瞑想はマインドを強化する?
たびたび紹介している呼吸道の清水友邦さん
本日のFacebookの投稿は、興味深かった。
確かに、陥りやすいかもしれない。
自分用の備忘録として。
以下、清水さんの投稿です。
☆☆☆☆☆☆
瞑想についてクリシュナムルティはこんなことを言っていました。
『「瞑想には色々な流派が、メソッド、システムがあります。
なかには「自分の足の親指の動きを見よ。
それを見よ、ひたすら見守るのだ」と言うシステムもあります。
また、ある姿勢で座り、規則的に呼吸をするか、気づきを練習することを提唱するシステムもあります。
これらはすべて全く機械的なものです。
別のメソッドはあなたに特定の言葉を与え、それを唱え続けるなら何らかの並外れた変容体験をもつだろうと教えます。
これは純然たるナンセンスです。
それは一種の自己催眠です。
アーメンだのオームだのコカ・コーラだのと際限もなく復唱することによって、あなたは明らかにある特定の体験はもつでしょう。
繰り返しによって精神は静まるからです。
それはインドで何千年も実践されてきたよく知られた現象で、マントラ・ヨーガと呼ばれています。
繰り返しによってあなたは精神を温和に、柔和になるよう仕向けることはできます。
しかしそれは依然として取るに足りない、安っぽく卑小な精神なのです。
庭で拾った棒切れをマントルピースに飾って、毎日花を供える方がまだマシなくらいです。
一ヶ月もたてば、あなたはそれを崇拝するようになっており、その前に花を供えないことは罪になるでしょう。』
(クリシュナムルティ/概知からの自由)
マントラ瞑想よりもそこらへんに落ちている棒切れのほうがまだマシだなんてクリシュナムルティはずいぶんと辛辣ですね。
集中的瞑想は眠りをもたらし、夢を見て気持ちが良くなる麻酔のような鎮痛効果があるというわけです。
麻酔は切れるとまた痛くなってしまいます。
努力して瞑想をしている状態はマインドの次元なのです。
こう言いたくなるクリシュナムルティの気持ちもわからないわけではないです。
クリシュナムルティは子供の頃から神智学協会の礼拝儀式にうんざりするほどつきあわされ、高次元のマスターからの啓示、秘儀参入を何回も経験しているからです。
クリシュナムルティが「意図的な努力や訓練、または宗教団体や何かの組織に属することによって覚醒を引き起こすことはできない」と言った背景には秘儀を通過した高位のマスターであるはずの神智学協会の幹部たちが俗物で凡庸なままだったことにあります。
あらゆる秘教的教え、ランクつけされた何段階もの秘儀参入のイニシエーション、そのシステムは どこにも導かなかったことをクリシュナムルティは目撃したのです。
マインドフル瞑想の広告を読むと悩みや不安な心をなくしたり、集中力をつけたり、潜在能力を増大させてビジネスに役立つとかかれているので、瞑想によってある特定の意識状態を得たり、到達すると考えている人は多いと思います。
瞑想はあらゆる思考と感情に気づいていることなので、今ここからはなれて結果や成功を求めるのは瞑想ではないことになります。
瞑想ではなく妄想になってしまいますね。
思考を止めようとしたり鎮めようとしたりすることも瞑想ではないということに気がつかなくてはならないでしょう。
努力している状態は本当の瞑想ではないのです。
思考を止めようとすること自体が思考なので、結果を期待して、未来を考え、判断し想像して努力することは思考の世界にいることになってしまいます。
思考の世界は自我なのでクリシュナムルティに言わせると「依然として取るに足りない、安っぽく卑小な精神」なのです。
瞑想のメソッドのほとんどが集中を要求します。
思考が常に頭の中で動いているので、集中への努力そのものが思考の網を広げその網に自分が絡まってしまうのです。
やっかいなのは絶え間の無い思考がいつも自己の中心にいますから、努力して集中しているのは思考が投影された自我だということに気がつけないということにあります。
思考という蜘蛛の巣に引っかかっているわけです。
思考を観察できた。
思考を支配した。
思考をコントロールできた。
できたと思っている観察者もまた思考だということに気がつかなくてはなりません。
これは得する損する。
あれは良い。悪い。
うまく行った、いかない。
と言っている観察者がいる時は観察されるものと観察者に分離しています。
思考が作り上げた観察者がいるうちは葛藤がやむことがありません。
瞑想を訓練していくと一時的に心を制御できるようになります。
しかし瞑想をやめると元に戻ってしまうのです。
意識の集中はマインドを強化してしまいます。
そんな瞑想を何十年もやっているとかえってエゴが育って強固な自我の壁を構築してしまうことがあります。
クリシュナムルティの言葉を頭で理解すると思考を停止しようと努力しないで思考を止めなくてなりません。
では、どうすればよいのかと言っても、「あなたを導く教師や救い主はいないし、方法はない」と明言するクルシュナムルティの言葉の前でマインドは途方に暮れてしまうでしょう。
瞑想の要点を絞れば共通項は見守ることです。
瞑想法は心が静かになることを求めます。
心が静まったとき気づきが起きます。
思考を超えた知性が気づきです。
結局、思考が静まった状態(ノーマインド)を何回か経験していく中で気づきが何であるか腑に落ちればいいのです。
森を散歩して鳥の声を聞いてる時、
水面に映る月を眺めている時
暗闇の中で赤々と燃える炎を見ている時、
恋人の瞳を黙って見つめている時
日だまりであそぶ子供達を見ている時、
ただ見守っている気づきだけがあります。
そこには
沈黙があり
愛があり
光があり
永遠なるものが在ります。
そもそもの始まりが終りであって
時間と距離はなく
登り行く途上自体が頂上で
出発点が到達点なのです。
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