妙見菩薩像の謎を追う旅~千葉市巡礼
令和7年12月5日(金)
【千葉市巡礼~妙見菩薩像の謎を追う旅】
この数日、AIと対話を繰り返しながらあたためてきた『妙見島:妙見菩薩像の謎を追う』シリーズ。本日は、いくつか予定している巡礼コースのうち、千葉市に出かけてきた。とても面白かったので、散策の参考にしてもらえたら嬉しい。
巡礼にふさわしく、青空はスッキリと晴れ渡り、穏やかで暖かな一日となった。本日は夫が同行してくれるので心強い。まずは昨日用意しておいたサンドイッチでしっかり朝食。9時に自宅を出発しJR千葉駅へ向かった。
①千葉市観光情報センター
https://www.chibacity-ta.or.jp/spots/ctic
駅前の観光情報センターで千葉市の地図や訪問先へのアクセスを確認しようと、意気込んでダダッと駅の大階段を降りた。何と!情報センターはクローズしていた。出鼻を挫かれショックを受けたのだが、よくよく時計を見ればまだ9時40分だ。10時オープンということだったので残念だ。時間が惜しいので次へ進む。
②千葉都市モノレール
https://maruchiba.jp/feature/detail_145.html
世界的にも珍しい懸垂型を採用しギネス認定も受けている「千葉都市モノレール」に乗車し、県庁前を目指す。まるで街の上空を飛んでいるかのような感覚になる。景色の見え方が飛んでいる鳥の目線になるので、ワクワクドキドキ。なんとも楽しい乗り物だ。フリー切符もあるようなので、今度は千葉みなとや動物公園なども行ってみたい。
③千葉市立郷土博物館=亥鼻城跡
https://www.city.chiba.jp/kyodo/
はるばる千葉市へやってきた一番の目的は、博物館で販売している図録だった。
目当ての『紙本著色妙見大縁起絵巻』を購入できてほっとする。私の旅のテーマが「妙見島の妙見菩薩像の謎を追う」なので、千葉氏と妙見信仰について学ぶのに最適な一冊だ。
内容:紙本著色妙見大縁起絵巻(千葉県指定有形文化財・坂尾山榮福寺所蔵)は千葉氏の守護神であった「千葉妙見」の由来を、絵と詞書(ことばがき)で表した縁起絵巻で天文19年(1550)に作成されました。
本書はその絵と詞書をオールカラーで完全復刻しています。
巻末には解説のほかに、原文と読み下し文を活字で掲載していますので、美麗な絵画の部分だけでなく、詞書の内容も分かりやすくなっていて、絵巻全体を理解できるようになっています。(HPより)
この図録はクロス張りの丁寧な装丁にもかかわらず、2000円で購入できるなんて信じられない。千葉市の教育へのこだわりと熱意がビシビシ伝わってくる。ちなみに、資料館入館料も無料。千葉市!すばらしい!
