すべての在り方とは

「 何者にもならなくていい。」

誕生日に、私が内側から受け取ったメッセージについて、さらに解釈が深まるような出来事が起きた。

問いを宇宙に発すると、きちんと答えが返ってくる。それは、ふと目にしたものや、耳にしたものなど、偶然を装ってもたらされ、ハッとさせられることになる。宇宙は、一方的に不可解なメッセージを送ってくるわけではない。その人がきちんと腑に落とすまで、辛抱強くアフターフォローを繰り返してくれる。私たちは、気付きのアンテナを立てておくだけでいい。何か、微かにひっかかるような事が起きた時、「これは何かのメッセージかも?」と反射的に思う癖をつけておくだけで、アンテナは精度を増していく。どんな人も、宇宙から見守られ導かれている。(宇宙=本質の自分=ハイアーセルフと捉えてもいい)

現実は自分が創造しているのであるから、当たり前と言ったらそうなのだが、やはり、偶然の出来事から気付きがもたらされる度に、この世界は上手い事出来ているもんだな~と、感心してしまう。

昨日、朝の通勤時間帯に駅に行った。普段はこのような混雑する時間帯に電車に乗る事はない。たまたま用事があったので、「電車混んだら嫌だな~。」と不安になりつつ、改札を抜けた。構内は、大勢の人がせわしなく行き交っていた。

ホームへ続く階段下の隅の方に、若い大学生くらいの男の子が座り込んでいた。その横を、通勤客が足早に通り過ぎていた。私も、その子の前を通り過ぎようとして、「あれ?何かおかしいな?」とアンテナが作動した。

この後の行動は、全て、咄嗟に動いていたので、あまり思考を介していない。私の中のスイッチがカチっと入った。ただ、動かされていたような感覚だ。

私は、男の子に近寄る。顔を覗き込む。

「どうしました?何かありました?大丈夫?」

その子は、どうやらアジア系の留学生だったのだろうか。なかなか言葉が出て来ない。何とか、日本語を絞り出してくれる。

「階段から落ちた。足がとても痛い。」

私は、しゃがんで、男の子の目線になる。肩に手を置く。

「大丈夫だからね。今、駅の人を呼んでくるからね。待っていてね。」

男の子は、素直に頷く。私は、有人改札へ走る。改札では既に若い女性が駅員さんに説明をしているところだった。「何か、転んだみたい。とても痛そうで。」と言う言葉が聴こえてくる。私とその女性は、顔を見合わせ「あ、やっぱりそうですよね。」と頷く。私も駅員さんに手短に補足情報を伝える。その女性は、後はよろしくと言う感じで、目礼し去っていく。まるで、リレーが行われているようだ。そのバトンを受け取って、私は駅員さんを誘導する。「こちらです。」男の子の前に戻ると、二人の女性が男の子に声をかけている姿が目に入る。「大丈夫です!今、駅員さん来ました!」私は彼女たちに声をかける。彼女たちは、ほっとしたようにこちらを見る。駅員さんは、男の子の目線になってしゃがみ込む。「大丈夫かい?階段から落ちたの?どうする?救急車呼ぶかい?」と優しく声をかけている。二人の女性は、その場にしばらく居てくれそうだったので、私は無言で会釈をしてホームへの階段を登る。後はもう大丈夫だろう。

階段から落ちて痛い思いをした男の子は可哀そうだったが、なぜか、私のハートの部分があたたかくなっていた。

まず、真っ先に感じたこと。私の中から湧き上がってきた無意識の言葉が、次のようなものだった。

「私が心を開くだけで良かったんだ。心を開けば、世界はとても優しい。」

私は、混雑した電車のつり革につかまりながら、胸がいっぱいになって涙が出そうだった。世界は愛で出来ている。嬉しい。嬉しい。ああ、ハートがこんなにもあたたかい。その発見がとても嬉しかった。

このハートのあたたかさについて、もう少し説明してみたい。

あの時、私は、男の子に対して、ただただ、「愛おしい」という気持ちで接していた。そこに思考を介してはいなかった。男性であるとか、外国人であるとか、学生だとか、知らない誰かだとか、外見だとか、普段は思考を働かせて境界を創り出すであろう比較判断が、ぽんと飛んでいた。その咄嗟の動きや私の口をついて出て来た言葉は、無意識の領域から流れ出てきた感覚だった。ただ、そこに命ある者同士として、つながっていたような感覚だ。

