ネガティブとどう向き合うのか
先日催眠療法のセッションをさせていただいた方から、メッセージをもらった。
彼女は、胎児期退行催眠で、なぜ自分が過酷な人生を選んで生まれてきたのかを知った。
一晩経過し
「あれから潜在意識の何を見たり知ったりしていけば良いのか、現在のあるネガティブを踏まえ考えてみたのですが、これだ!というのはわからず、なので、潜在意識にお任せをしたいと思います。ヒプノヒーリング、お願いしても宜しいですか?」
とのこと。
彼女とは、事前面談でも、大いに盛り上がり、共感の嵐だったのだが、つくづく不思議に思うのだ。なぜ、このように、私の課題にピッタリの人物と出会わされるのか。
彼女の悩みは、即、私の今抱えている悩みに通じる。
「いつも穏やかで平和で楽に生きていきたい。分かっているのに、時々、自分の中からネガティブな感情が沸き上がってきてしまう。そんな時、どう対処していったらいいのか。ずっとこの繰り返しなのだろうか。」私も、そんなことを思っていたこの一ヶ月だった。
今日の午後、彼女のセッションをさせていただくのだが、在る意味、私自身のセッションと捉えることも出来る。彼女が、潜在意識の中から、どんな気づきを得るのか、楽しみだ。
人と人は、このように引き合う。同じような波動の人と出会う。そして、互いを鏡として、影響しあい、磨き合う。人は人と関わることで、成長していくのだなあと、今さらながら、宇宙法則の深淵さに感動してしまう。
この宇宙法則である波動の法則は、次のようなイメージで捉えている。
私が、ある日、このような問いを発する。
「今日、こんなことがあり、おかげで自分の中にネガティブな思いが潜んでいることがわかった。浄化してもしても切りがない。そもそも、ネガティブはどう対処したらいいのだろうか。知りたい。」
思考は現実化する。
私の思考は、この瞬間に、波動となり、宇宙に波を発信する。水溜まりに小さな小石を落としてみると、波紋が広がるだろう。指をちょいとつけるだけでもよい。あれが波動だ。思考の波は、宇宙にあまねく伝わる。
この波動をキャッチし、同じ波動の存在が引き寄せられてくる。
私たちは、思考を現実化しながら生きている。これは真理だ。
では、望んでいないことがなぜ起こるのか?
いわゆる、ネガティブな出来事と私たちが捉えている事。
たぶん、この点が、多くの人々が納得いかない部分かと思う。「ポジティブなことばかり考えていたら、幸せになるのか?ならないじゃないか!私がこの不幸を望んだわけではない。どうしたら、幸せになれるのか?」と。
この疑問を突破するために、今日、私たちは催眠療法にトライするわけだが。
今朝、パラっと本をめくったら、そのものズバリの記載が目に入ってきた。とても納得できたので、これも引き寄せなのかなあ。宇宙の仕組みは上手くできている。
以下、抜粋する。
「幸福と心の平安の違い
幸福はポジティブと称される状況に依存しています。心の平安は、なにものにも左右されません。
いったいなにがポジティブで、なにがネガティブなのか。
一見ネガティブなものは、にせの自分や、エゴの薄っぺらなゴールや欲望を私たちに手放させ、かわりに人間としての深み、謙虚さ、思いやる心を教えてくれるものです。人間をより人間らしくする栄養のようなものです。
一般にネガティブと称される出来事には、深遠なレッスンが含まれているものです。ただ出来事が起こった時点では、私たちはそれに気づきません。軽い病気や事故でさえ、なにが真実で、なにがいつわりなのか、なにが自分にとって究極的に大切で、なにがそうでないかを示す「しるべ」になることがあるものです。
より高い視点から眺めれば、出来事はみんなポジティブなんです。さらに正確な表現をするなら、どれもみんな、ポジティブでもネガティブでもありません。すべては、あるがままです。
すべてをあるがままに受け入れて生きるなら、(これこそが、心の平安を保てる唯一の生き方なのですが)人生には良いことも悪いことも存在しなくなります。存在するのは私たちが悪と呼ぶものを含む至高の善だけです。
ところが、思考は、良い悪い、好き嫌い、愛憎しみ、をつくらずにはいられません。アダムとイブは、善悪の知恵を授ける木の実を食べたために、もはや天国に住むことができなくなりましたという創世記の記述は、まさにこの、思考の決めつけのことを言っているのです。
