アメノウズメとタジカラオ
私には、不可解な傾向があった。その意味を先日知ることになった。
私は、昔から何故か、幹事役を喜んでやる傾向があったのだ。
18歳から51歳まで働いた私の職場は、大抵、4~7年で次の部署へ異動する、大きな組織だった。その30年ほどの間、率先して幹事役をやらせてもらったことが多かった。
職場旅行から、各シーズンにおける大小の飲み会、女子会等、コーディネートするのが好きだった。
普段は大人しく、仕事中もパッとしない。同僚から慕われているわけでもない。なのに、時々、内側から燃え上がる何かに突き動かされるように、嬉々として企画を始める。
当時は、職場では歓送迎会やら暑気払い、何か大きな仕事の後の打ち上げ、年に一回の職場旅行は当たり前だったので、幹事体質の職員は重宝された。誰かがやってくれれば楽なわけだから、好きなようにやらせてもらえた。仕事以上に熱を入れたのは言うまでもない。
変化球では、東京マラソンに参加する同僚の応援に行こうと企画し、女子十数人でカラオケをやりながら応援ウチワを作ったり(ジャニーズオタクの若い同僚に指南を仰いだ)、皆との応援ダンスを撮影して、件のマラソン走者に送りつけたりした。
また、霊能力のある知人からオラクルカードリーディングを習った時は、蕎麦屋で女子会を開催し、全員をリーディングし恋愛相談会に発展した。普段、まったくスピリチュアルなことを話したことの無い同僚たちと、深い話ができて嬉しかった。
普段職場では、お堅い人物にしか感じられなかった方々との職場旅行では、歴史的建造物である、由緒正しい旅館で、羽目を外しすぎて大騒ぎとなり、後で大反省したこともあるが、大人が目をキラキラさせて子供のように遊び回る姿を見るのは心から嬉しかった。
今、思い返してみると、次のような感覚だったのかな?と思う。
普段、仮面をつけ、鎧を纏う同僚たちに、このいっときだけでいいから、ピュアな自分に戻ってほしいと願ったのかもしれない。
そのために、まずは自分が率先して仮面をはずし、鎧を脱ぐ。つまり、おちゃらけるのは、何の抵抗も無いわけだ。
先日、とある知人も、同じ傾向があったことが分かり、意気投合した。
彼によると、それはあたかも、アメノウズメの裸踊り。周りの神々が、ヤンヤと盛り上がる。
岩に閉じこもったアマテラスを外に出すために、渾身のダンスを披露し、場のエネルギーを上げていく。
アマテラスは、外があまりに楽しそうなので、つい、岩戸を少し開いて、様子をうかがう。そのタイミングで、タジカラオが、アマテラスを引き出し、世界に光が戻ったと神話には書かれている。
彼によると、自分は宴会のコーディネーターをこなしながら、アメノウズメとタジカラオの両方の役目を担ったと言う。
そうか!と、私も大いに共感したのだ。
仮面や鎧を纏う同僚たちは、さながら、自ら岩に閉じこもったアマテラスだ。私は、一人ひとりの持つ純粋さ、美しさ、ユニークさに対峙したかった。一人ひとりの神性は、おそらく、心から笑ったり楽しんだりしている時に、現れるのではないかと、無意識に感じていたのだろう。
皆が、仮面をはずせるきっかけになれるなら、裸踊りさえ厭わない。喜んで渾身のダンスを神々に捧げる情熱があったのだと思う。
しかし、岩の隙間に手をかけて、アマテラスを外の世界にエスコートする、タジカラオ役も、自分でするしかなかった。一人二役だったから、宴会後の消耗は激しかった。
だからだろうか、皆がすっかり打ち解けて、二次会へ彼らを送り出した後は、ひっそり先に帰宅した。場があたたまれば、私はもう、その場から去りたくなるのだ。何故か、そこに居られない。早く独りになりたくなる。
エネルギーを周りに全て放出し尽くし、自分が干上がってしまっていたのかもしれない。
自分で企画した宴会は、もちろん、責任持ってやり遂げたが、別の人が幹事の宴会は、ドタキャンが多かった。おそらく、無意識にエネルギーを周りに与えてしまうので、エネルギー枯渇状態になり、大勢の人間が集まる場に行けなくなるのだ。出掛けると私は死んでしまうかも。というくらいの、気持ちの落ち込みがあった。そんな気まぐれな不安定さがあったため、結果、誰とも親しい関係性を築けなかった。一時仲良くなっても、長続きしないのだ。私から会えなくなった方々は数多い。
