お礼参り
この度の病に関する一連の流れの中では、たくさんの存在に助けられてきた。
太陽の光、風、植物、動物等の自然界からの働きかけもひしひしと感じた。日々口にしている食べ物もそうである。私は、無条件の愛を注がれ生かされた。
手術が無事終わり、どこかに感謝を伝えに行きたいと思ったので、縁を感じている寺社仏閣へお礼参りにうかがうことにした。
退院翌々日に、まず、地元の神社へお礼を申し上げに行った。
こちらは、地域の方々に愛され、日常の習慣で手を合わせに来る参拝者が5分に一人は訪れる。生活の中に祈りがある。きっと日々の糧に感謝したり、家族の健康を願うために、通勤や買い物への道すがら、自然と神様の元に足が向くのだろう。日本人らしい、肩肘張らない信仰の姿だ。
本当にここに神が居るのか、正直よく分からないが、手を合わせ、何ものがおわしますかは分からないけれど、大いなる力に対し、感謝を伝えることは、とても気持ちが良い。日々を漫然と過ごすのではなく、メリハリがつけやすい。よし!次行こう!みたいな。気持ちが軽くスッキリするので、本来は自分の中の神性に手を合わせているのだろう。神社は慈愛の循環装置ではないかと感じている。中庸へのチューニング装置とも言えるか。
そして、手術日から丁度一週間後に当たる昨日、ご縁の深い浅草寺へ参拝に行ってきた。
平日なのに、メチャ混みだ。まるでお正月並。着物姿の女子が多く、微笑ましい。皆、美しい装いで、苺飴片手に、ばえる写真を撮影している。私も死ぬまでに一度はやってみたい(笑)。
手術の後遺症で、肋間神経痛が残っている。くしゃみや咳が胸部に響く。出来るだけ静かに、コソっと咳をする。もしもシャックリが起きたら、大変だなあと思う。そして、笑っても痛い。笑いは、瞬時に出るためコントロール出来ない。「あはははは·····あ、イタタタタっ」胸を押さえつつ、笑いに身悶えする自分が面白い。痛いけど、楽しい。痛みがあることで、普段無意識にやっていた行為がいちいち新鮮だ。たまには、痛みを経験した方が、生活に張りが出るかもしれない。「咳って、結構全身使っているんだなあ。」とか、無意識の行為を意識的に行える。禅の作務みたいに。いつも意識は今に戻されるので、精神も安定しやすいかもしれない?
体が健康な人ほど、余裕があるから、頭でアレコレ考えすぎてしまって、エゴに振り回されがちになるのかもしれない。悩み多き人は「あ、そうか。私はそれだけ体に恵まれているってことか。痛いところが無いって、幸せだなあ。」と、意識転換できるかもしれない。何と!悩みは幸せの証拠。ここにも感謝の種がある。もう、全部、ありがとうしか無い世界になっていく。
浅草寺の本堂内に入らせていただき、(あまり知られていないが、希望者は中でお参りできるのだ。)お焼香させてもらう。しばらく、端の方に座り、聖観音菩薩に心の中で感謝の気持ちを伝える。こちらでは、過去に何度か、心の浄化が起こり涙を流したり、メッセージらしきものを受け取ったことがある。今回は梵字の効果を知らされたような気がしたので、観音様の梵字(サ)の入った数珠を授与していただいた。身体が修復するまで、身につけておこうと思う。
そして、大混雑の浅草寺であったにも関わらず、外陣で私がお焼香している間だけは、人払いされていて、守られた空間で観音様と静かな時を過ごすことが出来た。感謝の言葉をしっかり受け取ってくださったような気がして、嬉しかった。
今回の一連の病体験から学んだことを活かして、さらに精進していきます。とお約束をした。周りからたくさんいただいた愛を、今度は私から、少しずつでも周りに送っていきたい。これからはご恩返しの人生だ。幸いなことに、私には催眠療法という技術がある。愛の還元方法を与えられていて、本当に良かったと思う。今年も勉強を続けていこう。
夜は、萩原医師の宇宙の基本原理についての講座があり、Zoom参加。
受講生の一人が先生に質問した。
「すべては宇宙源泉の意志で起こっており、私たちの意志で行為がなさるわけではないのなら、ヒプノセラピーは、この宇宙設定の中ではどんな意味があるのですか?台本の読み合わせ?」
つまり、この受講生は、人生の台本を作っているのは源泉であり、私たちは、役者に過ぎないという基本設定の中で、セラピストは何をやってるのか?と面白い質問をしたわけだ。
萩原医師は、ご自身で答える前に、私にどう思うか聞いてきた。私は次のように答えた。
「催眠状態になると、意識の奥のさらに奥深いところに到達します。そこは、静かで穏やかです。それを源泉の意識とするならば、私たちは、催眠療法を通して、源泉に里帰りしているのではないでしょうか。そして、その体験者の中で、源泉の恩寵があれば、覚醒するきっかけとする人も出てくる。「私が行為者である」という聖なる催眠から覚めていく。もちろん、すべては源泉(神)の遊びであり、私意識がどうこう出来るものではありませんが。催眠療法は、目覚めのために源泉が用意したオプションなのではないかと思います。」
なんだか、ぼ~っとしながら答えたので、この後に萩原医師が何を答えていたかよく覚えていない。ただ、我ながら、「源泉への里帰り」というフレーズは気に入った。思考を介さずこの言葉が内側から湧いてきたので、私の魂さんからの答えだったようにも思う。
講座の後半で、受講生同士、グループに分かれて話し合う時間があった。一人の受講生の話が印象的だった。
彼は普段から、自分の行為を意識して行っているそうだ。これは、自分の意志なのか?それとも大いなる何かの意志によるものなのか?