自分をいつわることでもなければ、ふりをすることでもありません。すべてをあるがままに受け入れる、ただそれだけのことです。すべてをあるがままに受け入れると、物事をポジティブ極とネガティブ極に分類しなくなります。これが、許しには、不可欠な要素です。
現在を許すことは、過去を許すことよりも、ずっと大切です。すべての瞬間を、あるがままに受け入れて許さないと、憤りなどのネガティブ性が、心の中で雪だるま式に大きくなってしまい、あとになってから、いっぺんにそれを許さなければならなくなってしまいます。
幸福についてお話ししているのではありません。愛する人がこの世を去った時、または、自分の死期が近いと知った時、人は幸福ではいられません。それは不可能です。
しかし、心の平安を保つことは可能です。そこには、悲しみや涙があるかもしれませんが、心の抵抗がないなら、悲しみの奥に、平和、静けさ、神聖さを感じるでしょう。
これが、大いなる存在からわき上がる、うちなる平和であり、対極のない至高の善なのです。
出来ることはすべてしなさい。それと同時に、すでにそうであるものを受け入れるのです。
思考と抵抗は同意語ですから、事実を受け入れた時点で、思考から解放され、大いなる存在と、ひとつにつながることができます。するとエゴは、恐れ、強欲、コントロールなどの、にせの自分の防衛と助長ができません。思考よりはるかに偉大な、インテリジェンスがコントロールの座につき、エゴ的意識とは、まったく別の意識が、行動に反映されるようになります。
あなたの運命に織り込まれた模様は、たとえどんなものでも、受け入れなさい。それ以上にあなたの必要に、ぴったり適合したものはないからです。
大半の人は、相当な苦しみを経験するまでは、すべてを受け入れる境地にはならないようです。いったん許しをおこなうと、途方もない奇跡が起こります。悪いことと呼ばれる出来事をとおして、大いなる存在とひとつになるのです。つまり、苦しみが心の平安に一変するという、大逆転が起こるのです。世界にはびこる悪いことと苦しみの、究極の目的は、名前とかたちを超えた、ほんとうの自分へと気づきへと、人間を導くことなのです。
このように視点を変えれば、私たちが限られた見解で、悪いこととみなすものは、実際には対極のない至高の善の一部であることがわかります。ただし、許しを行わない人にとって、これは真実にはなりません。許しがおこなわれないかぎり、悪いことは救われず、悪いことのままでありつづけるのです。
過去は、究極的には現実ではないと認識して、いま、この瞬間を、あるがままに受け入れることが許しです。これを、おこなうと、心に平和をもたらすだけでなく、外界にも平和が生まれるのです。
いまに在る意識がつくるエネルギーの場に入った人やものは、すべてその影響を受けずにはいられないからです。変化が即座に、目に見えて起こることもあれば、より深いレベルで作用し、視覚的な変化は、時間がたってから現れることもあります。強烈に「いま」に在り、その波動を維持するだけで、直接的にはなにも手をくださなくても、不調和を溶かし、痛みを癒し、無意識を追い払えるのです。」
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト·トール著 徳間書店出版 236~240頁より
難しいことはさておき
いまに在る
いまに在り続ける
まずは、日々、心がけよう。
宇宙への扉を開けておくために。
ほんとうの自分と繋がるために。
いまに在るテクニックだが
昨日に引き続き、二点追加したい。
☆音に集中する
耳をすませ、聞こえる音にひたすら集中する。慣れてきたら、音と音の間の沈黙に集中する。
☆空間に集中する
物と物の間に、なにも無い空間がある。その空間に意識を集中。空間をひたすら感じる。無いものをどう感じるの?と思考しないこと。頭を使わず、ただ、感じる。
☆☆を試してほしい。まずは15秒からでも。きっと、「思考が、静かだった。」と後で気づくだろう。それがいまに在るという状態だ。「ああ、私、いまに在るなあ。」と思っていると、思考が働いているので、いまに居ない。ややこしいかしら?まあ、15秒、まずやってみよう。感覚をつかめてきたら、時間を伸ばしていけばよい。
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