妙見菩薩像の謎を追う旅~内匠堀跡巡礼
令和7年12月8日(月)
【妙見菩薩像の謎を追う旅~内匠堀跡巡礼】
本日、市川市行徳街道界隈の歴史街並み散歩をしてきた。
私のメインテーマは「内匠堀跡を歩くこと」だ。行徳地区で堀跡は暗渠になっているのだが、道路として歩きやすく痕跡が残されている。今日はその様子を写真とともに紹介したい。
その前に、内匠堀って何?という方のために、今までの経緯も含め、ごく簡単に説明をしておこう。
内匠堀(たくみぼり)
江戸時代初期に現在の千葉県市川市行徳・浦安地域で開削された灌漑・排水用の水路です。この水路は、田中内匠と狩野浄天によって開削されたと伝えられ、一時はこの地域の農業発展に大きく貢献しました。元和6年(1620年)頃に、田中内匠と狩野浄天が用水開削の公許を得て、道野辺村(現鎌ヶ谷市)の囃子水(はやしみず)の池から水を引き、流路延長は約3里(約12km)に及びました。この水路の完成により、行徳・浦安地域の農業は大きく発展し、一時は約1万石の水田を潤したとされています。
なぜ、内匠堀に夢中になっているのか?
体質改善のためにウォーキングを始めた。(その前に大腸内視鏡検査やら、人間ドッグやらで、結果が散々だった)。たまたま、11月29日に新中川沿いを2時間歩いて、旧江戸川の浮洲である妙見島を遠望したことがきっかけで、私の歴史好きスイッチが入ってしまった。
12月2日に図書館へ妙見島の歴史を調べに行った。レファレンスで妙見島についての過去の新聞記事を提供してもらった。そこに、狩野浄天と内匠堀(浄天堀ともいう)のことが簡単に書かれていた。彼は、地域への貢献が幕府に認められ、妙見島をもらったのだと。すごい!島ひとつもらえてしまうなんて!明治末までこの島は狩野家しか住んでいなかった。
妙見島について調べたことは、「妙見菩薩像の謎を追う」シリーズとして、連続投稿しているので、あなたの歴史好きスイッチも反応したのなら、ぜひ過去の投稿もご覧ください。
そして、内匠堀については 「AIとの探求19~妙見菩薩像の謎を追う④」 「AIとの探求20~妙見菩薩像の謎を追う⑤」に詳しいので、まずそちらに目を通してから今回の投稿を読んでいただいた方が背景を踏まえて面白く読めると思う。
行徳街道散策に使用した地図など
https://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1441000003.html
↑この手描き地図が現地で本当に役に立った。内匠堀に興味が無い方でも、行徳の歴史散歩はとっても面白いので、印刷して持参することをオススメする。
私は、この他に、市川市役所3階の観光振興課でいただいた『いちかわガイド 市川市案内図』『市川市観光ガイドブック』も参考にした。
また、現地で調達する場合は、行徳ふれあい伝承館休憩所でも回遊MAPをゲットすることができる。
では、内匠堀跡を辿る旅スタート!
JR本八幡駅南口から、浦安駅行のバスに乗車。15分ほどで、行徳橋南詰に到着。
https://www.baychiba.info/blog/news/57405/
江戸川水閘門の工事について学べる施設「EKOMO」に行ってみた(妙典)【行徳】|ベイちばinfo:市川行徳浦安葛西の情報サイト
行徳橋と新行徳橋の間の河川敷。ここが行徳地区への内匠掘のスタート地点だ。
『葛飾を歩く』 中津攸子 著より
「新右衛門(浄天)は行徳を中心とした地域の農事功労者であり開拓者でした。彼は行徳のデルタ地帯の排水と灌漑の用水を全財産を投げ出し、自力で完成させ、陰湿な荒地だった行徳を東葛飾唯一の良田地帯に変える基礎をつくった人です。
しかし新右衛門がやろうとしたことは、名を上げることでも財を貯えることでもなく、ただ、「人々の生活よ、安かれ」との祈りに徹することでした。
それは人生の達人だけができる生き方であり、非凡なる凡人の水の流れのように自然な在り方でした。新右衛門の行動の根源は「やさしさ」でした。
やさしい人だけが世の中をより正しく、より住みやすくするために、あらゆる苦難に立ち向かい、人力を尽くす強さを持っているものです。
行徳に住んだ新右衛門は、戦がどんなに平穏な人々の生活を奪い、人々を悲しみの底に突き落とすものかを体得し、人としての寂しさも知っていました。
その絶対悲を愛に昇華させた新右衛門は、田中重兵衛という高度な土木技術を身に着けた協力者に恵まれたことで、全国に先駆けて平坦地であり、砂地でもある行徳地域周辺の農業用水を整備する困難な仕事をやり遂げたのです。
二人が生涯をかけて完成させた浄天堀は完全に農民のためだけに引いた用水で、当時では画期的な存在でした。公利公益に一身を捧げ、静かにそして一筋に生きた浄天は1629年にこの世を去りました。
浄天は、真に生の自覚者であり、生活者であって、市川の近代は浄天からはじまったといっても過言ではありません」
『狩野浄天 刀を捨て農業用水を引いた人々 』中津攸子 著より
「父上母上を失くし弟と別れ寂しさを噛み締めてはじめて、私は人は人が幸せになれるようにだけ努力して生きることだと思い出しました。
財は父から人様のために役立てよと預かった財 。
自分の命さえ御仏からの借り物 その借りを返すにはこの世で今、私は何をしたらいいのでしょうと眼をとじて、仏を念じ心を専一にしたところ ただ用水を作るのみ と気づいた。
私にとって永遠に生きるとは人を利することです。 仏の御目に適い永遠に生きるとは、たとえ私の名が忘れさられようとも私のした仕事が永遠に人々をうるおしていく そうすることが真に永遠に生きること。」
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