オットーという男
昨夜、アルバイト先でのこと。
図書館なので、書架の整理をするのが主な仕事だ。
CDの棚の並べ方が、以前から気になっていた。整理をする人により、違いが出ていた。
棚の奥に押し付けるように並べる人と、手前に背を揃えて並べる人。それぞれに一長一短はある。より見た目がきれいなのはどっちか。手にとりやすいのは?おそらく、各々のこだわりがあり、違ってしまうのだ。
私にも好みはあるが、正直、どちらでも構わない。図書館に並べ方の基本があるのも知ってる。なぜなら、昔、正職員だった経験があるからだ。今はバイトの身だから、いろいろ矛盾を感じることはあっても、流すようにしている。
ところが、二日前のこと。その矛盾が流せなくなった。
共に作業をしていたバイトの先輩に相談してみた。彼女もどちらが正解か分からないと言った。「じゃあ、今度、職員さんに確認してみましょう。」と、言った。
アルバイト同士で悩んでも、私達には何も決めることは叶わない。結局は、立場の上の人の判断が無ければ、些細なことすら解決できない。右か左か。前か後ろか。どっちでもいいことだが、ルールがあるなら、その通りに仕事をしたかった。その方がスッキリするからだ。
「今度ね。」と言いながら、いつまでもハッキリさせないのが、不思議だった。バイトの身分なのだからと、出過ぎないように。波風立てず、何となく空気を読みながら、無難に作業していくのに、我慢ができなくなった。
分からないなら、質問すればいいじゃない。
早速、判断をしてくれそうな職員に、CDの棚をどう整理するか確認した。作業する人により、違いが出てしまっていること。前に出したのと後ろに出したのとでは、どんなメリットやデメリットがあるのかも、今までの経験から比較して説明をした。
その職員は、書籍の並べ方が前に出すやり方(背を一直線になるように並べる)なので、CDもそうするようにと、回答した。明らかになり、ホッとした。正直なところ、前に出すデメリットも多く、資料の形態により、整理の仕方を工夫したい気持ちはあったが、何人もいるバイトが同じように作業できるようにするには、単純なルールの方がよいだろう。これでいちいち悩まなくて済むと、胸を撫で下ろした。
バイトは、シフトにより出勤日が異なるため、伝達事項は掲示されることになっている。その職員には、作業する人により違いが出ていることも話したので、きっと掲示をしてくれて、今後はやり方も統一されるだろうと思った。
とりあえず、私が話せる範囲で、バイト仲間にはその件を伝え、すっかり安心していた。
翌日の夜、つまり昨夜のこと。
遅番だったので、昼間のバイトとチェンジして、書架の整理に入った。
CDの棚を見て、愕然としてしまった。前日に明らかになったルール通りに、すべて前に出して背を揃えて帰ったのに、一日経過した今、すべてが奥に押し付けるように並べられていたからだ。
もちろん、昼間はたくさんのお客様が入るから、美意識の高いお客様が勝手に動かした可能性もある。しかし。ルールが明らかにされた翌日である。もしかしたら、ルールがきちんと周知されていないのではないだろうか。掲示がはり出されていないのも気になっていた。忙しい職員のことだから、うっかりして掲示を忘れたのかもしれない。それとも、誰か一人に指示を出せば、後は自然にバイト同士周知し合ってくれると勘違いしているのか。
心配になり、遅番の職員に、そのことを伝えた。その方は、「前でも後ろでも、そんなの些細なことですから。」と言った。確かに些細なことだ。どっちだっていい。私が言いたかったのは、せっかく明確になったルールを周知していないために、それを知らないまま作業しているバイト仲間がいる可能性があるよ。ということだった。全体に知らせるのは、もう私の役割ではない。「あなた達、職員がやるべきことをやってくれ。」と言いたいのをかろうじて喉元で押し殺した。遅番の職員は、前日の判断を下した職員に伝えてくれると言って、話は終わった。
こうやって、うやむやになっていることが、今までも何回もあった。
このやり取りの後で、私は無性に悲しくなった。立場をわきまえ、配慮すればするほど、伝えたいことが真っ直ぐに伝わらないのを痛感した。
バイト仲間たちは、うやむやなルールの中で、引っ掛かりを感じつつも、ある程度流して仕事していた。
