現実も幻なら前世も幻
世の中には、前世に興味がある方が一定数いらっしゃるようで、私の拙い文章であろうと、こちらのblogに訪問してくださる方が増え、感謝している。
そこで、前世の捉え方について、ここで整理をしておきたい。
ブライアンワイズ博士という方が、とある女性患者の治療のため、催眠療法を施していた。だんだん、時を遡って誘導していくと、その女性は、過去の時代の別の人生を語り出した。博士は驚き、研究を重ね、前世療法の手法を世に知らしめた。現代科学では証明不可能であるが、催眠状態で、多くの人が前世を語ることから、もしかしたら人間は魂の存在であり、何度も生まれ変わりを繰り返している意識体かもしれないと考えられるようになった。
催眠療法セラピストは、クライアントの課題を解決するために、施術をする。誰もが潜在意識の中に、ベストな答えを持っている。セラピストは、潜在意識から湧き出してきたイメージや気付きを全面的に信頼し、受け入れる。しかし、それはあくまでも、クライアントの課題解決のために、クライアント自身がそのイメージを体感し、納得するための行為だ。苦しみや悲しみから解き放たれ、これからの人生をより良く生きていただくための、ひとつの技法である。
潜在意識は本当に面白い。セミナー実技を通し、何度も潜在意識につながると、鮮明なイメージが浮かび上がる。時に、詳細なストーリーが展開され、我ながら驚く。これをすべて、瞬時に想像したのであれば、誰もが作家の才能があることになる。
前世など、あるはずがない。クライアントの妄想でしょ?もちろん、そうかもしれない。しかし、セッションを通し、クライアントが体験する一連のストーリーは、新たな視点をもたらし、クライアントの過去を癒し、生き直すきっかけとなっていく。ダイナミックな施術であることは、医療現場でも評価され、一部の医療従事者が治療に取り入れている。
前世は、潜在意識から沸き上がる。潜在意識には、忘れてしまった過去の記憶、胎児の記憶、さらには人類の集合意識、神仏や宇宙にまで繋がると考えられている。
潜在意識は嘘をつかないが、もしかしたら、自分の願望が前世記憶に影響を与え、ストーリーを脚色する可能性は確かにある。
また、考え方のひとつとして、本当は前世は存在しなくて、本人が生まれる際に、今の人生に必要な記憶を借りてきているとも言える。(図書館の本を借りるみたいに。図書館の本は人類の共有財産だ。)
よく、笑い話として、前世がクレオパトラやマリーアントワネットだったと主張する人が複数居て、誰が本物か論争になったりしているらしい。これは、歴史上人物への過剰な思い入れから、本人が無意識に本から得た知識などを総動員し、ストーリーを瞬時に構築したかもしれず、真偽の程は雲の中。いくら論争しても、あまり意味は無いだろう。
チベットのダライ・ラマ法王などは、幼い子どもが持ち得ない知識を既に記憶に携えていることから、代々生まれ変わりと認定されているらしい。しかし、もしもその幼い子どもが、アカシックレコードに繋がる能力があり、前代ダライ・ラマ法王の知識をダウンロードしているのであれば、彼の魂は、まっさら新品であり、知識は借り物と捉えることもできる。(あくまで可能性ですが、不敬だったらすみません)
前世療法は、現代医学ではなかなか治癒しない病や不調に対し、まったく別のアプローチをする。クライアントは、「この病になり、良かったのだ。こんな気付きがあった。」と、人生の出来事を受け入れ、今後の人生を幸せに生きていくようになる。病が完治するかもしれないし、しないかもしれない。寿命は変わらないのかもしれない。しかし、クライアントが人生の課題に気付き、晴れ晴れした心境となり、新たな人生へ舵を切る姿は、とても美しい。それは、あるがままを受け入れた流れるような自然の姿となる。
前世を見る意味は、ここにある。この前世療法の醍醐味は、多くの恩恵をもたらすと、セラピストの一人である私は信じている。つまり、前世が本当に存在するのかどうかに焦点を当てることとは別なのである。
イーハトーブヒプノセラピーカレッジなど、しっかりした知識と技法を学ばせてくれて、セラピストデビューした後も継続して学びを深められる環境に恵まれたセラピストならば、その点を理解して、時にはクライアントに必要なことを伝えるはずなので心配ないのだが。
スピリチュアルを前面に出し、前世を見る意味を歪めてしまうセラピストが仮に居たとしたら、少し心配ではある。