そして、見るという行為を徹底的に意識してみた。すると、一切見ようとしていないのに見えることが分かった。聞く、味わうもしかり。「自分が行為者ではない。」というところに意識を合わせることで、日常の中でチューニングをしているそうだ。
彼はまだ若い男性だったので、既にそのような意識で日常を過ごしていることに驚かされた。とても静かで調和的なエネルギーを発する方だった。彼は、このような話題を安心して口にできるこの講座に参加できて、嬉しいと語った。
確かに、いきなり家族や友人に、「その行為は、あなたがやってるんじゃないのよ。宇宙にやらされているのよ。」なんて言ったら、ドン引きされること間違い無い。話す相手は選びたいかも。
過去に私は、「あなたが前世を信じるなら、あなたとの関係を断たせてもらう。」と、親しい知人に言われたことがある。彼女は、「前世など無いし、物質に意識は無い。」と、電化製品と意志疎通しておしゃべりしている私をキッパリ拒絶した。かえって小気味良いくらいハッキリ言ってもらえて、助かった。私はその後、前世を扱うセラピストになったため、彼女との縁は切れてしまったが、後悔は無い。彼女を尊敬していることは変わらないし、彼女は自身に対し誠実だったのだと思う。
宇宙の基本原理と言われているインド哲学や、お釈迦様の教え、量子物理学の世界など、それが確実に正しいのかどうかは、人間には分からない。源泉の意志は、誰にも理解できないのだから。ただ、そう考えることで、楽になり、幸せに生きられるなら、そんな考え方もアリということだ。受け入れるかどうかは、人それぞれであり、誰から強制されるものでもない。
なぜ、戦争が無くならないのか?
萩原医師は、その答えが欲しくて、宇宙基本原理に辿り着いたそうだ。そして、「人間の意志で行為がなされているわけではないし、エゴも源泉から持たされているものだから、消すことも出来ない。すべて源泉の意志により動かされている。」と考えると、戦争が無くならないことに対し、辻褄が合ったそうだ。こう考えることで、楽になれたのだとか。
だから、催眠療法を学んだり、この講座に参加しているのも、自分が選択したようで、実は、大いなる力により、何らかの意図が働き、ここに集められているとも言える。と。
この点に関しては、私も激しく同意したい。催眠療法を習い始めてからの数々のシンクロニシティと、目に見えない導きは、まるで神様から「こっちだよ。こっち、こっち。」と誘われているとしか言いようがなかったからだ。
源泉の力を個々人のイメージの中で人格化したのが神、仏であり、それが宗教の集合意識となり民族に影響しているのかもしれない。ちなみに、今朝読んでいた本には、聖観音菩薩の神意識は、昴に宿っているとか。太陽系のそれぞれの惑星に神仏は対応しているそうだ。金星は不動明王とか。へぇ~。神は星であり、私たち人間は、星の子。それも素敵な考え方だ。
ちなみに、私のセラピスト用HPの名称は星の実。考え方が近い。星の実は、いろんな意味を込めて名付けた。語り出すと長くなるので、いつかの機会に譲る。
話は戻るが、先ほどの若者が「見ようとしないのに見える」と、見る行為について語っていたが、追記したい。私の体験だ。
手術翌日の私は、眼鏡をかけていないにも関わらず、看護士や、レントゲン室の様子がしっかり見えていたことは、前のblogに書いた。裸眼0.01くらいの視力なので、説明がつかないのだ。その時は痛みに翻弄され、必死に動いていたから、考える余裕がなかった。つまり、思考が働いていなかった。しかし、後から考えると、視界に見えていたことがありありと記憶に残っている。強引かもしれないが、これが、「私の意志によるのではなく、源泉の意志による行為」の証拠になるのではないだろうか。
肉体の眼を使わずに外の世界を把握していたことになる。外からのエネルギー(波長)を脳内変換して脳裏に映像を結ぶ仕組みが視るということなら、私は視力を使わずに、エネルギーを感知して映像を視ていたことになる。夢中になっていたから、何がどうなっているかは分からないが、火事場の馬鹿力と同じかもしれない。人間必死になると、神通力を発する。これは、源泉(神)が私の肉体を通して行為したと言えるように思う。
最後に、やはり源泉による導き?と思うことについて。
前の投稿で、入院代がなぜか10万円安くなった奇跡を書いた。きっと神様からのプレゼントだから、催眠のセミナー代にありがたく使わせてもらおうと思ったのだった。
そして、昨夜判明したのだが、5月の催眠療法宿泊セミナーのプランが事務局から発表され、その金額が早割で約10万円だったのだ!
