病気とエゴ
病気は大いなる祝福という気づき
過去に大きな病気になり、手術や入院をした体験は4回ある。
10歳: 扁桃腺肥大による摘出~3週間くらいかな
26歳: 虫垂炎、腹膜炎~1ヶ月
52歳: 肺塞栓症~3週間
52歳: 乳ガン摘出~一週間
たいていは、病気はしんどい。
繰り返される検査は痛いし、術後も痛いし。
普通の神経を持ち合わせていたら、入院となったら、シュンとしてしまうだろう。周りも、「何て可哀想なんでしょう。」と同情するだろう。
しかし、私の場合は、不思議と入院ライフを楽しんでいた。もちろん痛みもあり、肉体的不快感はしっかり味わった。それにも増して、穏やかな幸福感があった。
10歳の頃は、毎日病室に母が居てくれたし、同年代の子どもたちと仲良くなって、プレイルームでみんなで遊び回った。おそらく可哀想に思ってくれたのか、父が玩具を買ってきてくれたりして(クリスマスや誕生日でもないのに!)愉快で楽しい記憶しかない。
26歳の時は、急な入院で不安な夜もあったが、概ね穏やかな心境だった。死に近い場に居たせいだろうか。生も死も渾然一体となり、不思議と恐怖心が消え去った。自分でも訳が分からないが、やたら素直で純粋な気持ちになり、感謝の気持ちに溢れていた。まるで天使にでもなったかのような当時の心境は、退院して日常が始まると消えていったが。あの心境が消えずにいれば、私はずっと幸せだったのに。なんて、罰当たりなことを考えたものだ。
52歳、自宅前で倒れ、救急車で運ばれてから、検査、転院、入院、手術と怒涛の展開が繰り広げられた。この時も、一貫して「わたしはぜったい大丈夫!」という、確固たる安心感が腹の底に満ちていた。だから、入院はワクワクしていたし、食事は美味しいし、たまに病院の小さな売店に行くと、ささやかな買い物がたまらなく嬉しかった。小さな出来事一つひとつがキラキラ輝いていて、そこかしこに愛のエネルギーを感じた。
この時は、多少、スピリチュアルの知識があったので
「もしかしたら、神様や仏様、守護霊、ご先祖様、天使、龍神さまが、助けてくれているのかなあ。何で私はこんなに、愛に満たされ、すべてに満足して穏やかな気持ちになっているんだろう?」と考えたりしていた。
当時は、エゴの自分とほんとうの自分の違いすらよく理解していなかったため、この至福感は、外から(天上界みたいな)もたらされたに違いないと思うしかなかった。だって、日常では、私の中には、いつも足りないという欠乏感しか感じてこなかったから。
なぜ、命の危機に直面したり、身体を回復させなければならない時、私はあんなに、満ち足りていられたのか。
そして、なぜ、幸せを謳歌するはずの日常では、これほどの至福感を味わえないのか。欠乏感に振り回されてしまうのか。
これは、長年の謎だった。
だから、私は、「目に見えないけれど、私を守る存在がきっと側にいて、エネルギーを送ってくれたのだ。」と漠然と思っていた。
その謎が解けた!
