菩薩の悲願

 本日、尊敬するセラピスト仲間とZoomで話し合う機会があった。

学校とは別の流派の催眠セッションを体験されたということで、勉強のために気付きをシェアしていただいたのだ。

彼女を仮にBさんとしよう。

Bさんは、本当に面倒見のよい女性だ。

どんなイメージかと言うと。

マラソン大会があったとする。もう、先頭集団も遥か先に行ってしまい、私たちは、ビリ集団だとしよう。観客も帰ってしまい、誰にも見向きもされていない。完走できるのか。そもそも、会場撤収時間までにどこまで走れるのか。もう脱落しそうで、辛いし、走るのを諦めちゃおうかな。ふらふらになりながら走っている集団を思い描いてほしい。

Bさんは、先頭で入賞できる実力なのに、ビリ集団に寄り添って走ってくれている。一人ひとりに合わせて、励ましたり、ハッパかけたり、アドバイスしたり。B さんは、誰一人、見捨てない。「大丈夫!できるよ!みんなで完走しよう!私はずっと伴走しているよ。」そう言って、共に汗を流して走ってくれる。同じ目線、同じ立場まで降りてきてくれる。そう、菩薩みたいな存在。Bさんは、自分が入賞して勝利する目的でマラソン大会に参加してはいない。参加者みんなに、完走する喜びを感じてほしい。そのために自分の出来ることをしている。

昨日、最澄の願文を読んだ。最澄は、全員が仏になるまで、自分は悟らない。地獄の隅々まで巡り、最後の一人まで救う。誰一人見捨てない。全員救うまで自分は何度も日本に転生する!と明言している。これは、菩薩の悲願にも通じ、宮沢賢治に引き継がれ、菩薩は『雨ニモマケズ』で、デクノボーと表現されている。(詳しくは前投稿をご覧ください。)

Bさんは、魂の癖があるという話をされていたので、私の直面している課題を聞いてもらった。

私は、セラピストとして、真にクライアントの苦しみに共感したい。見せ掛けでなく、正しく理解したい。どうやら魂は、体を犠牲にして、病を引き寄せ、体験から様々な痛みを学ぼうとしている。しかし、これが魂の癖であるとするなら、学びたいからと、今後も病を現実化し続けるのではないだろうか。肉体が持たないのではないか。共感したいという願いは実は傲慢なのかもしれず、私は本当の意味での共感を知らない。思いやりや、優しさがあれば、共感できるのに、私は正しさにこだわってばかりいる。思いやりより、正しさを優先しているのではないだろうか。

Bさんは、キッパリ言ってくれた。

「反対に、傲慢にならないために、あなたは体験から学ぼうとしてきたのではないか。」と。分かったつもりにならないように。

ただ、病から気づくことで、大難を小難に変えることはできる。想像力も共感につながることを指摘してくれた。

以下は、Bさんからお聞きした話。

溺れている人がいるとする。どうやって助けるのか。大きく二つに分かれる。

高い所から、ヒモを垂らして、助けようとするか、その人が溺れている深さまで潜って助けようとするか。その違いがある。どちらが良い悪いではない。役割の違いだ。病院にも総合病院と町のクリニックがある。どちらも必要な存在だ。

深く潜るには、自分がどのくらい潜れるかを把握しておかなければならない。一緒に遭難することは出来ない。自己犠牲をやりたいわけではない。自分の中の力を知ることが大事になってくる。それには、実際に潜る体験(訓練)が必要になる。自分が潜れる深さを知るために、同じ経験をしようとしている。

例えばレスキュー隊など、危険な現場で命を救う役割についている方は、日々たゆまぬ訓練を重ねている。自身を鍛えておかなければ、簡単に殉職してしまう。鍛えていないのに危険に飛び込んでいたら、あなたの人生を体験するための肉体が犠牲になる。訓練したくない人はレスキュー隊にはなれない。この例で伝わるだろうか。

時代が次のフェーズに入ってきている。

今までは、前世を知らないままで人生から学ぶフェーズだった。今は、ヒプノセラピストが増えてきた。前世を知り、魂の癖を知った上で、次にどうするのか?ということ。

次なる学びは、個人の悩み云々ではなく、みんなで力を合わせて、地球が宇宙の仲間入りをしていくこと。カルマを大精算して、地球家族、同じ仲間として生きていくことが大事になってくる。戦争をしている場合ではないのだ。時代は次なるフェーズに入ったのだから。と。


