初夏の宇宙会議
魂兄Yさんとスカイプによる恒例の宇宙会議を開催した。一年ぶりぐらいだろうか。
本当は先月の私の誕生日に合わせて企画してくれていたのだが、私がコロナに罹ってしまったので、5月21まで延期となってしまった。
Yさんとは似たような人生シナリオの男性バージョンと女性バージョンに分かれて体験をシェアしている。毎回この会議では、各々の気づきの答え合わせをしたり、Yさんに審神者的解釈をもらったり、より理解を深めるための書籍などを紹介してもらっている。Yさんはもしかしたら図書館に住んでいるんじゃないか?と毎回疑いたくなるほど、その日の話題にぴったりの本を魔法のように出してくる。何を話題にするかなど、あらかじめ決めていないので、そのシンクロには毎度驚かされる。
本日は、私たちの他に、ほやぼ~や師匠と星のクジラさんも同席してくれていた。各々好きなアルコールを用意して、自由気ままに会話をした。11時~4時半まで5時間が、まるで1時間くらいの感覚で驚いた。地球時間がぎゅっと凝縮されたかのようで、これが宇宙感覚なのだろうか。ずっと話しているのにまったく疲れない。ありのままのエネルギーでいられることが原因かもしれない。このように、自由気ままにリラックスして、人生の答え合わせをする相手がいることは幸せなことだ。
Yさんとは、人生の転換期の節目に、このように、きちんと時間を取って、人生体験の意味を腑に落とすことが出来るようになっている。頻繁に会うわけでもないし、連絡も気が向いたら取り交わすくらいである。しかし、転機が来た(ステージを一コマ進む)タイミングで宇宙会議の招集がかかるので、あたかも私たちを見守る宇宙存在がマネジメントしてくれているかのようである。そのため、この会合を宇宙会議と勝手に称している。
Yさんの個人情報に当たることは一切省略するが、節目にどんなことが起きていたのかを後で確認できるように、主に私に関わる話題をここに記しておきたい。
議題1「こだわりを捨てる」
私「最近、ビールを飲みすぎている。休みの日は、午前中から飲んで一日1リットルくらい飲んでしまうこともある。4月から仕事に行くようになった意味は、もしかしたら定期的に肝臓を休めるためかもしれない。無意識はうまくできている。
ビールとスナック菓子を食べながら映画を見て、酔っぱらってうたた寝するという一日がとても幸せ。以前は、自然のもので、体に良いものだけを食べ、食事療法などにこだわった時期もあったが、今はその日に食べたいものを食べるようにしている。添加物が多少入っていてもあまり気にしなくなった。「〇〇すべき」というこだわりを捨てた。神社のカフェでお酒を飲むのも気に入っている。神様だって、お酒好きだと思う。お酒を飲むと陽気になって、気持ちよくなって、笑ったりしていると波動も上がる。」
Yさん「大丈夫!十牛図第十図も、酒瓶片手に腹を出している。(笑)」
*ここでYさんは何気なく十牛図について触れたが、この日のテーマに大いに関わってくることが後から判明する。
補足)
『十牛図』とは、逃げ出した牛を探し求める牧人の様子を、段階的に描いた十枚の絵です。十枚の絵には詩が添えられています。読み方は「じゅうぎゅうず」です。「牛」は「ほんとうの自分」の象徴で、牛を探し求める牧人は「真の自己を究明する自分」をたとえたものです。「十牛図」とは、俗世間の生活の中で自分を見失い、ほんとうの自分を探しに旅に出る若者の物語です。「自分とは何か」を探し求める旅の物語絵は、禅の悟りにいたる道筋を表しています。(『十牛図』とは?十枚の絵の意味や解釈の方法をわかりやすく解説 | TRANS.Biz (trans-suite.」より」
議題2「聖なるエゴ」
私「四年前、退職してからスピリチュアルに傾倒して色んなことを学んできた。学ぶことは好きだった。しかし、だんだん違和感を感じることも起きてきた。世の中で持てはやされているスピリチュアルの中に、清いもの、美しいものをよしとして、「すべてを受容しましょう」と言葉で言いながら、結果的に都合の悪いものと境界線を引き、二元を強化してしまっているように感じる。輝く美しい世界にあこがれて、人に伝えたり、世の中の変化に貢献する役割があるのではないかと動いたこともあるが、どんどん辛くなった。光が強くなると内面に抱えた影が濃くなっていくことに気づいた。12月には、私の中の真っ黒に気が付いて、これも私なのだと、愛おしくて涙を流した。直後、活動から身を引いた。湧き上がる違和感に従うならそうするしかなかった。人を教え導く役割の人もいる。しかし、私にその役割はなかった。ジグソーパズルで例えるなら、そこにはまる形ではなかったということだ。