他にこの3冊も購入。なんとお財布に優しい金額。有難い・・・。
伝説によると、妙見島の妙見堂が千葉氏により建立されたのは、中世である。はたして、どんなルートで千葉氏が、江戸川あたりまで到達したのか。船でのアクセスという可能性もあるが、陸路なら中世の街道はどのようになっていたのか。千葉街道は明治時代の成立である。我が家の近所を走る元佐倉道は、中世も存在したのだろうか?というのが私の素朴な疑問だった。このパネルによると、中世も元となる道筋は変わっていないようである。ということは、元佐倉道を源頼朝や千葉常胤が馬で駆け抜けたのかも。実際に千葉街道(元佐倉道&佐倉道)沿いの葛飾八幡宮には、頼朝が馬をつないだとされる石が残されている。このパネルを見ただけでも、謎の一つが解けてスッキリした。
資料館全体の展示は、とても見やすくて分かりやすい。平安時代から戦国時代の没落まで、千葉氏の歴史は膨大であって、何人もの人物名がひしめいている。とても一気に全体像をつかめるものではないのだが、この数日Geminiとの対話で出てきた 貞胤&胤貞 など、ちょっとだけ知っている名前を展示で目にすると、「あ、この人知ってる!」と親戚に会ったようで親しみを感じてしまう。まずは気になる誰かについて調べて、推しをつくってもいい。記念に、常胤さんとツーショット写真を撮る。常胤を主人公にした漫画も資料館で購入したので彼は私の推しになるかも。
天守閣からの眺め。晴れていたので富士山や筑波山も拝めた。歴史に興味が無い人でも、ここで風に吹かれてぼんやりするためだけに訪れてもいい。
④千葉寺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E5%AF%BA
亥鼻城(千葉氏の居城)に近いことから千葉氏の祈願所となった寺。
資料館から大網街道をてくてく15分ほど歩く。
丁度季節がよく、天然記念物の銀杏が美しく黄金色に染まっていた。
坂東三十三観音第29番札所でもあり、巡礼者が札を納めている姿を見た。なるほど、老後はそういう楽しみもいい。わざわざ四国まで行かなくても坂東三十三観音ならほとんど日帰りできる。東京では唯一、浅草寺が第13番札所。
境内の瀧蔵神社
千葉氏の家紋が入っている。
千葉氏5守護神の一つである千葉寺の龍権であり、御祭神は海津見神。日本の神話に出てくる海の神様である。
千葉氏のルーツは海人族なので、航海の神である北極星(北斗七星)を神とする妙見菩薩を信仰したのではないかと推測している。今後も、千葉氏の妙見信仰についての調査を続行するつもり。今はほとんど何も分かっていないので、あらためてここに参拝に来たい。
⑤京成線 千葉寺駅
徒歩10分ほどのところにある京成電車の駅へゆるやかな坂を下っていく。京成電車から千葉駅へ向かう車窓が美しかった。先ほど歩いてきた道のり(千葉寺、千葉城、県庁、モノレール)を高い視点から再度拝む。ちなみに、千葉寺からは大網街道沿いのバス停があるので、バスで移動することもできる。
⑥再度千葉駅
さきほどクローズしていた観光情報センターで千葉市内の観光マップをゲットする。窓口では外国人観光客が英語でスタッフと話し込んでいたので、それ以上の情報は得られず。空いていれば、ここでスタッフに話しかけて、いろんな情報を得られる。
⑦昼食
時間は12時30分。さすがに空腹だ。千葉神社へ向かう途中の大通りで、おしゃれな仙台料理のお店を発見。
伊達のくら千葉店
https://datenokura-chiba.com/
ランチメニューで名前は仙台牛タン御膳だったかな?仙台の美味しいところがチョイスされていて一箸一箸楽しくいただける。量もちょうどいい。お洒落なグラスに入った香り豊かな珈琲がずっとHOTで感動した。平日だったせいかお昼どきなのに空いていた。駅ビルや駅近のデパートは混雑するので、ちょっと歩いて駅から離れたほうが大満足なランチになると思われる。
⑧妙見本宮 千葉神社
https://www.chibajinja.com/
こちらは、Geminiと数日に渡って話題になっていて、ずっと訪問したかった神社である。千葉氏宗家の妙見信仰の本拠地であるから、妙見島の妙見菩薩にとっては本家。すべての事の発端がここにある。(妙見島の妙見堂は中山法華経寺から分祀されたらしいが)