ピッタリ·······
このように、私は、次なる学びへと導かれていく。スムーズすぎるくらいに。私は、その流れに乗るだけだ。
宇宙の流れは楽しい。きっと、魂が喜んでいるからだろう。
☆昴について
牡牛座にあるプレアデス星団
私の星座は牡牛座であり、過去に魂はプレアデスに転生していたこともあると感じる。
昴がプレアデスなら、観音菩薩のエネルギーに親しみを感じるのも、強力なサポートを感じるのも、分かる気がする。
私の魂の分魂仲間がプレアデスに居るようにも感じる。
きっとそれぞれに、親のように感じる神仏が居るなら、あなたの出身星に関係している可能性がある。
ちなみに、夫は不動明王から加護を受けているのだが、不動明王は金星だ。愛情深い夫に似合う星だ。
☆追記
この投稿の2日後、神田明神へお礼参りに行ってきた。こちらの神様にも、10年以上見守っていただいている。訪れると、いつも明るく華やかな気持ちにさせてもらえるので、底抜けに陽気な神様なんじゃないかな?とイメージしている。
日曜日ということもあり、参拝者で混雑していた。そして、私たちが到着したタイミングで、結婚式が始まった!こちらの結婚式は、雅なのだ。雅楽隊が、美しい装束で生演奏しながら、100メートル程を拝殿に向けて歩いていく。花婿花嫁が、その後に続く。古式ゆかしき花嫁行列を目の前で鑑賞することが出来る。
私が、拝殿前で手を合わせ、神様にお礼を申し上げているピッタリのタイミングで、雅楽隊が、雅楽の調べを奏でつつ私の真横を通り過ぎていった。神のなさるタイミングは、いつもベストだ。NHK紅白歌合戦なみに、一秒の狂いも無く、見事な演出がなされ、華やかに現実が展開されていく。
神様、見事すぎます。
あまりの歓迎の合図っぷりに、思わず目頭が熱くなった。
「たまには、こんなのもよかろう。」と、神様が、ほっほっほ と、笑っているように感じた。
神様は、私が体験すべきことなら、それが困難な出来事であろうと、勝手に取り除くようなことはしない。
私が「病気が治りますように。」と願ったとしても、それが魂の課題であるならば、自力でのり越えることを何より優先し、あたたかく見守ってくださる。親のような愛を示してくださる。
そして、魂の課題に向き合い、一歩成長した姿をお礼参りという形で、見せにきてくれたことを、心から喜んでくださる。
お金が欲しいと願うと、ポンとお金が入ってくるとか、病気治癒を願うと、病気があっという間に消えるとか。そんな現世利益を得意とする神は、本当の神ではないと思う。なぜなら、現世利益はエゴの求めなので、満足というものが無いし、次々問題が起これば、神(?)への依存が生まれてしまう。本当の幸せは、そのような目に見える世界では見つからない。
本当の幸せは、愛の循環の中に入り、置かれた場所で出来ることを行うことだ。どんな小さなことでもよいのだ。ニコッと笑うことだって、さりげなく相手を思いやる言葉をかけるだけでもいい。今、この瞬間に、わたしが出来る愛を表現していけばいい。そして、たくさんの愛に生かされていることを実感する。受け取って、出して、感謝と愛を巡らせていく。
私は病気になり、それをきっかけに、様々なことを学び、たくさんの方々から愛をいただきました。どんな体験も感謝しか無いことを理解しました。これからは、周りからいただいた愛を、私から発信し、循環させていきたいと思います。どうぞ、これからも見守ってください。神様が私を通してお働きになられますように。
私は、こう心の中で願い、頭を下げた。
もちろん、相変わらず、日常で出来事は起こる。困難なこと、嫌だな、避けたいなと思うような事も。
ただ、以前との違いは、ドップリとネガティブな感情に浸り、右往左往して現実に抵抗することは無くなったように思う。もちろん、エゴはあるから、感情もあるし抵抗もある。怒りや悲しみもある。
それらを丁寧に感じた上で、次に違う視点から、出来事を眺めてみる。
もし、これが魂の成長につながるならば、私はここから何を学ぶのだろう?そう自分の内面に問いかける。自分の中の神(本質)につながり、対話をする。
そして、宇宙はいつもベストな流れを起こすという、揺るがない信頼の元で、今自分に出来ることをやっていく。
過去や未来に意識を飛ばし、ネガティブに陥るのではなく、今、満たされている自分に気づき、生かされていることに感謝する。
目覚める前に、薪を割り、水を汲む
目覚めた後に、薪を割り、水を汲む。
目に見える出来事は変わらないかもしれないが、内面世界の輝きは、明らかに違いが出る。
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