージは、多面体で伝わってくるエネルギーである。私の内面は、まだ生々しい傷跡がヒリヒリ疼いていた状態だったので、「人の為」という部分に、思い切り反応してしまった。私は、「神様は優しい…」と言って、境内でわんわん泣いた。夫が静かに寄り添って、私が落ち着くまで黙ってそばに居てくれた。その優しさもありがたかった。
ただ、そばに居て見守ってくれる存在というのは、3次元的解釈では、「何もしてくれない」存在であり、無意味なように感じるかもしれないが、実は最も大切な働きとなっている。本人の中で起こっている変容プロセスを信頼して、大切に見守るエネルギーは、どれだけ渦中の人を支えることだろう。愛は、目に見える形の表現はたった5%。ほとんどは目に見えないエネルギーで、私達を包みこんでくれている。この分離という錯覚の中で、私達は一瞬たりと本当の意味で孤独になったことなど無い。呼吸一つが既に愛の証しである。
私がおみくじの言葉「人の為」に涙を流したのは、そのような目に見えないけれど私達を生かしてくれる大きな愛をそこに感じたからである。私の解釈であるから、読む人によっては違うかもしれない。神様メッセージは多面体で伝わってくる。だから、この一つの言葉にも、いくつもの高次元メッセージが込められている。そのうちの一つが、地球的に表現すれば、親心であり、どっしりとした信頼「あなたは大丈夫。」という穏やかで、揺るぎない眼差しという感覚である。
「世の為人の為に尽くす」とは、よい人(誰かにとって都合のよい人)になれという、目に見える領域だけで語られる意味では、決して無い。
例えば、先述のヨロヨロ境内を歩く高齢女性を叱責していた付き添い男性にも、親心を見ることも出来るということだ。彼女にとって、依存心が人生課題であるなら、少し離れた位置から彼女の歩みを見守る役割が、その人の為になることもある。判断の拠り所は、目に見えない領域の愛に基づく。二極から、いい、悪いと判断している限り、本質的な意味の「世の為人の為」に目を開くことは叶わない。
私にとって、おみくじからのメッセージ
はなされし かごの小鳥の
とりどりに
たのしみ おおき
春の のべかな
は、その二極思考(目に見える形での、よい人、悪い人という判断) = 籠
から、いよいよ自由となり、次なるステージで
のびのびと魂の表現を、楽しみなさいね。
というメッセージと捉えた。
いい人にならなければ
誰かを助けなければ
世の中を変えなければ
確かに、こんな「〇〇しなければ」の呪縛に自ら絡め取られていた数ヶ月であった。分かっていたはずなのに、地球での二極ドラマはあまりに刺激的すぎて(面白すぎて)ついつい、没頭してしまっていた。
いい、悪いを基準に判断する限り、私は籠の中に自らの選択で籠り続けることになる。
言葉の表現ひとつに右往左往し、容易に傷ついたり、傷つけたり、ドラマは波乱万丈に展開していく。
昨夜、魂の兄Yさんからメッセージが届いた。
一連の出来事を
「凸凹言霊事変」と表現してくれていて、おもわず、クスっと笑ってしまった。ああ、そうだ。私は私の歴史年表に、2023年のトピックスを太字で掲載したくて、二極を利用してドラマティックな「事変」を創造したのだ。
魂兄のおかげで、私は自分の人生の歴史年表を眺めるような、俯瞰する視点を取り戻していた。すべてをまるっと受け入れる神視点、親心視点である。
その視点から眺めると2023年の、何と面白かったことか。さぞかし、私の魂は、表情があるなら、満面笑顔であることだろう。
コメント
コメントを投稿