最後の自己表現

 「夢の始まる前のことだ。

あの状態はよかった、でも「全体は」それ以上の何かを必要としていたんだ。

そうだ、それが始まりだったんだ。

「全体」は、部分をあちこちに撒いて、成長させ、殖やし、「全体」に付け加えるようにした。

今の私は観察者だ。

エネルギーの閃光だった。

退屈、好奇心、離脱、ひとり故郷を離れて、何かを探し、探して、無限に続く、エネルギーでできた明るい太陽の列

他のものたちと一緒になって探し続ける。

入ってゆく。人間になるために。

物質になる。制限された形態のエネルギーになるということ。その制限の重苦しさ。

しかし、エネルギーを肉体の中に保ち、その機能を維持しようとする生来の欲求は、素晴らしくもあり、矛盾に満ちた設計とも言える。

次に、作用し合いながら異なる形態に転じていく必要が生じる。維持することができなくて、何度も何度も試みを繰り返し、生の過程を数知れず繰り返し、毛深い顔をした初めの小さな生き物から、何千年もの過程、人生を経て、何度も何度も、意識と知性の向上と低下を繰り返し、それらすべてを合わせたものが「全体」に持ち帰るべき贈り物なのだ。

私は、あの無数の人生を、すべてひっくるめたものなのだ。すべてが私なのだ。

もう私には、自分が何者かわかる。

「全体」の一部だ、そこに戻りたいという欲求につき動かされている一部なのだ。それでもやはり、ものごとをなし、創造し、建設し、与え、成長し、自分が取った以上のものを残していくことによって、自己表現しながら生きている。そして何よりも、愛の贈り物を「全体」にもたらすことを切望しているのだ。総体的な統一と部分の連続性というパラドックスを含んだ「全体」に。

やらなくては、やらなくてはならないことを思い出した。私たちのために。私たちが「全体」に入ってゆき、復帰するとき、何が起こるんだろう。

完全になるとはどういうことなのか。知らなくちゃならないことを山ほどかかえているんだ。教えてもらえるかい?」

「始まりはない、終わりもない、

ただ変化があるのみ。

教師はない、生徒もない、

ただ記憶があるのみ。

善はない、悪もない、

ただ表現があるのみ。

結合はない、分割もない、

ただ一者があるのみ。

喜びはない、悲しみもない、

ただ愛があるのみ。

優はない、劣もない、

ただ均衡があるのみ。

静止はない、エントロピーもない、

ただ運動があるのみ。

覚醒はない、眠りもない、

ただ存在があるのみ。

限界はない、偶然もない、

ただ計画があるのみ。

これが、我々の知るところだ。」

『究極の旅~体外離脱者モンロー氏の最後の冒険』ロバート·A·モンロー 著 日本教文社 234頁~239頁 一部省略あり


今朝、この本を読んでいて、さらに理解が広がったので、感触をメモしておきたい。

昨日のチャネリングで、私が観念のフィルターを通し、受け取ったこと。フィルターを通すため、どうしても意味を歪ませたり、翻訳する際、言葉の選択を誤ったりするわけだが。

誤りというのも、少し違うか。これは他者の理解を前提に、評価を期待し、外側を意識する言葉だ。

この世で見るもの感じるものは、幻であるから、私が受け取ったものを素直に引き受けていけばいい。

例えば、私が夜見た夢を誰かに語った時に、「それはあり得ない夢だ。真実ではない!」と否定されるだろうか。夢とは、こんなものだと分かっているのだから、「へえ。それは面白い夢を見たんだね。」と、言われる程度だ。

現実も、私が引き寄せ創造した幻なのだから、そこから何を発見し、何を学びとするかは、私に委ねられる。

そんな中で、それでも、他者が書いた文章から、反対に自身の観念の束縛から解き放たれることもある。言葉は不自由なものでもあるが、本来は言葉に置き換えられない世界を何とか他者と分かち合いたいと願う行為は、物理次元での醍醐味ではないかと思う。

モンロー氏の本を読んで、理解が広がった。私の観念を元とする言葉から解き放たれたのだ。

宇宙ファミリー  ⇒  元々の私から分離し、様々な次元でそれぞれの形態で存在する私のこと。全体を観察しながら、漂っている(待機中)エネルギー存在。

帰還命令  ⇒   「全体」に戻る旅。バラバラに分離した私は、各次元より、全員集合してから帰還する。「そろそろ、集合するよ。準備して。」というメッセージを無意識に受け取っている。各々は、満足いくような記憶を既に貯めこんでいる。これらが「全体」へ持ち帰る贈り物となる。

肉体を脱ぐ  ⇒  エネルギー形態の変化であり、物質から非物質になること。元々、形態の変化を数知れず繰り返してきたため、終わりでも始まりでもない。宇宙は変化し続ける。無常。だから、私も永遠に変化し続ける。

今世で慣れ親しんだこの肉体を脱いで、集合場所に戻ったとして、しばらくエネルギー体として待機するのかどうかは分からないが、少なくとも、地球での輪廻転生からは自由になれそうだ。やり残しは無いので、カルマはスッキリ解消されているようだ。