千葉氏の妙見信仰が無ければ、江戸川の浮き洲が「妙見島」と呼ばれることも無かった。東京低地の庶民たちの信仰の形も違っていた。中世から戦国時代の権力闘争の浮き沈みの中で、地方豪族と宗教の関係は密接につながっていた。
私がテーマとしている江戸川流域東京低地の歴史は下総国守護の千葉氏の影響が絶大なので、必然的に千葉氏の信仰がもれなくついてくる。だからこそ歴史上の舞台に妙見島が登場し、時代に翻弄された妙見菩薩像の流転ドラマが展開した。
今は工場が林立する無骨で軍艦のような島が、他の名称だったら私はここに来てはいないし、こんなことに夢中になってはいないのだ。島の名称と現状にあまりのギャップがあったので、つい好奇心が湧いて私の謎解きの旅は始まった。
千葉神社は鳥居付近を大工事中であり、裏口から入ることになった。しかし境内は広く、予想以上に素晴らしい神社だった。妙見信仰のことはほとんど知らなかったのだが、「星まつり」「星の神様」などの呼び名がロマンチックで心ゆさぶられる。スターシード気質の私にとって、これらのワードにはうっとりしてしまう。
参拝してすぐ帰るつもりだったが、あまりの居心地の良さに、つい長居してしまった。
おみくじを引いたら大吉だった。久々に大吉が出たので嬉しくて大興奮する。夫が「あなたが身体のこととか、一生懸命に頑張っているから、神様は見てくれているんだよ。」と褒めてくれて、それも素直に嬉しい。確かに、自分なりに努力しているし、いろいろ取り組んでいる。だから、神前に立ってもお願いすることより、感謝の気持ちしか湧いてこない。
本殿正面にはご神体の丸い鏡があって、夫と並んで参拝していたところ、その鏡に二人の姿がしっかり映っていた。それほど、この妙見宮の鏡は参拝者に見やすい位置に据えられピカピカに磨かれていた。鏡=かがみ 「か」と「み」つまり神の間に「我」が入ったもの。我を取れば人も神。神は鏡に映った私である。と言われていることをふと思い出した。
「ほら、私達、ご神体の鏡に映っているよ。私たちも神様だね。」と隣の夫にそっと話しかけた。
さて、妙見の星の神様は私に何を伝えてきたのだろうか?
チャネリングで神のメッセージを降ろすわけではない。一般的な人間である私は、おみくじのメッセージから今必要なことを受け取るのである。
「塵も積もれば山なす例え、小さき善行積んで行け(中略)誰にでもできる事も一つ一つ積み重ねていけば、安らかなる神様の御かげに身も心も包まれて、自ずから真の幸福が集まって来る。」
そうか、なにも背伸びすることなどないのだ。自分にできること。小さなことを積み上げていけばいい。例えば、朝、マンション内で誰かとすれ違ったら「おはようございます」と爽やかに挨拶するとか。お掃除してくださっている方に「ありがとうございます」と伝えるとか。そういう小さなことを大切にして日々を過ごしていくことが、未来の土台を築くのだ。
ふと、この二日間にわたって夢中で調べていた 狩野浄天 のことを思い出す。浄天も「ただ、用水をつくるのみ」と、一生を内匠堀の開削に捧げた。自分が幸せになることは、他の人を利すること。という気づきに至るまでに、落武者という立場で過酷な試練をくぐり抜け時代に翻弄されてきた。
妙見島の歴史に魅了され、ここまでたどり着いた私に、妙見菩薩が言葉をかけてくれるのなら、まさにこのおみくじの言葉になるのだろうと静かに味わった。私は私で、浄天になればいい。私の運命を受け入れて、そこから出来ることを積み重ね、ささやかなことでも学んでいけばいい。私には私にしか出来ないことがある。夫と一緒にこうやって歩いているのも、微笑みを交わし合うのも、私にとって大切なことだ。
⑨妙見島について新たな考察
ちょっと長くなるが、神社ホームページの由緒と神紋の説明を一部抜粋して紹介したい。私にとっては調査過程において、大切な情報ばかりが書かれていた。
由緒
平安時代末期、関東南部を広く統治した平良文(たいらのよしぶみ)は、戦のたびごとに妙見様に祈願してその御加護をいただき、常に大勝利を収めておりました。この良文公を祖とする千葉氏は、一族郎党の守護神として妙見様を各地にお祀りし、代々熱烈な信仰を捧げてまいりました。
