曼陀羅のシンクロニシティ
一昨日の夜、ふと気になり
『世界で一番美しいマンダラ図鑑』を眺めていた。
この本は、随分前に手元に来ていたのだが、リビングの本の山に積んだままになっていた。
ふと気になるとは
潜在意識からのメッセージのことが多い。
理由は分からないが、気になったので、眺めた訳である。
マンダラ(曼陀羅)とは、狭義にも広義にもいくつか特徴があるが、ザックリ言えば
円くて、すべてが備わっていて、何一つ欠けていないもの
というのが本質に近いかと思う。
(実際の仏教曼陀羅は、正方形もある。対称性のある幾何学的な形態とも言える。)
この本は、自然界のマンダラにも言及しており、興味が尽きない。星の軌道、野菜の輪切り、花、切り株の年輪もマンダラ構造だ。
フラクタル(部分と全体が自己相似=再帰)とも言う。
人体を含む自然界の事物の大半が、フラクタルに近似しているそうだ。
例えば、人体の細胞をクローズアップしていくと、原子核と電子軌道が見えてくる。
これは、太陽の周りを公転する惑星の動きにもなる。
*ブータンの曼陀羅『宇宙図』
古代の仏教経典を元に描かれた宇宙観であるが、天体望遠鏡も、観測ロケットも存在しない時代に、なぜ、この構造が分かっていたのか。驚くばかりである。
以前、前世療法を受けた時に、宇宙人の前世が出てきた。この療法後の数日、いろいろな情報が潜在意識から押し寄せてきて、こちらのblogにも記録しておいたのだが
その中に、今思えばフラクタル構造についての情報があった。
私たちの内側にも宇宙が広がり、外側にも宇宙が広がり、果てしない入れ子構造ではないか?というイメージだ。全体であり一部。一部であり全体。そんな感じか。言葉にすると、訳が分からなくなる。この感覚をどう伝えたらよいのだろうか。言葉にするほど、離れていく。
さて、このマンダラ図鑑を味わった翌日
皇居前広場にて、ふと空を見上げたら、日暈(ハロ)が、巨大な円を天空に描いていた。
写真では、なかなか伝わらないかと、残念だが、あまりに大きすぎて、あまりの迫力に、圧倒された。宇宙にいきなり放り込まれたような、意識変換が促されたような、強いて言葉にするなら
すべてはつながっている
という果てしなく広がる気づきだろうか。
そう言えば、何故か分からないが、
昨日の朝、ふと思いついて、宇宙の始まりを体感する催眠スクリプトを作った。
潜在意識から促された曼陀羅情報と、昨日、現実で見せられた日暈と、不思議なつながりを感じた。
シンプルだが、日暈もマンダラであり、
私の作ったスクリプトも、宇宙の始まりに、意識エネルギーが分離し、悠久の時を経てまた源に帰っていく円の流れ(再帰)を描いており、文章化されたマンダラだったのではないか?
不思議なこともあるもんだなあと、考えていた。
美しい日暈の写真をとある方に送っておいたところ、その方から、昨夜、びっくりする返信が届いた。
なんと、その方は、昨日、現代のマンダラ作品を鑑賞していて、その写真を送ってくださったのだ。
その方にマンダラについては、一切伝えていないのにも関わらず、またしても、マンダラである。
このシンクロは、いったいなんだろう。
ちなみに、都内で空を見上げると、こんな風になる。
高い建物に視界を遮られるので、空全体を見渡せる場所は、なかなか無い。
昨日は、たまたま、千鳥ヶ淵に桜を見に行って、皇居周りを半周して、たまたま皇居前広場に行き着いた。意図せず、都内でパカッと開けた空間に(一切邪魔なく、天空が眺められる貴重な場所)誘われたようだ。
たまたま、とか、ふと、とか。
こういう感性、大事にした方がいい。
私たちが、本来のあり方に戻っていくために、直感を大切にして、流れに身を委ねていると、きっとマンダラのように
すべてが美しく調和した世界が、実は私の中にも外にも既に在ったのだと
目が覚めるような気がする。
今、ふと思った。
例えば、我が家に同居する小さな羽虫
1ミリに満たない体
命は儚く、弱々しく
人から見れば、とるに足らない存在
足りないとか、欠けているとか、存在意味なんてあるの?とか
そんな風に捉えてしまうのは、人間の思考(エゴ)だけで
虫は虫で、完璧であり、全体の循環の中で調和して短い命を輝かせている。
虫の体を顕微鏡で拡大していけば、そこにもフラクタルが見られ、宇宙がある。
人間も何かの存在のフラクタルに過ぎず、私たちが虫を眺めるように、何者かに、そう思われていて、ある瞬間にバシッと潰されるかもしれない。(笑)
私たちはそれを宇宙の終焉と捉えるのかな。
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