クリスマスに気づいたこと
目の前に起こる様々な出来事から何に気づいていくのか。
このクリスマスシーズンに起きた出来事を二つ紹介したい。
一つ目
クリスマスイブに、買い物に出かけた。ランチを食べようと、open時間直前に店の前に並んでいた。そこは駅ビルの中で、レストランがいくつも並んでいてるオープンタイプの店構えだった。つまり、店内の様子が吹き抜けで通路からよく見える。ちょうど11時になるかならないかのタイミングで、10人くらい並んでいただろうか。急に、怒声が飛んだ。驚いて振り返ると、初老の男性が、「もう時間が過ぎているじゃないか!早く開けろ!」と怒鳴っている。自分は時間を確認してから来たのだから、間違いないのだと主張していた。まあ、その人の確認した時計が進んでいたか、このレストランの時計が遅れていたか、営業方針がのんびりなのか、原因はそんなところだろうが。私たちはオープンが数分ずれようがどうってことは無いのだが、怒鳴った男性は、NHKの時報なみに、少しのズレも許せなかったのだろう。彼の強固な正義エネルギーがとても不快だった。私は、その男性と同じ店に入るのが嫌で、別の店に移動した。思い通りにならないと、直情的に大声を出し、怒りを表す人がとても嫌いだ。ムカムカしてくる。私の世界から見えなくなってほしいと思う。(気になるなら冷静に、「時間過ぎていますけど、そろそろ開きますか?」など穏やかにスタッフにたずねればいいだけだ。)
二つ目
クリスマス当日は2022年最後の勤務日だった。そして、私は2か月病気休暇を取ることになっていた。次の出勤が3月になるため、閉館時間過ぎに、その場にいた方々にご挨拶をした。私はちょっと感傷的になっていたのかもしれない。なんだかんだ言っても、バイトに来られないのは寂しいと感じていたのだった。皆さんは、「あ、そうですか!」という淡々とした、まあ、普通な反応だったので、あれ?っと肩透かしをくらった感覚を味わった。ちょっとさびしいな~。やっぱり、アルバイトの身分だから、こんなもんなのかな。代わりはいっぱいいるしね。とシュンとしたのだった。
このさびしさの奥底には何があるのだろうと、自分の中に問いかけてみた。「もっと大切にされたかった。いたわりの言葉がけが欲しかった。」と私は答えた。つまり、こんなイメージなのだった。いつも使っている自転車のネジがひとつ、壊れたとしよう。自転車は走るのだが、車輪の一部がパカパカしてしまう。気になるので、新品のネジに取り換えたとしょう。使用者は、壊れたネジに特別な思い入れを持つだろうか?今までありがとうと伝えてから丁寧に処分するだろうか。いや、何も考えず、使えないのだからと、ポイっとゴミ箱に投げ入れるだけで、すぐ忘れてしまうだろう。ネジの方は、使用者といろんな所に出かけた景色を思い出し、共に過ごせた時間を大切にしてくれていたかもしれないのにだ。自分が使い捨てのネジになったような気がしたのだ。ダメになれば見向きもされない。そんな小さな取るに足らない存在に感じてしまったのだった。
さて、この二つの出来事は何を表しているだろうか。
まず、この投稿をお読みの方は、苦笑しているかもしれない。考えすぎだよ。あまり気にしなくていいんじゃない?と思われたことだろう。
目の前に起きた出来事は、単に「怒鳴る人がいた」「淡々と対応された」だけであり、そこに意味を付加して感情を選択しているのは他ならぬ私自身である。
そして、どちらも深堀をすると、過去に同じような出来事があり、傷ついた記憶から自動選択で感情を表出していることが理解できる。私が嫌な気持ちになったり、さびしくなるのは、過去の影響であり、今起きていることが原因ではないのだ。それを証拠に、10人に同じ出来事を体験してもらったら、十人十色であるはずだ。
