目に見えない世界は95%
私たちは、五感を使い、世界を感じる。
そのうち視覚に80%頼る。
そのせいか、目に見える世界だけが存在すると勘違いしてしまう。
この世界は、目に見えるのは、たった5%。見えないのは95%。
世界は、いろんな形態が存在する。すべては同じエネルギー。大元から発する。人間も植物も動物も、人工的物質も自然もみんな、同じエネルギー。ただ、エネルギーの状態が違うので、見えかたが異なる。
水が、気体や氷になるのと同じ。
私たちは、目に見える世界側からの見方と
目に見えない世界からの視方ができる。
後者は主に、視覚以外の感覚により味わう。
例えば、直感って、ある。なんとなく、ふと、嫌な感じがしたとか。やった方がいい気がしたとか。誰もが持つ能力。これは目に見えない世界を感じている証。エネルギーを読んでいるわけだ。
これを押さえておくと、眼に見える現実だけを頼りに、脳で思考し、選択し続けていくことに無理があることが明らかになる。
例えば、友達が怒っている。目の前で不機嫌になって、イライラしている。これは目に見えた現象。「ああ、私、何かやらかした?失礼なことしちゃったのかな?あれがいけなかったのかな?それとも?あ~嫌われてしまった。」こうして、人は友達から嫌われたという現実を創る。
しかし、単に友達がイライラしてる。それをそのままに受け止め、「ああ、イライラしているんだね。」だけで、静かにそっとしておく。自分の内面を平安に保っていれば、いつのまにか相手の問題は解決している。後で、友達は歯が痛かっただけということが分かる。そのイライラを誰かにぶつけて、解消したかっただけだと。目に見えない世界のエネルギーを読むと、不要な現実は起こり得ない。
だから、目の前に問題が起き感情を揺さぶられネガティブに誘われそうになったら
目に見えるのは、たった5%!私には、何も分からない。そして、相手も自分の真実は分かっていない。
ということを、思い出してほしい。
お互いに、たった5%しか理解できないのであるから、あれこれ先走り、不安を膨らませ、感情の奔流に自動的に流されていくのではなく
ひたすら観察する!
五感プラス直感を使ってみる。
観察は、客観視なので、出来事から自分を切り離すことが可能となる。少し上の方から俯瞰もできる。どうせ分からないのだから、一旦保留ボックスに入れておくこともできる。
時期が来れば、分かる日もくるだろうから、今はひたすら目の前の日常に集中する。
考えても仕方ないことは考えない。
これはよく言われる先人の知恵。
分かっちゃいるけど、考えてしまうのよね~。
ならば、こう考えてみては。
不安や恐れは、意識が必ず過去や未来に行っている。意識を今に持ってくると、不安も恐れも存在しないことが分かる。なぜなら、まさに今は、健やかに呼吸して生きているわたしが、ただ在る。不足なく満ち足りたわたしが在ることに気づく。
目の前の日常に集中するとは、例えば、風呂掃除するとか、スーパーまで歩くとか、電卓を叩くとか、何でもよいのだが、意識が今にある。
意識を今に持ってくる時、時間や空間は消え(その概念が必要なくなる)思考は静かになる。いわゆるフロー状態。または、催眠状態。
この条件下では、わたしたちは、本来の自分に繋がる。
本来の自分は、宇宙すべてに繋がる調和した存在。調和は、美であり、平安である。
そこに繋がれば、一瞬にして、問題の意味が腑に落ちる。バラバラだったパズルのピースがピッタリはまり、全体像が浮かんでくる。
ああ、これで良かったんだ。起こる出来事は、私の人生がよくなるためにしか起こらない。
感覚としては、神仏の手のひらで、計画通りに滞りなく進んでおり、自由意志のようで、それも計画の内という感じ。
神仏の概念は、宇宙源=大元のこと
この世界は、大元のエネルギーですべてが出来上がっているので、
神仏は、自分自身の魂とも表現できる。
私という個があり、すべてから分離しているという幻想が、不安や恐れを生む。
実は、目の前に見える観葉植物も、空を飛ぶカラスも、白い雲も。お隣の○○さんも。宇宙のすべては、わたし。同じエネルギー。エネルギーの総量は変わらないから、消えたように見えるだけで、違うエネルギーの状態に変化しただけ。
桜の花は、二週間しか咲かない。花びらは散り、地面に落ちる。やがて土壌の栄養となり、新たな命となり芽吹く力となって····エンドレスに続く。
人間も肉体が死ねば、魂というエネルギー体となり、宇宙大元へ還る。また、そこから個性エネルギーが飛び出し、宇宙のどこかの星で、次なる体験をするのかもしれない。
すべての体験は、大元に集約され、共有され、全体は個々の体験に分散化することで、一時に無限の数の夢を見る。
これを神の遊び(リーラ)とも
宇宙の成長とも言う。
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