イチイチ細かいところで引っ掛かり、明らかにしたいという欲望に突き動かされてしまう自分のエゴを強烈に感じた。これがエゴである証拠に、私の思考は誰かを責めようとしていた。ここが全ての原因だ。というところが見えていて、結局は私の立場ではどうにもならない。そのことが悲しかった。
このこだわりのエネルギーを手放すのか。まだしがみついていたいのか。今、それを問われているように感じた。今の私には、重苦しい、不快なエネルギーだ。
私が正職員として、とある部署で働いていた時の記憶がふとよみがえってきた。この現実ドラマから、私は何を学びたかったのだろう?という観点で、記憶を辿ってみた。20年くらい前だったろうか。
「いちいち、細かすぎるんだよ!」と、ある日、同僚に怒鳴られた。私はビックリした。仕事のルールがそうなっているから、そのとおりにしていた。そして、そうなっていないのが不思議だったから、当人に聞いてみた。「こうなっているのはどうしてですか?」と。単純に、ただ、明らかにしたかった。
明らかにすることだけが正解ではない。人の数だけ思惑があり、触れられたくない面もある。モヤッとしているほうが上手くいくケースもある。そこに勤めている方々は、それがとても得意だった。ある意味、日本人的だった。空気を読みながら、暗黙の了解でスルスル進んでいた。
私は明らかで無いものが苦手だった。だから、ルールに縋りすぎて、柔軟性に欠いていたのだと思う。明らかにしないと判断ができないし、責任も負えないので、質問をした。それが相手には、責められているように感じたのかもしれない。
「私は自分のやることに責任を持ちたいので、今やっていることを理解したいのです。」と、怒っている相手に、説明したところ
「お前は責任を負う立場ではない。お前の理解など必要ない。言われた通りにしていろ!」とさらに怒鳴られた。結局、疑問を抱えたまま、矛盾だらけの仕事をこなしていくしかなかった。やがてうつ病となり休職した。
思考は、目まぐるしく誰かを責め立てる。ルールを守りたい。もし、違うやり方をするなら、ルールを変えてほしい。なぜ変えるのか、明快な答えが知りたい。
「納得しながら進みたい!」私のエゴは叫んでいた。
なぜ私はルールにこだわるのか?
自分を守りたいからだ。地球では、ルールを守っていれば、正しいと見なされる。私は正しいことをしています。と胸を張って生きていける。ルール違反をすると、責められて、嫌われて、排除される。地球で生きていけなくなる。ルールに縋って、優等生を演じ、模範になるように生きてきた。はみ出すことが怖かった。独りになるのが、きっと怖かった。独りになったら生きていけないという恐怖があったのかもしれない。(この恐怖は幼少期や前世に原因があるかもしれないが、ここで深堀りはしない。)
私には、矛盾した、混沌とした世界で、自分軸を羅針盤に正解を見つけて進むという高等技術を身に着けることが出来ていなかった。ベースには、自分への不信感があるからだ。親の躾や学校教育に、その原因を見出すことも出来るが、ここで、いちいち論っても仕方ない。そういう時代だったのだ。私の魂が、その時代を選んで転生してきたのだから、きっとこの体験から学びたかったのだと思うしかない。
私の個性は確かに細かすぎると思う。ちょっとの違いに敏感に反応してしまう。「右か左か、そんなのどっちだっていいよ。」と、相手に笑われてしまうようなことに、いちいち引っかかる。なぜこのケースは右で、こっちのケースは左なのか。その判断の違いはどこから来ているのか?応用するためにはきちんと根底の要になる部分を理解したい。だから相手に質問する。相手は大抵は「何となく。」だったりするので、「どっちだっていいだろ!なんか文句あんのか!いちいちうるさいなあ!」と、腹を立てる。このパターンを繰り返してきた。その度に私は悲しくなるのだった。自分の中に矛盾を抱える柔らかさが無かった。すべてを明らかにすべし!という思い込みが私を縛っていたのだと思う。
日本人的「なんとなく。」の世界が、私には分からない。それは、私のベースに信頼が無いからだと思う。自分を信頼できないから、相手も信頼できない。言葉に明確にされない世界など、もっと信頼できないから、明文化されたルールに縋りたくなる。
