人と比べるのをやめる


 最近、なぜだか、いろんな本で、お釈迦様エピソードに触れている。

「お釈迦様は、人と比べるのはやめなさいという話をされている。

あるお金持ちのお坊っちゃまが、お釈迦様の弟子になった。彼は、弟子たちと一緒に、お経を唱えながら歩く経行という修行をすることになった。

普通の人が当たり前にできることでも、歩いたことのない彼にとってはまさに難行苦行だった、足の裏が破けて血が出てしまい、彼の歩いた道は血の海になった。

お釈迦様は彼に言った。

今、おまえがやっていることは、どういうことか分かっているか?おまえは楽器の名手だと聞いた。楽器の弦はどんな張りかたをするのか?

ちょうどよく張ったときだ。

おまえにとっても、ちょうどいい修行の仕方がある。みんなと一緒に何でもやらなければならないと思う必要はない。おまえができることをやっていけばいい。自分にはできない難行苦行はやめなさい。

人によって中道は違う。

私たちも、あの人がやっているから自分もと思ってつい手を出してしまうことがある。自分には何ができるか、よく見定めよう。

できることは、人それぞれ違う。

見る目を養うのに一番いいのは、余分な力を解き放していくことだ。」

『ゆるんだ人から 目覚めていく。』植原紘治 著 徳間書店 51~53頁より 要約

私も、体に力が入り、他人の言葉に翻弄されていた時期があった。

まだ、エゴの自分が本当の自分だと思い込んでいた頃。二年くらい前だろうか。

精神世界のことを学び始めたばかりで、とある方の勉強会に連続して参加していた。その方は、目に見えない世界が理解でき、魂とお話できる能力者ということだった。学ぶことすべてが、新しいことばかりで、私は、その方の言うことにすがりつくように、何でも吸収しようと必死になっていた。その頃は、自分の魂が、何を求めているのか感じとることが出来なかったため、自分に自信を持つことがなかった。

その方から、厳しいことを言われた。

「あなたは、苦労が足りない。今日、食べる物すら無い。そんな心配をするような苦労をしたことが無いよね。」

私は、それを聞いて、恥ずかしくなった。そうか、私の魂は、苦労が足りないと感じているのか。いつも自分に甘く生きてきたかもしれない。苦労を避けて、安全安心な道を辿ってきたかもしれない。そうか、私の人生は、苦労が足りなかったのか······。

私は、その日の夜、早速、以前の職場での上司に連絡を取り、苦労する仕事をしたいが、紹介してもらえないか相談したのだ。元上司は、障がい者相談施設の長をしていたので、すぐに、障がい者が働く地域店舗の責任者に空きがあるのでと、口をきいてくれる手はずになった。私は、面接までの間、イメトレをしたり、情報収集して過ごした。もしも天が、私に苦労が足りないと言うなら、自ら苦労に飛び込みたいと願った。

しかし、一週間後、面接すら実現しなかった。車の免許が無いという理由だった。

次に、社会福祉関連の資格を取得しようと、専門学校を調べ、手続きに奔走したが、それもうまくいかなかった。

それならと、以前働いていた役所で、繁忙期の部署での短期バイトに申し込んだが、面接に行ったその日に、帰宅したら、断りの電話が入った。予期せぬ理由で。

他にも、ぜひ、アルバイトにと前から声をかけられていたボクシングジムの受付も、コロナだからと、即断られた。

いろんな所からあんなに、働かない?と声がかかっていたのに、全滅。モテモテだったはずが、全員から振られてしまったのだ。どういうこと?

そして、働く予定の無かった、近所の図書館バイトが、不思議なご縁で浮上し、唯一面接が通り、今楽しく働かせてもらっている。

図書館の仕事は、大好きなので、何の苦労も無い。大量の本を書架に戻す作業だって、延々と背ラベル順に並べ替える単調な作業だって、私にとっては、恍惚感に浸れるご褒美だ。好きなことやって、お金をもらえるなんて、こんな楽して、いいんだろうか。

その後、「苦労が足りない!」と指摘してくれた、その方に、「苦労する仕事を見つけようとしたが、ことごとくうまくいかなかった。今は、苦労が無い仕事についている。」と打ち明けたところ、