それもこれも、何百とある私の地球体験のおかげだ。殺したり殺されたり、いいやつも悪いやつも、優れたキャラも、ダメダメなキャラも、陰陽の統合には、どの体験も必要だった。

宇宙は広い。次なる好奇心を携えて、集合した私は、旅に出るだろう。

様々な宗教が死後について教えているが、肉体を脱いだら、エネルギー体となり、信念がそのまま、居るべき世界を創造してしまう。地獄も天国も自ら創り出してしまう。自分が信じた形態の高次元存在に導かれるので、神や、仏や、キリストに信頼を寄せていれば、似たような信念の世界に引き寄せられていくだろう。

私は、それらの信念が創る世界をスルッと通過して、純粋な集合場所へ帰還したいと願う。

いくつもの過去世で、仏教、神道、キリスト教に帰依していたから、親しみや愛着はある。もし、観念の中でキリストが現れたら、つい、ひれ伏したくなるかもしれないが、今回、私はそこを超えていくだろう。

*ものごとの始まり

モンロー氏は、始まりはビッグバンではないと言う。なかなか興味深い。

モンロー氏は「放出口」と表現する。

ホログラムが創造され、一方向に流れ出てゆくサイクル。閉じた環。円環であると。混沌、秩序、変化、どれも同じひとつのものなのだと理解する。

「この我々の創造主とは、

我々が人間として生きている限りは、我々の理解を超えている。

我々もその一部として参与している進行中のプロセスの設計者である。

我々の理解の及ばないようなことにも、目的を持っている。

右のプロセスにおいて、必要に応じて調節、微調整を行う。

万人、万物に適用される単純な法則を定める。

崇拝も賛美も、おのれの存在を認めることも要求しない。

悪やあやまちを罰しない。

我々の人生での行いに関して、勧めたり妨げたりしない。


贈り物を持って帰りたいという願望は、その意匠の中で、欠くことのできない部分だ。

最も重要なことだが、あらゆる言葉をつくしても、思いつくどんな音楽性を使っても、このような知識を他人の精神に伝えることなど、私には出来ないとわかった。

知識を得るには、個人個人が、直接経験するしかないのだ。これを可能にするにはどうしたらいいかというのが、必須の課題となった。」243~247頁 一部省略あり


ただの信念なら可能だが、知識として伝えることはできない·······

このモンロー氏の気付きは、私にとって大きな示唆となった。しばし、呆然となり、噛み締めた。

あらためて思う。私は、言葉を使い、何かを表現するのが好きだ。ただ、自分だけが楽しむために、記録するのではなく、こうして不特定多数の誰かに発信する。そのことにワクワクしている。

そもそも既知とは、なんだろう。教科書に掲載されていれば、知識だろうか?歴史の記録など、時の為政者にいくらでも書き換えられているのは周知のことだ。

知識は、個々の体験からのみ得られるものであり、真の意味で、他人の精神に伝えることなど、望めない行為なのだ。

それでも私は書き続けるだろうな。コツコツ、これからの体験と気付きを綴るだろう。例え、読者がたった一人しか残らなくても、その一人に向け、発表するだろう。

これが、制限の世界で私が見出だした挑戦だから。テーマは、「物理次元を超えた世界を言葉を介して誰かと分かち合うこと。」

ああ、そうか。

これが、私の今世での自己表現だったのだな。もしかしたら、最後の。


*ヘミシンク体験経過

ヘミシンクの音声を贈られてから、三回目の練習。Yさん、ありがとうございます。

今は、焦らず、脳と心を同調させたり、身体をリラックスさせたり、目覚めさせたりするトレーニングをしている。何回か繰り返すと、意図するだけで、フォーカス10に出入りできるようだ。簡単に言えば、催眠療法のテクニック、プラス、左右に違う周波数の音を聴かせるのがヘミシンクの仕組みのようだ。

深くリラックスを感じている際に、私の体内で微細な変化を感じた。

身体は布団に横たえており、肉体はしっかり安定して置かれていたのだが、体内で、グラッとする感覚を味わった。均衡を失う感じ。目眩みたいな。または、自分が波になったような体感もあった。物質である肉体に同化している意識エネルギーが、結着部分を剥がし、身悶え始めたようにも思う。これは、容れ物であり、私という意識は、肉体よりも遥かに拡がり自由であると、思い出し始めたのかもしれない。

今後もヘミシンク練習の経過を綴っていきたいと思う。肉体を去ったとしても、終わりではないこと、永遠の意識エネルギーであることも、体験を通し伝えていきたい。

ちなみに、お亡くなりになると、永眠とか、逝去とか、ニュースではあからさまに死亡と表現されるから、言葉のエネルギーからも悲愴感漂うが、最近本を読んでいて、亡くなった著者のプロフィールに「○年、帰星」と表現されていた。それを見て、ああ、魂は旅人なんだなあと、爽やかな気持ちになった。


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