みそぎ
みそぎ について。
みそぎと聞くと、滝行を思い浮かべる。
神とつながるために、不要な重いエネルギーなどを落とし、より純粋なきれいな心身になることかなとイメージしている。
神とは言っても、私の場合は、宗教上の特定の存在のことではない。宇宙源につながる、自分の本質の意味。高い次元の意識エネルギーが、物質次元で本質をカタチにする。魂の望みを叶える。そんなニュアンスで捉えている。
エゴではなく、本質の望み。自我からではなく、真我からわき上がるもの。宇宙に満ち満ちるエネルギーにつながること。
昨日、友人と話をしていて、催眠誘導中の意識の話題になった。セラピストが潜在意識優位になり、おそらく脳波が7.8Hz(神様周波数)になると、クライアントにベストな気付きが起こるのだと思う。その場にいる誰か一人がこの脳波状態になると、そばにいる全員が同じ状態になることはよく言われている。
しかし、セラピストとして、潜在意識に入り集中するのは、なかなか難しい。クライアントによっては、自我が消えて無心になり集中して誘導できることもある。しかし、まだ未熟な私は、顕在意識でゴチャゴチャ考えてしまい、やたら判断が出てしまうことの方が多いかもしれない。その時はエゴが前面に出ている。クライアントの満足度も低くなる。私はやたら反省しウジウジすることになる。
その対策として、仏師が仏像を彫る時の作法を少し真似して、当日は食事を摂らず、何回か入浴し、瞑想で心を落ち着けたり、お香や音叉で場を清めたりすることもある。
私にはまだ、手放すべき不要なものが、たくさんこびりついているんだろうなあと、感じている。
今朝、本を読んでいて、興味深い記述を見つけた。
現象界における、みそぎの形は滝行だけでなく、いくらでもある。病気や不幸なども みそぎ になっているそうだ。
とある霊能者は、死産、離婚、病気、家族の自殺、過酷な生活、ガンと手術など、日常生活の中でやらされてきたそうだ。 みそぎ は強烈だと。
目に見えない世界から厳しいみそぎを課せられ、それを乗り越えていくことを
身削ぎによる身そぎ(洗い流すこと)と表現していた。
我が身を削ぐほどに痛くて苦しい行だから「身削ぎ」。削ぐことで、心身にこびりついているもろもろの垢がこそぎおとされ、洗い流される。
滝行、断食、座禅などが、特別な行というわけではない。
行のための行となってしまい、無意味であるだけでなく、自己満足と慢心を引き寄せ、囚われてしまう。そんな状態で山に籠るよりも
畳の上の行、日常生活の行の方がはるかに難しく大切と筆者は説いている。
この方は、
「どのような不幸もあなたに課せられた「身削ぎ」なのだから、人や運命を怨まず、心を腐らせず、ありがとうございますという心で受け取るように。」と守護する存在から、徹底して、謙虚と感謝を教えられたそうだ。
「感謝」のみそぎは、どんな みそぎ より難しく、人間はたぶん死ぬまで畳の上での みそぎ修行が続くだろうと書かれていた。
花は美しい。人はそれを見て美しいと感嘆する。しかし、花は咲くだけであり、そこに意味はない。花に意味を求めずにはおれないのが人間の性。愛、平和、美のために花は咲くわけではない。森羅万象みな、ただ、「ある」ことを示しているだけだ。
みそぎ の行く先は、ただ「行く咲き」。与えられたその場で、ありのままに咲くのみ。
私がガンになり、複数手術を受けるのも、身削ぎと捉えることも出来るのだなと、気がついた。
病に怨みは無い。学びは多く、愛ある人々との出会いが続き、目に見えない世界からも応援を受けて、私は確実に発病前より何倍も幸せを感じている。「感謝」のみそぎは、順調に進んでいるとは思う。
花のように、木のように、岩のように、星のように。
○○のために生きるのではなく、
そこに「ある」。
本質の愛と喜びのエネルギーで、振動する存在になる。
神様周波数7.8Hzは、このようなことを言っているのかもしれないなあと思った。
咲いている花のように
瞬いている星のように
大地の下のマグマのようにも
そのように「ある」私を取り戻せたら、私の畳の上での修行は、一段落するのだろうか。
もう、その心境になれたら、「修行」なんて概念すら消えてしまうのだろう。その時が地球卒業なんだろうか。
参考:『霊視の人 神事編』不二龍彦、梨岡京美 著 ナチュラルスピリット発行
☆エンジェルナンバー000
先ほど、000を見た。
調べたら、
原点に戻る。無限。永遠。
という意味だった。
そういえば、今日は冬至だ。
エネルギーが切り替わるらしい。
陰極まり陽に転じる。
今日は、無意識に みそぎ をテーマにblogを書いたが、
冬至エネルギーに繋がるような気付きだったなあと、我ながら驚いた。
きっと、000を見せられたタイミングで、私のタイムラインが切り替わったように思う。胸のあたりがすごく軽くなっている。
自力で到達したというより、たくさんの存在から、見守られ、誘われ、導かれ、応援され、愛を贈られ、今、ここに来たような感覚がある。
今、言える言葉は、
ただ、すべてに
ありがとう
それだけだ。
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