ワンネスにある時に
ワンネスにある時
私たちは、調和の中に居る。
互いが受容し合い、愛を循環させているので、今、ここに在る喜びで満たされる。
もしかしたら、あなたは
攻撃され、否定され、コントロールされてしまうという、不安を感じているかもしれない。
目の前に、次々と、欠乏を提示され、恐れを増幅させているかもしれない。
幻想は、小さな争いから、巨大な戦争まで、リアリに映写され、あなたを絶望へ誘うかもしれない。
正義と正義のぶつかり合いは、果てしなく続くかと思わされるかもしれない。
実は、欠乏を提示する者も、争う者も、あなたの中に在る。
必死に抵抗し、排除しようとしている相手は、実は自分自身だ。
私たちは、ワンネスにある時に
不安も恐れも
この領域には入れない。
私たちが、穏やかで、周りのすべてに感謝して、互いに愛を循環させている時には
不安も恐れも、退散せざるを得ない。
そのためにすることは
ハートを開くだけ。
怖くて不安で、縮こまり、固く閉ざしてしまったハートに語りかけ、柔らかく開放すると
私たち本来の回路が復旧する。
自分の生きる目的にかなう方向を示してくれる、高次の導きシステムは、すべての人々に漏れなく存在している。
不安や恐れの中に居る時は、回路がつながらない。
安心と信頼の中でハートを開けば、回路は繋がる。
繋がれは思い出す。
私たちは、元々が、ワンネスにあることを。
ハートを開いて、外に出る。
空の青さは、透明で美しく、こんなに色鮮やかだったかな?と驚くだろう。
風はふんわり心地よい
鳥のさえずりは、「おはよう」に聞こえ
木々が、葉を揺らす姿は、まるで、私を歓迎し手を振っているかのようだ。
道端の花に、「可愛いね、綺麗だね!」と声をかけると、喜んで、微笑み返してくれる。
心は、穏やかさに満ちている。
空も、風も、鳥も、木々も、花も
意識を拡大していけば、一体となる。
地球の躍動は、心臓の鼓動となる。
手を広げ、大地と空に溶け込むイメージをする。
その感覚は、ワンネスに近づいていく。
今に在るその瞬間には
不安も恐れも存在していない。
ハートを開き、すべてとひとつになると意図すると
ただ、今、ここに、在る。
たくさんの存在が織り成す愛に感謝し、愛の循環に身を委ねていく。
ああ、すべてこれで良かったんだ。
すべてが腑に落ち、スッキリ軽くなっていく。
答えは、私たちの中にある。
ただ、ハートを開くだけでよいのだ。
そんなの、信じられないよ。この不安も欠乏感も、私のリアリな現実であり、逃れられないよ。
もし、そう感じているなら
呼吸を意識してほしい。
私たちは、呼吸を止めると、おそらく数分で死亡する。
あなたが呼吸して生きている事実を、しっかり感じてほしい。
空気の濃度は、奇跡的バランスで、すべての生命体を生かしている。
地球は、あなたを嫌いだから、あなたには何も与えないとか、考えるだろうか?
争う人々は邪魔だから、酸素をあげたくないと、植物が考えるだろうか。
無条件の愛を たくさん、たくさんいただいて、今、この一呼吸が、あなたを生かしてくれている。
酸素を体内に巡らせ、活動の結果排出された二酸化炭素を吐き出す。
その二酸化炭素を、植物が利用し、また、きれいな酸素が生み出される。
私たちの呼吸も、他の存在を生かしていることに驚かされる。
あなたの一息に、他の存在から「ありがとう」が寄せられている。
私もあなたに伝えたい。
存在してくれて、生きていてくれて、呼吸してくれて、ありがとう。
愛は、呼吸。
一息ごとの「ありがとう」
だから、あなたは、既に愛であり、ワンネスに在る。
ハートを開いて、思い出すだけなのだ。
☆正義と悪について
私たちは、この地球で、三次元にフォーカスしていると、どうしても出来事を二元論で捉えてしまう。
有史以来の、歴史上の人物は、時の権力者に正義と認定されるか、悪と認定されるかで、伝承が変わってくる。
物事は多面体なので、表面だけを見て、正義と悪を論じても、本当は何も理解できない。
例え、その時代に、高々数十年の活躍で、讃えられたり、蔑まれたりしたとしても
何十億年という宇宙の歴史から見れば、宇宙の采配による一つの歯車であり、一つの役割に過ぎない。
宇宙開闢からの出来事を一枚の絵に描くなら、どんなに崇められる正義であろうと、極悪非道な悪であろうと、ジグソーパズルのワンピース。絵を完成させるために、そのピースは必要であり、そのピースがあるから、他の部分も成立する。
ピースは、バラバラに見えるが、すべては、宇宙根源の意識に集約される。
二元論上の悪役のピースを担った魂も、必要な役割であったと言えないか。
正義も悪も無く、陰陽は反転するエネルギー。
宇宙源が描く壮大な夢のひとつのカケラを、今、「私」という意識が担っている。
自分の意志で人生を進んでいるように感じているかもしれないが、本当は、大いなる意志に動かされているだけなのかもしれない。
出来事を評価することなく、そのまま眺めてみる。客観視する視点が、実は「私」本体。
「私」という意識は、永遠のエネルギーであるから、例え、ドラマティックな出来事に巻き込まれ、形態を変化させたとしても(肉体の死)、本質は変わらない。
「私」という個性意識は、どこかで戦った兵士だったかもしれないし、残虐な王だったり、疫病で亡くなった名もなき人だったかもしれない。その時、その瞬間に、役割を担ったにすぎない。
三次元世界で感情を揺さぶられながら観ている現実(幻想)も、役割を演じる相手に影響される自分の役割を、やはり演じている。
何のため?
ドラマを通して得た気付きを、宇宙の叡智とするためだろうか。
「あなたがワンネスを象る円の気付きに帰還したとき、あらゆる観点からワンネスに気づくことが出来たのを覚えていますか」
「自分という存在のあらゆる面をさらにもっと深く究めていくと思うと楽しみだった。」
『サナート·クマラ物語』ヴァイワマス 139~140頁より
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