平和な人間関係をつくるコツ
昨夜はZOOMで、とある読書会に参加した。
参加者の職業は多岐に渡る。医師、僧侶、鍼灸師、生活困窮者支援経験者、障害者支援者など。仕事はバラバラだけど、ひとつの共通点を見つけるとするならば、「人と密接に関わる」ところにあるのではないだろうか。人の生死や困難に直接的にアプローチするので、相手の内面が赤裸々にされるところも多いのだろう。見たくない部分をあからさまに見せつけられることも多く、日頃から悩みながら仕事に携わっている方々だ。本を読み進めるに当たり、各々の悩みが浮き彫りにされて、大変勉強になった。
毎回、一冊の本を1章ずつ読む。時間は1時間半。順番に音読してから、感じたことをシェアし合う。誰かの話にインスパイアされて、内容がどんどん深くなっていく。その相乗効果が魅力だ。本を通して、魂の学びをさせてもらえているようだ。
今回のお題は「平和な人間関係をつくるコツ」
内容をザックリ列記すると
・人間関係はどれもあなたの心の状態を映す鏡。
・だれと交流していようと、ほんとうは、自分自身と交流している。
・心から自分を愛しているなら、すべての人間関係も、おのずと平和で愛情あふれるものになる。
・理想的な模範は、この宇宙。平和な人間関係は助け合いがベース。
・助け合いをベースに行動するコツは、エッセンスとエッセンスで、人とつながること。
・自分を含め、すべてはありのままで完璧であるということを、つねに意識。
・「完璧でないもの」は、まぼろし。完璧でないように見えるのは、その人の見方がゆがんでいるから。怒り、混乱、不安、恐怖。これらはすべてまぼろし。
・人間本来の姿は、喜びと愛情に満ちた存在。
・簡単なエクササイズ⇒道でだれかとすれ違うたびに、相手の表情に注目。その時、相手の表情の奥にある、完璧で喜びあふれる真実の姿を見ること。
・「引力の法則」=人間はつねに、自分の望む人や人間関係を潜在意識で引き寄せている。
・誰かに、なんて不親切なんだろうと感じるなら、あなたに不親切なところがあると言う意味。あなたが認めたくないキャラクターを指摘してくれている。その部分につながるチャンスをあなたに与えてくれている。
・この部分に進んでつながり、自分の愛情不足なところもありのままに愛してはじめて、閉じ込められたエネルギーが解放される。閉じ込められていたエネルギーがあなたに与えていた痛みもスーッと消えて行く。
・あなたが出会う人はみんな、あなたにパワーをとりもどしてもらうために、あなたを助けるために、あなたの人生にやってきた。この人たちは、いわばあなたの「恩人」。
・パワーをとりもどすたび、もっと自分を愛するようになり、もっと自分を信頼できるようになる。そうして心が平和になると、それを反映した円満な人間関係を引き寄せるようになる。
『You Can Have it All』188~191頁より一部抜粋
一読して、ほとんどの参加者が感じたことは、「う~ん。正論だよね。わかっちゃいるけど、出来ないのが人間だよねぇ。正論って、時に相手を傷つけたり追い詰めたりするんだよねぇ。」と、遠い目になった。
生活習慣病を専門とする女医さんは、次のようなシェアをしてくれた。食事などのアドバイスをしても、いくら正しい事を言ったとしても、それが患者の心に響いて受け入れてくれるかどうかは別。以前は、どうして伝わらないのか、なぜ患者さんは変わらないのかと悩んだが、最近は、受け入れるも受け入れないも患者次第と、「不快感の無い諦め」の境地に到達し、自分の気持ちは楽になったそうだ。
ホームレス支援をしていた方は、次のようなシェアをしてくれた。人により、正論に到達する時期がある。すぐ変わられなくても、大きな目で見てあげることが大切。面談中に、一生懸命話をしていると、互いに潜在意識の中に入り、心が通い合う時がある。そうなった時、「ああ、この人好きだなあ。」と思う瞬間がやってくる。自分がそのような状態になると、相手が変わり始めるのだそう。
私は、今日あった出来事をシェアさせてもらった。
この一週間、四ツ谷に3回も通っている(笑)この経緯についてはまた後日にでも書こうと思う。
聖イグナチオ教会のすぐ近くの橋の上に、初老の男性が一人座り込んでいた。身なりはそこそこ整っているのでホームレスではないようだ。彼は、不満ではち切れそうになっていたのか、大声で怒鳴り散らしていた。私が教会から出て、駅の方へ向かう時、怒鳴り声が鳴り渡っていたので、「あ~。怖い人がいる。嫌だなあ。」と瞬間に思ったのだ。