千葉氏の三代目である平忠常(たいらのただつね)の頃、千葉の地にお祀りされていた香取神社の境内:香取山(かんどりやま)の一画に、千葉氏によって妙見様の御分霊(=分身)をお祀りする祠が建てられました。(年代不詳)
この祠に、眼の病気を患った第66代・一条天皇が眼病平癒の願を掛けたところ、即座に病が完治したことから、一条天皇は薄墨の御綸旨と「北斗山金剛授寺」という寺号を贈って感謝のお気持ちを示されました。
忠常公は、賜った貴い寺号に見合うようにと伽藍一切を整備し、自らの次男・覚算(かくさん)を大僧正に就け、長保2年(西暦1000年)旧暦9月13日、「北斗山金剛授寺」を中興開山しました。
千葉氏はその後、関東南部における勢力範囲を徐々に拡大し、千葉氏の七代目・常重(つねしげ)の頃になると関東地方の有力な豪族へと発展します。当時、一族の本拠地であった大椎城(現:緑区大椎)が手狭になったことを契機とし、陸運・海運の要衝であった千葉の街へと移転することとなりました。
大治元年(1126年)、千葉の街の中にあって攻め難く守り易い亥鼻山に亥鼻城(現:中央区亥鼻)を構え、恒久的な本拠地整備へと進みます。この移転に伴い、それまで惣領の住む城内でお祀りされていた妙見様の御本霊(=御神体)を北斗山金剛授寺にお遷しし、以前からお祀りされていた御分霊と合祀してお祀りすることとなりました。
御本霊の遷座の翌年である大治2年(1127年)、妙見様の御分霊をお神輿に乗せて亥鼻城の麓に向かう「妙見大祭」が始まり、それ以来一度も休むことなく現代に続いています。
千葉氏とも縁の深い源頼朝は当社に参詣し、自筆の願文・太刀・武具などを奉納して平家打倒を願い、ついに武運を開くに至りました。また日蓮上人が宗門弘通の誓願をたてて当社に参籠した際、有難い奇瑞をいただき「この妙見尊こそ、わが宗門の守護神である」と讃嘆され、誓願成就の後に自筆の細字法華経を奉納されました。
徳川家康も当社に深く崇敬の誠を捧げ、大久保岩見守に命じて祭祀の料田として永代二百石を寄進するとともに、将軍との謁見が許される格式(十万石の大名と同等)を賜り、以後代々の徳川将軍家より神領・特権を許されました。江戸時代には「千葉の妙見寺」「尊光院」などの通称でも呼ばれるようになりました。
幕末を経た明治2年(1869)、明治政府が発した「神仏分離令」により、当時曖昧であった神社と寺院の区分を明確に区別することとなりました。僧侶・総代・氏子らの協議の末、妙見大祭の神輿渡御が神社の様式であったことから、数百年続く祭礼を継承すべく「千葉神社」と改称して神社となり、今日に至ります。
厄除開運・八方除の守護神である妙見様の本宮としてその御霊徳はいよいよ高く輝き、千葉の妙見様として四方八方にあまねく知られ全国の善男善女から深い尊崇を集めています。
神紋 社紋
鎌倉時代、千葉氏が幕府の有力御家人として活躍する中で得た東北地方や九州地方の領地には、一族の子弟が独立し新たな分家の領主として各地に派遣されました。
派遣の際、分家の新領主は北斗山金剛授寺で妙見様の御分霊を分けていただき、新たな領地に神社・寺院を建立して御分霊をお祀りして一族の守護を願いました。これらの分霊社は千葉県内だけで200~300、相馬・仙台・郡上八幡・北九州などにも多く現存しています。今も福島県相馬地方で行われる「相馬の野馬追」は、千葉氏分家の相馬氏が妙見様の分霊社に馬を奉納する神事がその始まりです。
これらの分家に際し、妙見様の御本霊と一緒では畏れ多いという畏敬の念から、三光紋を変形・回転させたり九曜紋の周りの星を減じたりして、元とは異なる形の紋を分家の家紋として用いました。これゆえ中央一つ・周り八つ・合計九つの星の紋が「九曜紋」として広く用いられ、現代でも広く伝わっています。
元々の形である二つの紋は、残念ながら千葉宗家が滅亡してしまったことから、当社だけに伝わる紋となりました。星を減じていない当社の十曜紋こそが、本来の「妙見様の差配する御力」を表していた紋であり、当社が妙見信仰の頂点に立つ本妙見宮の証しとされています。
千葉神社ホームページより