価値観があまりに違う人々が集まり、ごった煮状態の闇鍋のような世界で、私はいちいち、「今、鍋に何を入れたの?なぜ入れたの?」と叫んで、怯えていたのだと思う。怖いくせに、地球に生まれて闇鍋を突っついているのだから、結局は自らの意志で闇鍋の会に参加しているのだと、認めた方が楽になるだろう。
闇鍋のスリルを楽しみたい方々にとって、いちいち明らかにしたい私は、(闇鍋会場に明かりを灯そうとしているのだから)営業妨害甚だしい存在なわけだ。「もっと分からないを楽しみたまえ。」と、私に説教したくなったに違いない。箸でつまんだ何かが、予想に反して辛かったからと言って、「誰が辛いの入れたの?どんな理由で?」と、問い詰められたって、興醒めでしかない。皆でキャーキャー言いながら、予想外の様々な味や食感を楽しむパーティなのだから。
という視点で、昨夜の出来事を再考してみる。
いいじゃないか。面白いじゃないか。
図書館の書架の整理がいちいち変化してたって、些細なことだ。「ルールはそうかもしれないけど、私はこうしたほうがいいと思うから、このやり方を貫く。」という、頑固なバイト仲間がいたっていい。誰一人、悪気があってやっているわけじゃない。それぞれに、個性があり、こだわりがあり、小さな舞台で自由に表現しているだけだ。右を左にしたり。前を後ろにしたり。ちょっと手を抜いたり、いつもより丁寧にやってみたり。人間なんだもの。理屈ではなく、感情で動いてしまうのが人間の性である。だから、予想外のことが起きるし、ドラマが面白くなる。ルール通りに進んだら、何も面白くないから、必ず外してくる配役が登場する。
もっと、私を信頼しよう。ルール通りでなくても、そんなに怖がらなくていいんだ。
昔は右と決められていたルールに反して左を選んでしまい、殺された時代があったかもしれないが、(おそらく、ものすごく些細なことが原因で、守らなかったことで、殺された前世でもあるのだろう。)例え殺されたとしても、魂は永遠の存在である。現実ドラマが最終回を迎えるだけのこと。また、次なる設定のドラマが始まる。「あ〜。ルール守らないで殺されちゃったなあ。次はガチガチにルールを守る堅物の主人公に挑戦してみようっ♥」と、転生を繰り返す。ドラマ体験を味わい、なにかに気づいていく。この意識エネルギーが私の正体であり、全ての設定は、私が好き好んで選んでいる。
だから、右でも左でも、意識エネルギー目線から見ればどっちも楽しい体験でしかない。選択によりパラレルが分かれていく。見たい方のストーリーにフォーカスする。より面白そうなパラレルに、意識をジャンプさせていく。
たまたま、今朝、『オットーという男』という、トム・ハンクス主演の映画を観た。オットーは、ルールを厳守する堅物の高齢者であり、街中で煙たがられている人物だ。ある日、近所にメチャクチャ明るい家族が引っ越してきて、オットーは徐々に柔らかく変化していく…
オットーの姿が、まるで私のようだと感じた。ひとつの映画を眺めて、私の個性を客観視することができたわけだ。最高に頭の硬い個性を携えて、矛盾の中で格闘しながら、やがて、こだわりを手放し、様々な個性を柔らかく受け入れていく。排除から受容へ、デフォルト意識が変化していく過程を通し、自身を受け入れ、愛することを学んでいく。
無意識に選んだ映画であったが、私の魂が、何を学びたくて地球にやってきたのか、スッキリと理解できた。このタイミングで、この映画を観させられたシンクロに、やっぱりね~。と、観念する気持ちにもなった。
昨夜は誰かを責めたり、自分の異常なこだわりのエネルギーが重苦しくて、辛かったが、いい現実化をしたものだと、我ながら満足である。私の魂は、このこだわりのエネルギーを手放して、次なるステージに向かいたかったわけだから、私に気づかせるために、図書館バイトを利用したのだ。
起きた出来事が、右でも左でもいいような些細な、本当に笑ってしまうような小さな出来事で、良かったと心底思う。こんな小さな出来事で気づきに至れたのだから、私もなかなかやるじゃないか。もし、気づきに至れず、こだわりについて、見直しできなければ、もっと深刻な現実化を起こしたに違いない。(本当に、誰かに恨まれて殺されるとかね?)
大難を小難にしたとも言える。
私の人生に登場する、あらゆるご縁に。たくさんの学びに、心から感謝している。
有難うございました。
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