私は、実生活で菩薩行を実践されているBさんを尊敬しつつも、それが時に自己犠牲にならないのかと心配にもなっていた。

底辺で、アップアップしている私たちのような存在は、Bさんのような菩薩魂に救われ、引き上げられていく。見守られることで、勇気を得て、諦めずに魂の課題に取り組むことができる。今日だって、こうやって私のために時間を作って向き合ってくれている。

しかし、Bさんも、肉体と自我を持つ同じ人間である。疲れたり傷ついたりもする。菩薩行と自己犠牲は、どこに違いがあるのだろうか。

Bさんも、時には、悩みながら進んでいるそうだ。昇ろうとしたら、階段が次々崩れていくような、そんな現実から今まさに学んでいると言う。

その上で、自己犠牲にならないためには、強さが必要だと言う。

見た目は自己犠牲でも、うちひしがれず、果敢に向かっていく強さがある。何が起きても、飛び込んでいく。強さは剣。その剣は、戦って相手を傷つけるためにあるのではなく、自分が傷つかないよう守るもの。何が来ても大丈夫な自分になることだ。と。

具体的に、その自分を守る剣とは何のことを言っているのか。例えば、何か失敗して人が離れていく体験をしたなら、言い訳せず自身をしっかり見つめる。そして、その苦しみもきちんと味わう。何故なら、今後、同じような失敗をした人の気持ちが理解できるようになるからだ。潜れる深さがさらに深くなり、肺活量も増す。もっと潜れるようになる。この体験こそか、強さの原動力となる。また、何か起きても、「ま、いいか。いい経験ができたし。」と、悲しみを引きずらないしなやかさも剣である。学ぶために引き寄せた体験なのに、苦しみ悲しみに溺れて、自己憐憫に苛まれていたなら、単なる自己犠牲に落ちてしまう。同じような事が起きていても、菩薩行と自己犠牲では、内面の輝きに違いがある。その出来事に感謝できるか、愚痴を言うか。内面のあり方により、魂の成長、質に違いが出てくるように思う。

だから、失敗をして、世間から蔑まれ、馬鹿にされ、バッシングを受けたとする。菩薩行のために引き寄せた体験なら、どんなに周りから蔑まれても、魂の剣が自分の心を守ることが出来る。自身を振り返りはしても、うちひしがれることは無い強さがある。世界から蔑まれるとはどんな気持ちになるのかが、よく分かり、今後、人間的な弱さが原因で低い所に堕ちてしまった人の、その同じ目線まで(場合により、さらに低い位置へ)降りていくことが可能になる。菩薩魂にとっては、全員が幸せにならなければ、自分の幸せは無い。皆が悟り仏になるまで、自分は悟らなくていいわけだから。その力になるために、修行をし続ける(学んでいる)。菩薩魂の場合、同じ衆生の立場ではあるが、志が高い。とても崇高なエネルギーを感じる。

私たちが、修羅の世界で学ぶように、菩薩は菩薩で、やはり学んでいる。こうやって、愛を広げ深めていく。これが段階的な魂の学びなんだなあと思った。

断っておくが、Bさんがみずから、自分は菩薩だと言ったわけではない。私が、彼女の生き方を見て、まるで菩薩行だと勝手に感じたのだ。

私は、Bさんの、「自分の潜れる深さを確認するために体験から学ぶ」という一言に救われた。何だか、気持ちがスッキリと落ち着いた。

私の肉体のためにも、もう、病を現実化しなくて済むようにはしたい。もちろん実体験からの学びは貴重で深いと思う。魂が体験から学びたいと言う熱意も分かる。しかし、魂の癖を手放し、次のフェーズに入りたい。もう体験からしっかり学ばせてもらった。これからは、実践だ。地球体験は、肉体が壊れてしまったら実現できなくなる。体も心も大切にしながら、今までの学びを活かして、行動に繋げていきたい。

地球家族になるために。愛の星になるために。催眠療法で、本質に繋がる人を増やしていく。

暗闇に出掛けて行って、灯りを点してくるような役割をしていきたい。

大丈夫だよ。安心してね。私たちは、みんな、光の存在なんだから。自分達が自ら輝く存在なんだから。思い出して行こう。みんなで!