彼の前を足早に通り過ぎようとした、その時、彼はまた怒鳴った。私に怒鳴ったのか世間に怒鳴ったのかは分からないが。
「何だ!なんか文句あんのか!〇×△◇×〇〇!」
彼の発する痛々しいエネルギーが、見えない鋭利なナイフとなり、私の心をえぐってきた。咄嗟のことで、防御(他人のネガティブなエネルギーをもらわないこと。結界を張るなど。)出来なかった。いや、潜在意識は、他人の痛みを拾うことを選択したのだと思う。まともに痛みをくらって、私のハートはグサッと傷を受けた。痛い、痛い・・・と思いながら、それでも私には何も出来ないので結果的には無視して通り過ぎた。近くに交番もあるし、お巡りさんも様子を見ているようだった。大声で吐き出すだけでも楽になれるのなら、やらせてあげよう。あまりにエスカレートしそうだったら声をかけよう。無関心と関心の瀬戸際で揺れるような、微妙さがあった。もしかしたら、常連さんで、頻繁にこの場所に出没していたのかもしれない。
私は、彼に関心を持って、「どうしました?」と声をかける勇気が無かった。とても怖かったからだ。私とは違う異質のものだと感じて、無意識に排除しようとした。見なかったことにしようとした。関わらなければ私は平和でいられる。遠くへ逃げてしまえ。私は関係ないんだから。と。
でも、胸はえぐられてチクチクしていた。これは私の中に彼と同質のネガティブエネルギーが潜んでいる証ではないかと、ちらっと思った。
彼は、意識してか分からないが、教会のすぐ近くで荒れまくっていた。教会は心静かに祈る場である。教会の中の静寂と、外の喧騒の対比が何とも皮肉だなあと感じた。
例えば、教会関係者が彼に歩み寄り、声をかけたとしても彼は救われないだろう。彼は混乱し荒れ狂っていたから、ある程度の専門の知識のある方でないと場合によってはもっと逆上させてしまう恐れもある。犯罪に発展するかどうかは紙一重だろう。とても繊細で丁寧なアプローチが必要になる。この点で、私は無力だ。ただオロオロして、逃げ出すことしかできない。まだまだ器の小さな人間にすぎない。それを痛感した出来事だった。
この出来事は私に何を伝えてきたのだろうか。私はここから何を学ぶのだろう。彼は、私の中に潜むどんなエネルギーを鏡として見せてくれたのだろう。そんなことを考えながら帰宅の途についたのだった。「異質なものに対する恐怖、無関心、愛の欠如」が、テーマとして浮かび上がった。
この話をシェアした後で、僧侶が短くコメントしてくださった。
「そんな時、私だったら、彼が何に怒っているのか状況を知ろうとします。でも、関われないなら、通り過ぎるしかないでしょうね。いろんなものに対しての先入観をはずして、相手を有難い存在として見られるようになりたいものです。私は、ホームレスの方に落とし物を拾っていただいたことがあって、自分の中の先入観に気づかされたことがありました。自分をとても恥ずかしいと思ったのです。」
この僧の言葉はとても理解できたが、私の中で傷がうずく反応があり、話をお聴きしながらも悲しくなったのだった。ああ、これが「正論は人を時に傷つける」ということなのかと理解した。
「状況を知ろうとする」という行為を、私は選択できなかった。怖かったからだ。関わったら、自分の身の保証が無いと思った。自分を守るために私は無関心を選択した。分かっちゃいるけど。それは正しいと思うけど。でも。出来ない。ここに人間の成熟度が現れる。おそらく、僧侶や、ホームレス支援をされている方々は、彼に声をかけるか、せめて少し距離を取りつつ様子を見守ったのだろう。自分に何ができるか一生懸命考えたのだろう。この違いは、人生経験の豊富さも要因になるだろうが、大きな要因は何だろうか。ちょっとモヤモヤしたのだった。
以前から時々投稿しているが、私は昔から、大きな声を出す人が苦手なのだ。例え私に怒鳴っていなくても、まるで私が怒鳴られているようにそのエネルギーを受け取ってしまう傾向があった。どうやったら受け取らずに済むのだろう?いろいろ学んできた。催眠療法で前世や幼少期を癒やすことで、大きな声に対する恐怖を少しずつ溶かしてきた。今日あらためて、怒鳴る男性という現実(幻)を見せられて、久々にハッとしたのだった。
