現実はあくまで優しい
(写真:皇居前広場にて、白日の下に晒される私。思いがけない出来事により、一気に浄化された。)
前回のblogで、現実は自己の内面を現すと書いた。昨日の出来事を記しておきたい。
昨日、私とK氏は、大型書店の一角に居た。平日であり、客は疎らであった。私たちは、さらに人気のない鉱物のエリアで、静かに本を眺めていた。周りに人も無く、平和で静かなひとときであるはずだった。
誰かが、私たちの背後を通り過ぎていった。その人物は、K氏にぶつかった。K氏は、こんなヒト気も無いエリアでわざわざぶつかった相手に、ムカッときたに違いない。避けようと思えば、いくらでもスペースはあるわけだから。
さらに、ぶつかった相手は、信じられない挑発をしてきた。
「邪魔なやつだな。やるのか?やるなら、どこでも行くぜ。言いたいことあるならいくらでも聞くぜ。」
私とK氏は目が点になった。
まるで、ヤクザの喧嘩の売り方である。K氏は、思わず挑発に乗りかけ、相手に近づいていった。「ぶつかっておいて、謝らないのか。失礼なやつだな。」相手も引き下がらない。「やるのか。行くなら行くぜ。」
ヤクザみたいだが、普通の身なりのよいサラリーマンだ。丸の内の大手企業で勤めるエリートだろう。
K氏は、それ以上挑発に乗らず、無視することにしたらしい。気持ちの切り替えの早さには、毎回学ばされる。K氏は、穏やかな口調で私に話しかけた。「その本買う?ゆっくり見なよ。」私は内心ドキドキしていたが、何事も無かったかのように静かにレジに向かった。
心乱れたサラリーマンは、書棚の向こう側に消えたまま、もう現れなかった。
現実は自己の内面の現れだという。十年に一度くらい、このように、同行者がいわれの無いインパクト大の絡まれ方をされる出来事が起きる。今回は、私の何がK氏の体験を通して現れたのか。K氏は可哀想だったが、私の気付きのために付き合ってくれたのだろう。
解釈は、いろいろあると思う。
まず、気づいたのは、「邪魔だな。」と思う私の狭量さだ。口に出さずとも、心根で、わたしはあのサラリーマンと同類なのだ。ここで白状する。
図書館で、本を棚に返す仕事をしているが、たまに、返したい場所に利用者が陣どっている。もちろん、利用者優先であるから、作業は後回しにするのだが、忙しいと、狭量さが出てくる。「邪魔だなあ。」と苛つく自分を感じてはいた。なぜ、こんな小さな私なのだろう。本を元の場所に戻すのは私の仕事だ。しかし、自分の思い通りに進まないと、邪魔されたような不快感が沸き上がり、イラっとする。そんな自分が嫌で、狭量さを自覚していた。どうやってこのネガティブさを手放せるのか。無意識下では悩んでいたと思う。
今回、かのサラリーマンは、自分の進む方向に人が立っていたことが許せなかった。ぶつかってでも、邪魔であると思い知らせたかった。彼は正直に、心の内を言葉にしたのだ。言葉にせずとも、舌打ちしたり、表情を歪めたり、感情を胸に宿した時点で、その周波数を身体から発信するわけだ。あの心乱れたサラリーマンは、私の周波数を現実化したものだった。
自分の内面の泥を解りやすく見せられたことで、大いなる反省が沸き上がってきた。ああ、これで手放せる。そうも思った。あまりの自己の醜さに直面させられ、もう、この感情は私には不要だと、心底思わされた。痛いほど、手放したいと願った。
例えば、私が現実に図書館で、利用者に「作業の邪魔だからどいてくれ。」と心無い言葉を投げつけたり、本に没頭し通路を塞ぐ子どもに舌打ちしていたら?行動に移したかどうかの違いはあれど、心の有り様を示したに過ぎず、彼の醜い姿は私そのものだった。ショックだった。私は、その瞬間、鏡に我が心を見たのだ。
ああ、こうやって、現実は学びをもたらすのかと、呆然とした。
私たちは、本屋を出て、皇居方向へと散歩した。
平日のせいなのか。感染症で観光が制限されているのか、二重橋前の広場は、私たち以外誰もいなくなった。都内では貴重な、空間の広がりの中で、太陽の真っ直ぐな光りに射られるように照らされていた。白日の下に晒されるとは、こんな状況かもしれないと思った。
もう、虚飾は通じない。すべてが明るみにされる。そう覚悟する気持ちになった。もし、神が居るなら、神はすべてお見通しだ。そして、神はすべての命に宿る。
恐ろしさより、清々しさを感じた。
皇居東御苑を散策し、出口に向かう時、私は庭園内の木々に声をかけた。「浄化してくれて、ありがとうございました。」
すると、呼応するかのようなタイミングで、にわかに風が吹き始めた。枝が手を振るように揺れ、葉っぱが言葉を発するようにサワサワ音をたてた。
「また、いつでもここにおいで。」と言われた気がした。
その瞬間、目にするもの、耳にする音、すべてが愛であると、理屈を超えて全身で感じた。
私たちは、間違いなく、愛に導かれている。こんな小さな、泥にまみれた人間である私でさえも、お日様や自然は、分け隔てなく愛のエネルギーを注いでくれている。
現実は、あくまで優しい。
そして、心優しいK氏にも、感謝。
追記
本日、図書館でのアルバイトの日だった。平日なので、来館者は少ない。本を棚に返す作業もスムーズ。と思いきや、何と、こんなに空いているのに、私が本を戻したい棚の前に、なぜか人が立っている。何なら、他の棚の前には誰も居ないのに、僅か1%の確立で、作業が必要な場所に来館者が居るのである。そんな偶然が3時間の間に3回も起きた。
これには、苦笑しかない。神様から、あからさまに試されているとしか思えない。「ほらほら、どうする?また、苛立ちの感情を選ぶのか?とくと見せていただくぞ。」と。
苛立ちどころか、笑いが込み上げてくる。心の中で、神様に語りかける。
「神様、お試しありがとうございます。3回も、わざわざご確認すみません。もう大丈夫です。もう、思い通りにならない時に、低い周波数の感情を選択したりしません。昨日の出来事のおかげで、私は、ようやく狭量な感情の周波数を手放せました。あのサラリーマンのおかげです。感謝しています。」
いつも、苛立ちの原因だった現象は、どの感情を自分で選択するかで、意味付けされていただけだった。もう、感情が揺らされないようになったので、「ああ、人が居るなあ。後にしよう。」さらっと、それだけである。
現実は自分の捉え方で、天国にも地獄にも変わる。本来は意味も何も無く、ただ現象が起き、それを淡々と受けとめて行くだけなのだが。人間とは、何でもドラマティックに仕立てたい性があるのかもしれない。それは、地球が感情の豊かさを体験できる星であるが故、周波数の高いも低いも、宇宙から見ればそもそも、良いも悪いも無いのだ。あらゆる感情を体験し味わうことが、宇宙根源の喜びである。
昨日の、あのサラリーマンは、一見すると悪魔であるが、私はふと思ったのだ。
彼は、実は天使だったかもしれないなと。
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