今日、Bさんと話すことで、大きな学びをいただけた。素敵なご縁に感謝。ありがとうございました。

お話した後、体中、ポカボカして、エネルギーに満たされたのを感じた。メチャクチャ元気になった。互いに高め合う関係は、宇宙も祝福してくれる。

ああ、大丈夫だ。私は大丈夫。

☆自己犠牲の権化みたいなビジョンの謎

たびたびblogに書いている、あの自己犠牲の権化みたいなビジョン。あらためて考えてみたい。

10月の宿泊セミナーで、集団催眠セッション中に見た、あのビジョンのこと。

棘の冠を被り、上半身生々しい傷だらけの(しかも、古い傷の上に新たに傷をつけて、ヌラヌラしている。傷を治す暇が無い感じ。)痩せこけた男性が、「サファリング(苦しみ)」と呟いている場面。これは、私のシャドーとして出てきたもの。

このビジョンを見て以来、私は時々思い出しては、罰当たりにも、キリストの磔刑と重ねていた。キリストは、磔になった時、苦しくはなかったか、悲しくなかったか、痛くなかったか。それは、エゴや肉体が感じる領域での苦しみであり、キリストはそんな苦しみを超越していたと思うので、とても失礼な話しだと思うが、私はどうしても、肉体を持つ人間キリストを感じたかった。自分に引き寄せ彼を理解したかった。

そのビジョンで見た通り、私は上半身手術痕が2ヵ所も残されており、まだ傷が癒えていないのに、一週間後にまた、手術痕を加えようとしている。ビジョン通りに現実化してきている。「サファリング」と呟く彼の意識は、個人のエゴの苦しみなんだろうか。それとも、地球を取り巻く業想念を引き受けたような意識なんだろうか。(後者は、キリストの受難の意味と解釈している。)

今日、Bさんのお話をお聞きして、昨日から今日にかけて、なぜ宮沢賢治について本で読まされていたのか、一本の線に繋がった気がした。またしても、宇宙の計らいである。

私は、人生の体験的に、また魂の学びの段階的にも、修羅の世界にドップリ浸かり、せいぜい自己犠牲により自身を慰めるやり方しか知らなかった。真似事をして自己満足していた。あなたの苦しみと同じ体験をしたのだから、あなたのことを共感できますよね。私の共感は正しいでしょ?私の生き方は正しいはずでしょ?という、外側からの評価を意識した傲慢なレベルであり、根底に愛は無かった。

内側に意識を向ければ、愛、優しさ、思いやりが、ハートを通し、相手に流れ込む。共感は頭を使ってなされるものではない。私は自身の愛と光に気づいていなかった。自分に価値が無いと蔑んでさえいた。

この自我意識で出来事を体験するなら、私の姿は痛々しい自己犠牲になる。

わたしの幸せは、わたしだけの幸せになる。

内側から溢れる愛の意識で出来事を体験するなら、それは·····

菩薩行となる。

みんなの幸せがわたしの幸せになる。個々の光がひとつの大きな光に変化する。起こる出来事は、すべて感謝になる。

日蓮、最澄、宮沢賢治、萩原医師

Yさん、Bさん、魂の繋がり深い仲間たち。

彼らのエネルギーや行動、言葉から、私が少しずつ影響を受けて学んできたこと。

それは、菩薩の心。デクノボーの心。

これからは、その心持ちで、進んでいくのですよ。

そう宇宙から言われたような気がした。

キリストは、確かに苦しかったろう。痛かったろう。しかし、彼は深く深く、一番底で溺れているたった一人のところまで、降りたのだ。

私が共にいる。安心なさい。大丈夫だ。あなたは光なのだから。

そう声をかけるために。ハートから愛を届けるために。

私は上半身に傷がある。私はこの体験から、修羅の世界から菩薩の世界を仰ぎ見るきっかけをいただいた。

もちろん、菩薩までの道のりは長い。たくさん経験を積んで学び続ける。生涯学び続ける。

だから、この傷は自己犠牲ではもはや無い。私の掛け替えの無い宝物だ。



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