エックハルト·トールの本によって。
「病気はエゴを強くも弱くもする。
不満を言ったり自己憐憫に耽ったり病気を恨んだりしていると、エゴは強くなる。
「私はこれこれの病気に苦しむ患者だ」
というわけだ。
また病気を自分の観念的なアイデンティティの一部に取り込んでも、エゴは強まる。なるほど、あなたは患者なんですね、ということになる。
いっぽう、普通の暮らしをしているときにはエゴが強かったのに、病気になると急に穏やかに優しく親切になる人たちがいる。
そういう人たちは、普通に暮らしていたときにはなかった洞察を得られたのだろう。内面的な知力や充実感に触れて、智恵の言葉を語るようになるのだ。そして病気が回復してエネルギーが戻ると、エゴも復活する。
病気のときはエネルギーレベルが非常に低いため、生体の知性が働き、残っているエネルギーは身体を癒すために使われる。
だから精神のための、つまりエゴイスティックな思考や感情のためのエネルギーが不足する。
エゴには相当量のエネルギーが必要だ。
だが場合によっては、残ったわずかなエネルギーを依然としてエゴが使っていることがある。
言うまでもないが、病気になったときにエゴが強くなる人たちは、病気の治癒に時間がかかる。なかには回復できずに病気が慢性化し、間違った自己意識のなかに恒久的に組み込まれてしまうこともある。」
『ニュー·アース』エックハルト·トール著
137~138頁より
入院し、エゴにエネルギーを回せないことにより、私は、いまに在る状態に必然的になっていた。つまり、人は、命がかかると、ほんとうの自分が輝きだし前面に出てくる。ほんとうの自分は、宇宙源の分け御霊であり、神性そのものであり、調和しているから、不安も恐怖もネガティブさは、一切存在できなくなった。あるのは、安心した穏やかさ。愛と感謝のエネルギーだ。
思考(エゴ)に支配されていない本質の自分になることを「さとり」とも言うが、私は、幸いにして、病気によりその真実を垣間見る体験をもたらされていた。生体機能により、エゴは眠らされてしまったのだ。
なるほどなあ。
あの心境が、ほんとう自分だったのか。
入院を四回も体験したことは、祝福だったのだなあ。
人生経験すべてにYesと言える。
私が到達した真実。
出来事は幸も不幸も無く
あるのは
あらゆる体験を喜んでいる
いまに在る
意識エネルギー。
これが、私の正体だった。
何も、病気を奨励しているわけではない。
たまたま、私は病気により気づきを得るという体験を選んだ。
世の中には、健康体で病気に頼らずとも、ほんとう自分を見いだし、イキイキと暮らしている方も沢山いる。
そういう例もあるよという話。
ちなみに
今は、体力も回復し、身体は元気なので、エゴもしっかり働いている。
小さな出来事に一喜一憂し、心配やら不安やら怒りやら、不快感もたっぷり味わっている。
エゴがあるのも、健康の証なのかもなあ。
エゴのせいで、人は不幸を感じ、苦しむけれど、仕組みが解ってしまうと、何となく愛おしく思えてくる。
エゴを楽しめるのも、地球での体験があるからこそ。人間を卒業したら、エゴは消える。
今だからこそ味わえる貴重な感情だ。例えネガティブであったとしても。
これで、いいのだ。
人間だもの。
数年前、スピリチュアル能力者のセッションを受けた時、ハイアーセルフからのメッセージを伝えてもらったことがある。
一言
「Enjoy!」だった。
唖然とした。
いかに日常が辛いか、涙を流しながら、ヒーリングを受けていた私には、そのメッセージに物足りなさを感じた。
な~にがEnjoyだよ。こっちはこんなに辛いんだよ!と、恨めしく感じてしまったものだ。
しかし、今なら相応しいメッセージだったと理解できる。
楽しんで!
としか言いようがない。
私たちは、自ら望んで、エゴによる二元性の世界を味わいに来たのだから。魂視点から見れば、誰もが「体験を楽しむ」ために、地球ドラマを演じているのだから。
「遊園地行ってくるね。」「映画観てくるね。」と誰かに言われれば、
「ジェットコースターがスリリングで、可哀想。(涙)」「映画のストーリーが波乱万丈でお辛かったでしょう(涙)」とは決して相手に言わない。
「楽しんできてね!」
やっぱり、これしかないよね。
ハイアーセルフさん、その節は、恨んだりしてごめんなさい。
Enjoy!
人生に翻弄され、悩みの極致にいる人物に、もしこの言葉をかけられる人がいるなら
実は、世間体とか、自分が責められそうだとか、そんな束縛から解き放たれた自由の境地にいらっしゃる方なのかもしれない。
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