ここで大事な情報を得た。「星を減じていない十曜紋」=千葉宗家の流れ の証となる。ということは、千葉妙見宮以外の妙見神社および妙見堂に神紋社紋がついているなら、千葉氏分家の紋になっているということだ。
妙見島の妙見堂は1300年代には既に無く、千葉氏の妙見菩薩像も、現存していない。(南北朝時代の1362(貞治元)年、妙見堂(妙見菩薩像が祀られていた)が東一之江村の妙覚寺に移されたという記録が『新編武蔵風土記稿』にあり。)
現在、妙覚寺の妙見菩薩像は昭和期のものだ。
ややこしいのだが、現在、妙見島の某工場敷地内に妙見神社という名の小さな社が建っている。「賽銭箱に九曜紋がついている」という記述の本もあるが、2025年現在、ネット上の写真を拡大して見たところ神紋らしきものは見当たらない。
過去の新聞記事によると、昭和30年くらいまで祠があったけれど、「傷んだので取り壊された」というかつての島民インタビューがある。
『江戸川区の民俗4 葛西地区の民俗』江戸川区教育委員会編 1993年 によると「この妙見は戦争中はたしかに島に祀られていましたが、その後近くの香取神社に合祀されたと言われています。現在一之江三丁目の妙覚寺の境内に祀られているものがそれだと聞いたことがありますが確証はありません。」との記述がある。
1830年に完成した『新編武蔵風土記稿』には千葉氏の妙見菩薩像は妙覚寺の妙見堂にあると書かれている。現在の妙覚寺の回答では、千葉氏の妙見菩薩像は現存していないという。江戸時代には妙覚寺にあった千葉氏の像は、どこへ消えたのだろう?戦争中に妙見島から近所の香取神社へ合祀させたというが、戦争中に妙見島の祠にあった像は、はたして千葉氏の(江戸時代に妙覚寺にあったもの)像だったのだろうか?昭和30年に傷んで取り壊したという祠は、戦後再び復活させたのだろうか?そして、現在島の某工場敷地内の妙見神社は、昭和30年まで島内にあったとされる祠と関係あるのだろうか?まったく新しく勧請したのだろうか?それぞれの時代において、島民が「妙見島なのだから妙見様をお祀りせねばなるまい。」と、個人的に祠を建ててきたのではないだろうか?千葉氏の妙見菩薩像は、戦後妙覚寺や香取神社から島の祠に返還されたのではなく、度重なる水害や戦争などの混乱で、いつの間にか無くなってしまったのではないだろうか。
今のところ、情報を総合的に勘案して、現在の妙見神社が、中世千葉氏の勧請した妙見堂を継承している可能性は甚だ低い。少なくとも昭和30年以降、某工場の敷地を所有する施主が現在の社を建てるにあたっては、どこかの妙見神社から勧請しなおすしかなかっただろう。同じ神様、妙見菩薩を祀っているにしても、史実による裏付けが出来ていない。
現在の妙見島は江戸川区の管轄である。中世からの歴史を継承した妙見神社であるなら、江戸川区の神社として紹介されてよいはずであるが、区史などでは、『新編武蔵風土記稿』の妙覚寺の部分の記述にとどめ、現在の妙見神社と繋げる記述は一切見当たらない。また、区内の神社であるなら、『江戸川区史』や教育委員会が発行する正式な資料に掲載されていてもいいはずなのだが、「妙見神社」は神社の項に載せられていないのだ。個人が勧請した屋敷神のような扱いなのだろうか?
区発行のウォーキングの地図などには、「妙見島には妙見神社があります」「島名の由来はかつて妙見堂があったことから」という程度にしか紹介されていない。
昔から水害多発地域であり、古い記録が残っていないことも、真相が闇の底に沈んでいる要因になっているのだろう。
千葉氏の流れを汲む妙見堂を拝みたいという方は、一之江の妙覚寺を訪問する方が由緒正しく安心かもしれない。寺の開祖は千葉頼胤の甥、日全とのこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E8%A6%9A%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA)
妙覚寺には現存せずとも1300年代には妙見島由来の像を祀っていたのは間違いないので、歴史の残り香を感じられることだろう。
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