とある炭鉱の話。一生懸命働く炭鉱夫の中で、いつもブラブラして遊んでいる人たちがいた。スカブラと呼ばれていた。スカブラは、おしゃべりして周りを笑わせていた。ある時、運営側が効率化を目指し、スカブラを一掃した。働かないやつらが居なくなれば効率が良くなると考えたからだ。ところが結果は逆で業績が悪化したのだ。スカブラは無意識に集団の中で必要な役割を担っていたのだ。おそらく周りを笑わせたり、おしゃべりに花を咲かせることで、危険と隣り合わせで働く炭鉱夫たちのストレスを和らげていたのだろう。
どんな存在も必要があってそこにいる。いらない存在など一つも無い。例えば、DSと呼ばれる人たちも、宇宙から俯瞰して眺めるなら、全体にとって必要な役割を担っているのだろう。生かされているなら、必ず意味がある。エゴが抵抗してしまうような存在もいることは確かだが、思考を超えたところに答えがあると思う。結果的に二元を強化してしまう聖なるエゴが、スピリチュアル界隈で散見される。もちろんその世界も必要な人はいるだろう。」
Yさん「光文社新書『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。―心理学的決定論』妹尾 武治【著】という本もある。自分の意思で体を動かしているようでその前に脳から指令が出ていることが分かる。思考は後付け。我々は何者かに動かされ、自由意思など無いと考え、生きることに投げやりになってしまう人もいるかもしれないが、自分はそう思わない。大いなる根源の意思であるなら、操り人形である自分の選択や行動にも必ず全体の中で意味があり、つながっている。大きな円の中にすべてが包み込まれているような感覚。人を助ける心地よさは聖なる(スピリチュアル)エゴに繋がると感じることもある。」
私「その心地よさは、エゴから発していると思う。(ブログにも書いた)説教好きの自分の傾向について。確かに説教していると気持ちいい。でもそれは、相手を弱くて導かなければならない存在として分離しているからこそ味わう快感だと思う。私には確かにそのエゴがある。
あまりに説教したい欲望が払拭できないので、昨日、ついに母に長文のLINEを送ってしまった。抑えていたけど、そんなにやりたいならやってみなと、一旦自分を許してみた。その結果を受け止めて、また考えればいいと思った。母は既読スルーした。無反応。つまり、私の文章が心を打つものではなかった証だ。エゴが書いた文章である原因は、相手を傷つけないよう言葉を選び、二時間も推敲したから。何が言いたいわけ?というような文章になった。こういう時、優しくするということが、私にはよくわからない。本当の受容って何?本当の愛って何?という道の途上に居るのが今の私。考えても答えが出てこないから、まずは行動するようにしている。体験を通して学ぶしかない。」
議題3「ノンデュアリティ」
Yさん「人に優しくする前に、自分に優しくすることが大事だと思った。自分の中から湧き出てくる「説教したい欲望」も否定することなく、出てきたエゴもすべて受け入れていい。悟る必要は無い。完璧な存在(根源?神?)がいろんな役割をやっている。
〇金森将『バタ足ノンデュアリテイ』
(金森将の「生きる世界が変わるノンデュアリティ入門」/vol.1 問題というものは最初からない (starpeople.jp)など)
〇大和田菜穂『すでに愛の中にある』
など参考にするとよいのでは。YouTube解説もあるので、おすすめ。
何かして上昇しようとするのが、エセスピリチュアル。元々一つのエネルギー。手放しも手放す。最近、自然が心地よい。自然の中にいて流れの中にまかせている。自然が一番の教師だ。何かになろうとするのをやめた。すべてはドラマとして用意されていたのだから。幻想も根源の一部。