どういう訳か、そんな指摘をしたことすら忘れられていた。「もし、僕がそんな言い方をしたのなら、それは僕の間違いです。あなたの未来の可能性が輝くような選択をしていってくださいと、言い直します。」と、言われ、唖然としたのだった。

この不思議な流れから、気づいたこと。

人との比較は無意味だと、私は私の実体験から強烈に学ぶ必要があったようだ。

「苦労が足りない。」とは、誰かに比べたら、という比較によるものだ。

転生してくる時にブループリントを作成し、おおよその人生設計をしている。家族関係から経済状況まで、これを学ぼうというカリキュラムがある。人の一生はたかだか80年。すべてを詰め込むのは厳しい。どうしても、選択することになる。

例えば、経済的に恵まれた人生を体験し、お金以上に愛が大切だという学びを深めたいと、魂が決めたとする。そうなると、お金が無いという現実は、プランから離れてしまう。彼がどんなに、「お金の苦労をしなきゃならない。」とマインドで願っても、魂は無駄な体験は引き寄せない。

また、数多くある転生のどこかで、貧しさをとことん味わって学んでいたなら、わざわざ重複する苦労より、新しい学びを得たいと願うだろう。一生は短く貴重なのだから。

このように、人の人生の数だけ、人生プランはあり、学びも千差万別。「苦労するのがいい。」というのも、何が苦労なのか。捉え方は様々だ。私が図書館の仕事を喜んでも、他の誰かからすれば、単調さに苦痛を感じるかもしれず、

人生は、苦労することが大切。苦労から学べ。

というアドバイスは、やたら、指導する側のフィルターがかかってしまい、トンチンカンになりかねない。

他人のアドバイスを聞いたり、本を読んだり、いろんなセミナーに参加したり、占いやカウンセリングを受けたり。

初めのうちは、基礎知識を身に付けるのには有効だろうが、一番いいのは、自力で本質の自分と向き合い、対話することだ。

答えは自分が一番よく分かっている。他人は、あなたの事は分からない。

だから、誰かから

「あなたは苦労が足りない。もっと苦労して学びなさい。」とアドバイスされたら

あ~。この方は、人生でとても苦労されたのだなあ。と、ねぎらい、尊重する気持ちは抱くとしても、自分を卑下する必要はない。まして、「私だって!こんなこと、あんなこと、辛い経験したのよ。」と、苦労自慢する必要も無い。

前述したように、人により、その体験を辛いと感じるか、宝と感じるかは千差万別。

「貧乏で、親が行方不明になり、中学生でホームレスでしたが、今、その体験を本にして、ベストセラーになりました。その体験に感謝しています。」と語る人もいる。その人からすれば、世間で語られる苦労の概念から、次元を遥かに超えた学びを得ている。

私も、高校生の頃は、パンの耳生活だったり、社会人になりたての頃は学費を優先し、一日一食、トマトだけで過ごした時もある。でも、貧しいと感じたことは一度も無い。苦労だと思ってもいない。ただ、そんな時期もあったな。懐かしいなあ。くらいの記憶だ。お金が足りなくてご飯が満足に食べれないというよりも、そんな中でも学べる環境が、有り難くて、お米よりも本一冊を得る幸せにフォーカスしていたからだと思う。

今回は、苦労(特に貧しさ)を取り上げたが、別に、テーマは何だっていい。

人と比べることは、もうやめてもいいんじゃないかな。

という、私の考えを書いてみた。


突然、宇宙情報になるが、

「もう、修行の時代は終わりましたよ。」と、シリウスからメッセージが降りてきていて、たくさんの宇宙魂を持つ方々が、気付き始めているそうだ。

こういう手順を踏むから成功する。というのは、古い時代の話。

これからは、一人ひとりが、本質につながり、やりたいことやっていい。楽しんで軽やかに人生を謳歌していく時代。

人と比べて、自分に必要無いものを求めていく時代は過ぎ去った。もう、新しい時代の波が押し寄せてきている。

まだ、修行されている方がいるならば、本当に自分は修行したいのか。本心を覗き込んでみてはどうだろう。

足から血を流しながら行をすることで、あなたの魂は喜んでいる?

もちろん、魂の望みなら、そのまま進めばよいが、そうでないなら、お釈迦様の言葉を自分にかけてあげてはどうだろうか。

「あなたが、できることをやっていけばいい。難行苦行は、やめなさい。」

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