前世に、有名な歴史上人物が出てきたり、高次元存在が出てきて、そのストーリーを自身の課題解決に活かせればよいのだが、反対に、エゴを肥大化させてしまう人もいたとしたら。謙虚な心を忘れ、他人をコントロールするようになってしまったならば、せっかく必要なイメージを見せてくれた真我の本意からは外れてしまう。まあ、あるがままを受け入れるならば、エゴを肥大化させる体験も、彼には必要な出来事だったと捉えることは可能なので、ややこしいが。
前世療法は、本人にとって必要なストーリーの再体験であり、気付きを得て、生き直すためのものであるから、それが他人の幸せを阻害する結果になってしまっては、とても残念だ。と、セラピストの一人としては思う。
また、セラピストの立場から見ると、クライアントの前世を全面的に信頼はするが、クライアント個人の掛け替えの無い体験として捉えていく。例えば、セラピストが大好きな歴史上人物がクライアントの前世だったとしても、セラピストが彼を盲信したり崇めてしまったりしてはならない。クライアントは、今世での役割が必要な現実なのであるから、過去の栄光に目が眩んで現実を見られなくなるのは、クライアントに対しても失礼なことになる。ここは、私も注意したい。
般若心経では、現実は幻だと説く。
魂、本質の自分、真我、内なる神、宇宙根源から分離した光····〈私〉
いろいろな捉え方があるが、現代的な解釈をすれば
〈私〉は、観たい映画をスクリーンに投影して、そのドラマに没頭している。現実は、映画の中の出来事であり、単なる光、幻である。映像は、映し出され、流れ、消えていく。そこに良い悪いの判断を加えているのが自我である。なぜ、幻を観るのか。それは、自分を知るためである。宇宙根源は、無から生まれた意識であり、自分が何者かを知りたかった。そのため、自分の意識を細分化し、数えきれない体験と感情のデータを集め楽しんでいると言える。
細分化された意識が、私たち人間であり、植物や動物や鉱物、宇宙存在、神仏と呼ばれる高次元存在などである。元はひとつ。すべてが〈私〉である。仏教では、宇宙根源を大日如来と表現する。極論、私たちは、すべて、大日如来の生まれ変わりであるとも言える。
現実がこのように、〈私〉が楽しむ幻であるならば、前世も幻だ。
その前提で、過去から現在への、壮大な魂の遍歴を俯瞰してみる。どんな体験をして、どんな感情を味わい、今、私は何を課題に生きているのかな?
今、現実の出来事に苦しみや悲しみを感じているなら、その体験から私は何に気づくのかな?
前世のストーリーから、課題に気付き、魂と対話を通し、メッセージがもたらされる。この一連のセッションは、すべてが潜在意識の中から浮上するイメージの世界である。これは、イメージごっこと言われれば、そうかもしれないが、人生を俯瞰する視点を得ることに意味がある。
当事者視点に捕らわれていれば、いつまでも自分は、被害者で可愛そうで無力な人から抜け出せない。
しかし、前世で自分が加害者であり、誰かを傷つけて傲慢に生きていたキャラクターだったとしたらどうだろう。その感情をありあり体感したとすると。心境の変化は起こらないだろうか。
前世と現在の体験を二つ得ることで、なにかが変わる。「ああ、だから、この人生で良かったんだ。」ストンと腑に落ちる瞬間が訪れる。
このような体験を重ねていくと、現実を一歩引いて眺めることが出来るようになる。出来事自体に良い悪いは無く、ただ起きていると認識できる。それを映画のように観ている〈私〉の視点になっていく。
気付きを、今後の人生にどのように活かしていくのか。または、活かしていかないのか。それは、クライアント次第。どちらもクライアント個人にとって必要な体験である。
前世がどのような人物であろうと
そもそも、前世がなかろうと
この世は幻である。
目の前の出来事に一喜一憂したり、右往左往したりしながら
やがて、幻を見て楽しんでいる、変わらない〈私〉に目覚めていく。
「ああ、これが、本当の私なんだなあ。」
この〈悟り〉の心境を目指して、私たちは、ゆっくり歩んでいる。
〈私〉に近づいたり、離れたり。この宇宙が存在する限り、気の遠くなるような遥かな時空を漂う意識は、自分を知る旅を楽しんでいるのだろう。
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