闘病中や、何かに夢中になっている時でも、根源とつながっている最中は、エゴを消そうと思っていないことは誰もが体験する。ありとあらゆるものが全てであり完璧。
十牛図の第十図にあるように、腹を出して酒を飲み、皆と交わっているだけでいい。自分の存在エネルギーを出しているだけ。何一つ否定することはない。
補足)【入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)】 ~解釈)
このように再び、本にかえり、万物が豊かな色を示す世界に、私は何事も起こらなかったかの如く帰ってゆく。脚を現し、腹をむきだし、一見愚者の如くに、町にさすらい歩き、物にあえば物に親しみ、人にあえば人と笑い、見知らぬ人の間で、慈悲を世界にふりまいて生きている。
私「そうそう。この世の菩薩は、ヒョウ柄の服を着て、大阪の商店街で飴ちゃんを手渡しているような人だと思う。ごくごく普通の人の姿なんだとつくづくそう思う。今日話しているテーマが十牛図の第十図にぎゅっと凝縮されていて、ビックリした。」
議題4「ここに天国も地獄もある」
私「4月から就職した。なぜか不思議な流れに導かれ、四年前に退職した時と同じ部署で再び働くことになった。当時は忙しくてストレスも多く病気になって仕事を辞めた。なぜあの戦場のような職場にわざわざ戻されるのか意味が分からず頭では抵抗していた。反対に、ハートの部分がワクワクしていたのでこの体感に従い戻ることにした。きっと私に必要な道に誘われていると思うしかなかった。
同じ部署でまったく同じ仕事をしているのに、職場はあたたかく、笑顔と思いやりに満ちていて驚いた。もちろんストレスの多い環境であることは変わらない。違いは、ユーモアで乗り切っていることだろうか。過酷な状況が勃発しても、誰かがジョークを言って場を和ませている。毎日誰かが飴ちゃんを配って、優しい言葉を何気なくかけてくれる。環境は変わらないのに、笑いとちょっとした思いやりで、雰囲気が180度変わってしまうことに気が付いた。
このことは、十牛図の第十図からヒントを得たのだけれど、ごくフツーの日常の場にこそ覚者がわんさかいるのではないか。分かりやすく純白の麻のローブを纏い、後光をきらめかせている人が覚者ではない。その段階に到達した人の姿は、ごくごくフツーであり、世間に紛れ込んでいる。何も特別にスピリチュアルなことを学ばなくても、彼らは意識せずに大切なことを実践している。彼らはただニコニコしているだけかもしれないが、彼らが無意識に世の中に振りまいているエネルギーこそが、スピリチュアルが求めてやまない「受容・愛」なのかもしれない。彼らは、ただ、彼そのものとして、そこに在り続けているだけである。「私は愛と受容を実践している」などと意識するなら、まったく別者になってしまうことだろう。
第十図のおかげで、すべての意味が繋がった気がする。
私は私のままであればいい。今ここの体験を存分に味わっていればいい。流れに逆らわなければ、無意識に宇宙に誘われ、それこそ十牛図を1から10まで歩まされる。先に知識を得たところで、飛び級は叶わない。一つひとつ、それこそ牛歩で、与えられたステージをこなしていく。急ぐ必要もないし、休憩したっていい。
そういう風になっている。このことを他の人は「地球メタ―バース遊園地」と表現する。
私が元の職場に戻された本当の意味はよく分からないが、このことに気づくためには、同じ場所である方が理解しやすかった。もし別の職場に行ってしまったら、元の職場は私の中でいつまでも地獄の体験として分離したままであっただろう。
天国も地獄も、自分の捉え方次第だ。天国も地獄もここにある。私が解釈して創りあげていた。同じ環境・条件でも、こんなに感じ方は変わってしまう。青い鳥は最初から家に居たということだ。方々探し回って、どこにも無くて、諦めて帰ってきたら、なんだここにあったじゃ~ん!ということ。どこかにあるわけじゃない。ここにすべてがある。」
議題5「今の存在そのものを見る」