例えば、大声を出してしまった男性も、過去に時間に関して傷ついたことがあったのかもしれない。または、飢餓状態で苦しんだ記憶が想起されたのかもしれない。私や夫が「まあ、いつか開くさ~。」と呑気に構えていられたのも、「時間通りにならなくても困らない。」という信念があったからであり、「相手には相手の事情がある。」と無意識の信頼があったから何も不安にかられる必要はなかっただけだ。困ったり苦しんだりした体験が、彼とは違うから、彼が不安を押さえられなくなって怒鳴ったとしても、仕方ないのだろう。私だって、過去の記憶にこうやって振り回され、自動操縦でネガティブな感情を味わっている。彼と私は、同じくもがきながら生きている人間同士だ。
この自動操縦の仕組みは、エゴの働きだ。私たちが物質次元で生命活動をしていけるよう、一生懸命働いてくれている。もう自分の繊細な部分が傷付けられないように。もう悲しまないようにと、必死で守ろうとしてくれている。エゴのおかげで、人間は地球で生きる事が出きている。しかし、潜在意識に蓄積された記憶に結び付けられた感情は、もしかしたら勘違いだったかもしれない。小さい頃は耐えられなかったけど、大人になった今なら、屁の河童になっているかもしれない。心だって、鍛えれば筋肉がつくのだから。
自分の思考や湧き上がる感情を、一旦渦中から浮上して、眺めることができるなら、「この反応、もういらないんじゃない?」と思えることもあるだろう。もし、私たちが、「何だか生きにくいなあ。苦しいなあ。なかなか幸せにならないなあ。嫌なことばかり起きるんだよなあ。」と感じているのなら、それは、「そろそろ浮上して、自分の内面を観察してみましょう!」という本質の自分からのメッセージである。
だから、自分にとって、嫌な感情が湧き上がった時がチャンス到来!なのである。自分の内面に何が潜んでいるのか、普段は気づくことは出来ない。「あなたの内面には何が隠されていますか?」と問われて、明解に答えられる人は一人もいないはずだ。潜在意識は、なかなか顕在意識状態では覗き込めないからだ。(クリティカルファクターと言う膜で保護されている)
生きにくさを解消するための療法が催眠療法であるが、まだ万人に開かれた馴染のある療法にはなっていない。しかし、起きた出来事に反応する自分の内面を観察するように癖をつけていけば、療法を受けなくても、都度、浄化することは出来ると思う。
日本を代表する書道家であり感謝オタクと自称する武田双雲氏はこう語る。
「人を雑に扱ったり、ないがしろにしているときこそ、いろいろな事件が起きていたことがわかってくる。
どこかうぬぼれていたり、驕っていたり、あせり、野心、わがままというか、愛のない行為というものが、自分の中にまだまだ残っていたことに気づくんです。
それらと一つひとつ、じっくりと向き合ったときに、突然、晴れたんです。パーンと光が射しこんできた。」
「楽しんだり、リラックスのために大事なのは、感謝なんだということに気づき始め、自分の人生を見直したとき、感謝しているときはすべてがうまくいっていることが分かりました。」
「願いも欲望も、別に悪いものではないと思いますが、今、自分が出している波動をチェックすることは大事だと思います。」
「今回いろいろ反省する中で、あれ、俺、全然できてなかった!と気づいたんです。」と身内への感謝が一番難しいこと。感謝と尊敬が革命を起こすと語っている。双雲さんは、奥様に対してリスペクトが足りなかったことに気づき、反省を伝えたところ、奥様から感謝されビックリしたとか。自分が相手を尊敬すると、相手も自分を尊敬することが分かったそうだ。
感謝マスターの双雲氏ですら、言葉だけの感謝に注意し、自分の波動をチェックしつつ、未だに内省を繰り返されている。人間として生きる限り、この微調整を丁寧に行っていくしかないのだろう。(雑誌『岩戸開き』第4号24~27ページ一部抜粋参考。)
双雲氏のこの記事を読んで、あらためて自分を振り返った時、思い当たることがあったのだ。