どれもこれも、ちゃんとした理由は見当たらないが、私がアメノウズメとタジカラオであったとイメージするなら、ハッと気づくことがある。
今思えば、という気づきだが。
当時は、人間関係が長続きしない自分に嫌気が差していた。だから、長年、自分に自信が持てずにいた。
この解釈は、新しい側面から自分を眺めることにつながった。
例えばだが、アマテラスが、悩む度に、岩に閉じこもり、その都度、アメノウズメは踊らなきゃならないのだろうか。さらに過激な踊りを考案しなければ、アマテラスは、慣れてしまい、顔すら出さないだろう。タジカラオも、暇ではない。呼び出される度に、ああ、またか、と正直思うだろう。
アマテラスの岩戸開きは、一回キリの、真剣勝負だったということだ。アマテラスは、神なのだから、誰かに依存するような情けない存在ではない。誰にも寄りかからず、ひとりスクッと立つ、唯一無二の光輝く存在。人間、誰もがアマテラスだ。私は、皆がそれに気づく微かなきっかけ作りをしたのかもしれない。
ハートから発せられる純粋な光を感じ、素に戻り腹の底から笑えたなら、
私の小さな役割は終わるのである。
もちろん、一回の宴会や旅行で、人生を変える人など、ほとんど居ないだろう。ただ、無意識にでも、自身には無限の力と輝きが備わっている美しい光だと、掛け替えのない宇宙一の存在だと感じてくれたなら。その一瞥体験が、今後のその方の人生を支えていくだろうと信じる。
誰にも気づかれずに、そっときっかけづくりをし、依存されないよう、役目を終えたら姿を消す。
この役目を道化師とも表現できるだろうが、知人の表現、「アメノウズメとタジカラオ」は、自分を見直す良い響きとなった。
この役割は、意識的には行えないので、魂の領域で采配されているのだろうな。
だって、エネルギーを誰かに分け与えてしまうから、エネルギーが枯渇して動けなくなっていると知識があったなら、決して幹事役をやらなかっただろうから。顕在意識で判断すれば、「私のエネルギーは私のもの。」と執着が芽生えただろう。
もう少し大きな視野から見たら、宇宙は循環している。エネルギー総量は変化しない。減りもしなければ増えもしない。
だから、私が魂の役割として、エネルギーの足りないところに無意識に補給をしていたとしても、いずれは還ってくる。それは、街路樹の緑や、可愛らしい花花、清々しい風、家族のさりげない思いやりから、日々、愛を受け取っていることからもわかる。目に見えないから気づかないけれど、きちんと愛は循環している。
今は、退職し大勢と関わる機会は無くなった。二年前に大きな病気を経験したので、今は無理せず、自分に心地よいことだけを選択している。
それでも、たまに、催眠療法のセッションをやらせていただき、クライアントに大きな気付きが得られた時は、魂の喜びを味わう。幸せだなあと思う。以前の私が幹事役をやりながら模索していたのは、この種の喜びだったのかもしれない。
純粋な自分に戻るお手伝いをすること。
今は、思考し、意図的になにかをすることは無い。ただ、静かに祈る。
相手にとって、本日、必要なことがなされ、必要な気付きに導かれますように。私が、透明な存在になり、必要な言葉を発せられますように。と。
たまに、エゴが入り、相手に喜んでいただけないような失敗もしてしまうが、そんな時は、「ああ、これは、エゴだったんだ。気づけて良かった!」と思う。行動しなければ、結果は分からない。たくさんたくさん体験をするからこそ、少しずつ本質が見えてくる。
魂は、失敗するな!とは言っていない。失敗も成功も、それは結果でしかない。チャレンジしている過程こそが気づきと学びの宝庫なのだ。
もう、アメノウズメみたいに、情熱的に踊ることは無いと思うけど···
不器用なダンサーだったけど、楽しかったな。
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