今、これを書きながら、ふと思ったことがある。私は前世において、大きな声を出す側(加害者側)だったことがあるんじゃないだろうか。たくさんの人の心を言葉のエネルギーで傷つけてきたのではないだろうか。今世では、反対側の受け身の立場をやらせてもらって、学んでいるのではないだろうか。そう考えるとしっくりきたのだった。
前世を見るにしても、潜在意識が、どの過去を見せてくるか決めているようだ。その人が受け止められないような過去の記憶は決して出して来ない。反対に、いかにハードな過去でも、その記憶を見せられるということは、受け止められるまでに成長した証と言える。人の前世が100回あったとすると、そのうち50回はいい人(受け入れられる人)であり、50回は悪い人(受け入れたくない人)の人生であるそうだ。つまり、私は今世では比較的いい人の人生を歩ませてもらってはいるが、過去には、極悪非道で血も涙も無いという悪の権化みたいな人生も数々体験済みなのだろう。光と闇を交互に体験し、魂は成長していく。
今まで、セミナーを通し、20回くらいは前世療法を体験してきた。そのうち、戦争や殺人を犯した人生は2つほどしか見ておらず、ほとんどは、私が好みそうなキャラクターたちだった。前世療法は今世に影響を与えている人生を見せてくるので、好ましい人物ばかりという傾向になってしまうのだが、蓋を開けてみれば、いい人も悪い人もどっちも満遍なくあるのだから、今世の配役は、たまたま光側だったとか、闇側だったということ。カルマの解消をしていると表現する人も居る。確率は半々だ。これが転生の真相である。それらの二極の体験を通し、潜在意識で繋がり合った私たちの魂は、その情報を根源へと集約し、ひとつの大きな意識として、学びを深めている。私の体験はあなたの学びであり、あなたの体験は私の学びである。元々はひとつだ。
さて、読書会の話はどんどん発展し、なぜか、オウム真理教の松本氏の話題になった。現実として、彼のやったことはどうにも受け入れられるものではないが、今回のテーマに沿って解釈するなら、彼がその重い配役をやってくれたことになる。人類の気づきのために。このように闇の役割ではあるが、宇宙の采配で、このような大きな運命を背負わされた人物が、ヒトラーやプーチンや、その他多くの影響力を持った配役として、各時代に出現するのだろう。戦争も大きな事件も、私たちの集合意識が創り出しているのではないか?と、ある方が指摘していたが、その通りだと思った。この方によると、ゲーテの詩に、「光も闇も同じベンチに仲良く隣り合わせで座っている。」という表現があるそうだ。光も闇も、元は同じという意味だと。
障害者支援をしている方がおっしゃっていた。
私たちは、生まれた時に、遺伝子の中に、光も闇も、どちら側の要因も携えている。そして育てられ方で、どちらにも転ぶことが出来る。愛情深く育てられれば、光側に。愛が欠如した育てられ方をした子の多くは、周りを困らせる言動を取ることが分かっている。と。
魂は親や境遇を自分で選択して転生してくるわけだから、今回どちら側の学びをすることになるのかある程度は分かっていることになる。そして、光も闇も、互いに関わり、影響し合うことにより、すべてを受け入れ、自分の中で統合していく。
なぜ相手は良くならないのか?変われないのか?私は正しい事を言っているはずなのに伝わないのか?この意識は相手の中の不足を見ている。しかし、真実は、自分の中の不足を見ている。ここに答えを求めない問いがある。一生を終えるまで、答えは見つからないかもしれないが、それでも自身に問い続ける。それが魂のやりたいことであり、この葛藤を通して、魂が磨かれていく。
元々、私たちは完璧なのだ。わざわざ不足という幻を創って、勉強している。(遊んでいる)。この前提があると、少し生きやすくなるかもしれない。人生を客観視することにつながるからだ。
そういえば、「光の存在からのメッセージ」を催眠状態で伝えてくださったⅭさんの言葉を思い出した。
「あなたが光の存在であることを思い出しなさい。」と。
私も潜在意識に入っていてその言葉を受け取ったので、その時点で抱えていた複数の問題がこの一言で、一瞬で解決してしまった。その時の気付きは、今日ここに長々と書いてきたことにも通じるのだが、ブログは顕在意識で思考を使っているから、まどろっこしい。潜在意識につながると、真実は一瞬で伝わるし、人の意識は繋がっているので、私が変化すると相手(現実に現れる配役)も変化する。