何か、咄嗟のトラブルとか、人命にかかわる天災など、人にとって命にかかわるような出来事が起きた時、火事場の馬鹿力という言葉があるように、自我によるストッパーが外れるようになっているのではないだろうか。自我とは、分離感である。相手と自分は違う存在と判断し、不安や恐怖をベースに、「我が我が」と利己的に振舞うよう仕向けてくる。しかし、あの大震災の時のように、大きな出来事が起きた時、自然と自我が消え去り、本質の存在として繋がり合う(助け合う)人も一定数出てくる。相手は自分であり、自分は相手であり、すべてとして在るような、きっとそんな領域に意識が到達させられるのだろう。利他遺伝子が、外的要因によりスイッチオンになるのかもしれない。(詳しくは、村上和雄先生の著書を参照ください。)

自我が消え去った時、立ち現れるのが本質部分である。自我は着ぐるみであり、私そのものではない。私は、先ほどの体験で、その本質部分を垣間見たのだと思った。

やはり、人間の本質は、愛なのだと確信した。あの「愛おしい」という気持ちは、私の胸の奥深いところから、こんこんと湧き出てくる泉のような、永遠で無限のエネルギーのような感覚だったのだ。すべてが、無条件に、ただただ、愛おしい・・・。

これは意識すると消えてしまう。純粋なそのエネルギーは、無我(夢中)になった時、現れていたようだ。意識すると、顕在意識が働き始めるので、自我が目を覚ます。こうやって、太古の昔から人間は、場面に応じて意識状態を切り替えて、命を連綿と繋いできたのだろう。

そう言えば、私は本当の愛を知っていただろうか?

大切であるはずの家族や夫、友人の顔を思い浮かべてみる。そこには、愛するための条件が付随してる。家族だから。大切にするべき責任があるから。優しいから。親切だから。話が合うから。知っている人だから。〇〇だから。という、自分にとって都合のよい何かだ。これが、自我が感じる愛であり、とても限定的だ。もし愛する相手が自分にとって都合が悪くなれば、気持ちはいとも簡単に離れてしまう。愛さないと言う選択が可能に見える。

この日私が感じた「愛おしさ」は、何の条件も必要としないものだった。おそらく、自我が作り上げる着ぐるみのその中身と、ダイレクトに繋がってしまうからだろう。何者でもない同士として、そこに、すべてとして在るエネルギーとして、本質の愛としてただ響き合う。愛さないという選択が、あり得ない領域だ。「私は愛する」という意識すら無い。これは後から思い出して、思考で分析して無理矢理言葉に置き換えていることを了承いただきたい。

本当の愛を知っていたか?という問いは、そもそも的外れだと理解した。既に自分の中に在るのだから。ただ、意識の状態として、忘れている役を演じているだけであり、役を俯瞰する位置に戻れば、すべてはそのままそこに在ったことが分かる。消えたことも、減ったこともない。永遠無限のひとつがそこに在る。

そのひとつとなっていた自分を振り返る。その感覚は、深い親しみと懐かしさを伴い、ただ、泣けてくるのだった。その気付きが「私が心を開くだけで良かったんだ。心を開けば、世界はとても優しい。」であった。


何者にもならなくていい。

この宇宙メッセージは、どんどん深みを増して、私を誘ってくれている。

私は私であればいい。

大丈夫だ。私が自然にあれば、やるべきことは自然にもたらされてくる。それを自然にこなしていけばいいのだ。だんだん分かってきた。

花は、誰かのために咲くわけではない。

星は、誰かのために瞬くわけではない。

それでも、その美しさが、誰かの心を潤すこともある。

ただ、在るだけでいい。

この宇宙は、そういうふうになっている。


☆宮崎ますみさんの言葉

今朝、偶然FBの2020年の投稿を目にした。

あまりにタイムリーだったので、ここに紹介する。


太陽が太陽で在るように

月が月で在るように

星が星で在るように

山が山で在るように

川が川で在るように

木が木で在るように


あなたはあなたで在りなさい。


自然のように在ることができたなら、

聖なる知恵となる。


あなたがあなたで在るということは、

義務感からではなく、

自己中心的ではなく、

誰かの為でもなく、

自分がやるべきことをそのままやっていくこと。

受ける人によって自分を変えることなく。


それが出来た時、心は落ちつきます。

精神はとても良い状態で、

聖なる知恵が湧いてきます。


全ての在り方が分かってきます。

聖者のように。


SHAN MATHA

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