クリスマスイブのあの日。レストランに並ぶ前に、地下の食品コーナーで買い物をしていた。さすがクリスマスシーズンだけあって、大混雑していたのだ。私は、つい焦りが出てしまった。「早く買わなきゃ。」「並ぶの嫌だな。」「他人より得したい。」など、利己的な気持ちに支配されて頭に血が上っていた。夫から「あなたはすぐ焦っちゃうからなあ。」と笑われていたのだった。あの時の私は、ガツガツした物欲まみれのネガティブエネルギーを全身から発していたに違いない。そこに、利他のエネルギーは一切発せられていなかった。
私の発したエネルギーは、宇宙に瞬時に届けられ、現実化され降りてくる。これが引き寄せである。私の内面が現実というスクリーンに映し出されるわけだ。私のガツガツした猛獣のようなエネルギーが、怒鳴る男性の姿として表出された。あの男性は、私の姿だったのだ。
かといって、そんな嫌な私を責めて猛烈に批判するのではなく、「ああ、私の中にまだこんなエネルギーが潜んでいたんだな。」と丁寧に観察する。そして、もう私に必要のないエネルギーであれば、「体験させてくれて今までありがとう!」と感謝して手放す。光へ戻してあげる。
バイト先で「使い捨てのネジみたいだ。」とウジウジしてしまったのも、私が私を丁寧に扱っていない。あるいは、周りの人を大切にしてこなかった証であろう。そこに愛が無かったのだ。今日は、入浴しながら、頭の先から足先まで、すべての臓器、細胞に感謝の気持ちを声に出して話しかけてみた。例えば、足が無ければ、私たちは自由に生きたい所へ出かけることも出来ない。身体が健康だから、いろんな体験が出来ている。右手と左手が動いてくれるから、私は今パソコンを打つことが出来ている。胃は、腸は、肺は、目や耳は・・・・感謝の気持ちを声に出していたら、涙があふれてきた。この肉体があるだけで、どれだけ幸運なのだろうと、どんどん気付いていった。
試しに片っ端から目につくものに感謝の言葉をかけていってみてほしい。自分が今既に満たされ、幸せであることに気づかされる。「ない」より「与えられている」もののいかに膨大なことか。きりがないほど、延々と感謝することが出てくるだろう。
何かあると、つい相手を責めがちだが、「もしかしてこれは鏡かも?」と自分の内面を観察するようにすると、色んな発見がある。そして、気づかせてくれた相手に、出来事に感謝すると、自分が発する波動が変化するので、宇宙から同じ感謝波動の出来事が降りてくる。
気付いて浄化して感謝する。丁寧な繰り返しを日常とする。毎日の歯磨きと一緒。食べたら磨くのと同じように、朝、目覚めたら、生きていることに感謝する。食べられることに感謝する。その他もろもろ・・・。毎日、毎瞬。この繰り返し。
地球でのこの人生は、「ありがとう」を学ぶためなのかもしれない。
☆クリスマスの贈り物
聖なる夜に、友人から美しい歌声が届けられた。
私が彼女とアメイジンググレイスを歌いたがっていたので、歌声を録音してメールに添付して送ってくださったのだった。彼女の愛ある思いやりがとても嬉しかった。
再生してみた瞬間、頭頂から、エネルギーが滝のように降り注いできて、全身の細胞一つひとつが細かく振動した。あまりに細やかな高い周波数で、無意識にお祈りのポーズになった。私は眉間の裏側でエネルギーの色や形を感じるのだが、優しく輝く白と紫の光だった。クリスマスの夜に、このように愛と浄化のエネルギーに満ちた美しい歌声を届けられ、まるで金星の女神さまから祝福を受けたような気持ちになった。
私が、このクリスマスシーズンに気づいた、内面の重いエネルギーを、彼女の歌声が癒し、溶かして、宇宙の光に戻してくれたかのようだった。
この世は、贈り物に満ちている。
たくさんの愛に満ちている。
その事を再確認した夜だった。
☆宇宙おむすび
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