音楽の聖人~聖セシリア
私の尊敬する友、Kさんとは、前世つながりがあるように感じている。おそらく、どこかの時代、修道女として共に讃美歌を歌った仲ではないかと想像する。(『アヴェマリアとベツレヘムの星』12月13日blog投稿)
私の投稿には、よくキリスト教関連の話題が登場するのだが、特に何かを信仰しているわけではない。世界中の宗教に関心があるし、敬意を持っている。エドガーケイシーやOSHOの本は、とりわけ好きだ。最近は、魂の兄にプレゼントしてもらった『バガヴァッド・ギーター(ヒンドゥー経聖典)』に挑戦している。今のところ、マリア様と日蓮さんには、個人的に親しみを感じて、心の中で対話をさせてもらっている。
さて、Kさんは、声楽を習っている。
彼女が学んでいるメソッドは、とても興味深い。歌は、テクニックというよりも、自分の声を信じた時に初めて現れる感情や愛そのものに委ねることが大切なのだと言う。彼女は、自分の中の別人格(リラックス星人)を親友と呼び、その子が歌いやすいようにしてあげるのだそう。心を開き、とても幸せで、嬉しい気持ちをマックスにして、無意識の領域を豊かにするモードで歌うのだとか。
彼女が実際に、私の前で発声をしてくれたのだが、確かに、そのモードで声を出すと、エネルギーの響きが全く違っていた。リラックス星人モードの時は、向かい側に座っていた私の眉間がビリビリと共鳴し、広大無辺な宇宙空間へ意識が飛んで行きそうになった。どこかにつながるような感覚になる。あ~幸せだな~・・・と、うっとりした心地となる。Kさんの声に共鳴し、私も無意識の領域に誘われる。おそらく脳波もダイレクトに影響を受けて変化しているはずだ。
Kさんと、幼子のように、いろんな歌を歌った。ただ無心に歌っていると、喜びの波動に包まれていく。上手に歌わなきゃ、とか、誰かのために、とか。何にも考えていない。ただ、奥深くから湧き出してくる心地よい流れに心身を委ね、ハミングする。声と声が共鳴し、ひとつに溶けあう瞬間、思わず目頭が熱くなる。
音楽って不思議だ。おそらく、自我意識(分離幻想を抱いている私)が、元々宇宙源でひとつであった魂記憶にリンクするのではないかと思う。だからだろうか、このように涙する時、悲しさや嬉しさなどの感情を遥かに超えた領域の不思議を体感することになる。とても崇高で、至福で、なんとなく深く懐かしく、ちょっとせつなくて、ハートの奥があまりに細かく振動して、ただ涙を流すという反応しかできなくなる。この感覚を表現する言葉を私は知らない。
推測でしかないが、修道女が礼拝堂で讃美歌を歌う時、こんな感覚になっていたのではないだろうか。変性意識となり、神(宇宙源や、高次元の自分)とつながる体験をし、時にはメッセージを受け取っていたのかもしれない。
私は、地声にコンプレックスがある。催眠誘導の際は、つい、取り繕ったような声(大人っぽく、美しく響くように意識)を出していた。Kさんから、自分の声を出すことの大切さを学んだ。Kさんの発声が、モード次第で、あれほどエネルギーが変化するのだから、私の中のリラックス星人に、のびのびと声を出させてあげたいと思った。私はKさんから、歌を通して、「ありのままの自分を受け入れる大切さ」を学んだのだと思う。
この世界の人々が、ありのままの姿に戻れば、意識はひとつに溶け合っていく。あなたは私。私はあなた。あなたの喜びは私の喜びに。私の悲しみはあなたの悲しみに。分離の幻想から抜け出した意識は、やがて大海で融合する。
歌をはじめとする音楽は、きっと、大海への流れを創ってくれているのではないかと思う。
そして、Kさんのリラックス星人は、音楽聖人なのではないかな?とふと連想した。
たまたま、先日、四ツ谷のドン・ボスコ社で、いくつかのメダイを購入していた。そして、何の気なしに、聖セシリアのメダイを選んだのだった。昨日、出勤までに二時間ほど空き時間があったので、久々にメダイネックレスを作った。まずは、何の知識も入れずに、ただ、セシリアと言う名の響きからエネルギーを受け取り、ビーズをつないだ。
作ってから、そう言えば、聖セシリアって、どんな人だろう?と興味が湧いたので、ネットで検索をしてみた。
何と、音楽の保護聖人だった。
わぉ・・・Kさんっぽい。
昨日、たまたまKさんからのメールを受け取っていた。お互いに人生に格闘中であり、同じような時期に渦中にいたことから、何となく魂の課題が似ているのかもしれないと感じた。直面している出来事は全然違うが、長年に渡り自分で創り上げてしまった黒い塊を、いかにして受け入れ、手放すか。という魂カリキュラムに取り組んでいたのだった。
☆聖セシリアについて
音楽家と盲人の守護聖人とされている。
「2-3世紀ごろ
(聖パウロ女子修道会HP 聖人カレンダー 11月22日 聖セシリアおとめ殉教者 より)
「聖セシリア乙女殉教者のミサ固有式文の次の箇所
“Cantantibus organis illa(Caecilia) in corde suo soli Domino decantabat
諸々の楽器が奏でられていたが、彼女(チェチリア)は主のことだけを心の中で想い歌っていた”
というのを、“彼女がオルガンを弾きながら、主のことだけを心の中で想い歌っていた”というふうに解釈され、音楽の保護者にされてしまったという経緯があります。
聖セシリアが楽器の達人だったかはともかく、生活の中で、常に賛美の歌を神様に捧げていたことは確かですし、殉教までしたのですから、音楽の保護者となったとしても不思議ではありません。」
(カトリック碑文谷教会HP「音楽の保護聖人 聖セシリア」より)
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