「私が正しいことを言っているのに伝わらない。相手はどうにも変わらない。」という意識で居る限り、私は、正しい事を言っても伝わらない人物を目の前に創り続けることになる。何度も言うが、私が腑に落ちるまで、何度も反芻しようと思う。
最後に、参加者の一人が私に言ってくれた。
「怒鳴っている男の人を見て、怖いと感じてしまったこと。
あなたが、自分を大好きになれば、すべて解決するんだと思うよ。
催眠療法やっているから分かると思うけど、潜在意識に入れば、自分も大好きになるし、相手のことも大好きになるじゃない?」
彼女の一言が、私の心の柔らかい部分にすとんと降りて来てしっくりと馴染むのが分かった。
正論は時に人を傷つける。正しいのに傷つける。ようやく意味が分かった気がした。言葉を発するエネルギーなのだ。相手を欠けている存在、導くべき存在、助けるべき存在として見るなら、その言葉は刃になる。その時、言葉を発する人も自身を欠けた存在とみなし、受け入れていない。
相手を完璧な存在として、言葉に愛を込めるなら、その言葉は相手の深いところに届く。前提として、自分自身をしっかり受け入れ、大好きであることが大切だ。何しろ相手は幻であり鏡なのだから。私が私に愛を発する時、世界は変化する。鏡の中の世界が優しい色に包まれていく。
この読書会を通し、なぜ私が昼間、怒鳴る男性を見ることになったのか、ようやく理解出来たように思う。宇宙の采配は完璧だった。タイミングと言いい、すべてがうまい事行くようになっている。一つの綻びすら見られない。魂の学びとして見れば、もうもう、全部が美しい調和の元にある。あらためて、驚愕したのだった。ちゃんと伏線があり、シンクロが起こり、最終的に学びが深まるようなイベントまで用意され、私はゆっくりゆっくり、成長していく。成長とは、本質の自分を知る。ということに他ならない。「ああ、これが私!」という発見と喜びのことだ。
伏線について少しだけ書いておくと
マリア様の不思議のメダイによる導き⇒催眠療法を学び始める⇒闘病⇒沢山の方々から愛をいただく⇒手術⇒驚異の回復力を発揮⇒催眠療法士として、世の中に恩返しすることを決意⇒愛の循環の一部になることを意図⇒マリア様のエネルギーを表現したいと願う⇒四ツ谷の教会で祈る⇒マリア様エネルギーの表現手段として、とある物を仕入れるために四ツ谷へ3回訪問⇒教会のすぐ近くで怒鳴る男性に遭遇⇒以下、本日のブログの通り
きっと、神(宇宙)は私の願いを聞き届けてくれたのだ。怒鳴る男性の傍を私が通るように縁結びをして、私が大切なことに気づけるよう、采配してくれたのだ。神(宇宙)の采配は、魂目線のため、エゴで判断する良き(善き)こととは限らない。その人にとって一番効果的な出来事を起こすので、エゴが拒絶するような、いわゆる悪いこと、不快な事として目の前に展開することもある。その方が気付きが早いからだ。これも神(宇宙)の親心であり愛である。そして、それが愛であることが分かるように、アフターフォローも手を抜かない。ちゃんと、読書会の予定を入れておいて、気づきに沿ったテーマで語り合える機会までも用意してくれている。
そう言えば、不思議なのだ。今回の読書会は、事前に参加申し込みをしていなかったのだ。入院もあったし、体調がどれだけ回復しているか先が読めなかったので、手続きしなかった。しかし、前日になぜか、読書会参加者へ送られるメールがパソコンに届いていた。「あれ?手続きしていないのにおかしいな。ま、いっか。体調もいいし、参加してみよっかな。」と何気なく参加したのであった。主催者側の手違いか、配慮してくれたのかは分からないが、このように、偶然を装って、私は決められた流れに乗せられていく。
うわ~・・・。そう考えると、神(宇宙)の脚本は時空を超えていて、全ての流れが決まっていて、私は順調に流されているとしか言いようがない。神(宇宙)は、根源から分離していると勘違いさせられている「私」と言う意識でとらえると、目に見えない遠くにある存在のように思えるが、すべては私の中で起きている。ほんとうは一体化しているのだ。
怒鳴った男性も、私の中の宇宙の登場人物であり、私の内面の怖れを鏡にして映し出してくれた有難い助っ人であった。彼は私であり、私は彼であった。私が受け取った痛みは、私の内面の痛みだった。統合して手放して、元の光に戻すために、この出来事は起きたのだった。
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