私「明日、実家に帰って母に会う。いろいろあって、母を叱り飛ばしたいけれど、もしかしたら「地球メタバース遊園地」だとするなら、母は試験官なんじゃないかと思いなおした。人生のステージを一段階進むためには、テストがあるのだと思う。進んでも進まなくてももちろん自由なのだけど、テストをクリアしないと次には進めない。そう思ったら、母の言動の全てが私の進級のためにあるのだから、ありがたいなあと感謝の気持ちに変化した。明日母にどう接するのか、本当の受容、本当の愛って何だろう?と今もよく分かっていない。これは頭を使って出てくる答えではないと思う。その瞬間に出てくるものに委ねるしかない。それが私なのだから。怒りが湧いてきて、襖を何枚か蹴り破ることになるかもしれない(笑)。今は、それでもいいやって思う。優しくしよう。言葉に気を付けようって今朝まで思っていたけど、そうじゃないなって。ありのままの母と私でいいんだと思った。」
Yさん「昔、苦しんでいた時、空から「今の存在そのものを見なさい」というメッセージが伝わってきてね。(Yさんの体験談は省略する)」
その言葉は私の胸のあたりを震わせ、涙があふれた。本質の言葉は魂を震わせる。この一言に真実の答えがあると感じた。理屈ではない。頭を介さないので言葉で説明するのは困難だが、私の魂は深く理解している。そのことは涙で反応する体感で分かった。今日、この一言を聞くためにYさんとスカイプ会を開催したのかもしれないと思った。
真理の言葉とは、シンプルでスッと理解できる。そして胸のあたりがあたたかくなり、心から安心できる。
議題6「体の反応から本音に気づく」
私「先日見た夢の話。実際に現実体験から学んでいくことは大切だけれど、夢が教えてくれることもある。
母が飛び降り自殺をして、その現場に立ち合うという夢。思考はさかんに私のやらかした失態をごまかそうと悪い画策しているのだけれど、体の反応は明らかにショックを受けていた(良心に基づく反応)。思考では本音が理解できていない。でも、体の反応で「ああ、私、ショックを受けているんだ・・」と分かった。私の中で明らかに分離(いろんな私がいる)していた。このような複雑で繊細な体感は、実際に体験しないことには分からないけれど、夢のおかげで体験できるものなのだなあと思った。母の自殺現場だなんて、現実に起きたら嫌だけど、夢なら安全に体験できる。そこから現実と同じ効果で学ぶことも出来ると思った。夢は何か大切なことを知らせるメッセージの役割もあると思う。夢から得たのは、体の反応の方が本音(魂、本質)に近いということ。
Yさんが、自然は教師だと先ほど語ってくれたけれど、そう言えば、体も自然。一番身近な自然が自分の体だと今気が付いた。私の体も教師。」
議題7「ポーションはコロナだった?」
私「最近のブログに書いてきたことだが、夫の先祖からの夢メッセージに導かれ、浅間神社へお参りに行き、ポーション(体力回復アイテム)を受け取ったらしい。それは、肉体というよりは、魂に作用するポーションであったのではないか?
その二日後あたりにコロナに罹った。コロナのおかげで闘病中に浄化が起き、沢山の気づきがあった。この一か月、気づきが連鎖的に起きていて、コロナ前と後の私は全く違う。昨日の理解と今日の理解も変化して日々めまぐるしい。その変遷はブログに記録しているので、一か月前に書いていたことと、最近書いていたことの考えが違うこともある。そういう視点からブログを見るとなかなか面白いかと思う。」
Yさん「(ブログを読んでくれていて)夢の中でエリリンに癒されたり、無限大の愛のエネルギーを感知したり、謝罪し続けて泣いたり・・・。無意識に、催眠の体細胞療法や、副人格療法、悲嘆療法や、ホ・オポノポノなどを実践していたみたいだよね。」
私「全部無意識に起こったこと。人には既に必要な叡智が備わっていて、わざわざ知識として〇〇療法を高額な学費を払って学ばなくても、必要な時に必要なことをしっかりやっている。そして必要な時にポーションがもたらされている。こういう意味では、ウイルスもポーションだと思った。DNAを進化させる作用があるのはウイルスだけだと聞いたこともある。病は気づきのための体験だとするなら、魂へのギフト。そうそう、飴ちゃんもポーションだね。(笑)
敢えて〇〇療法と分類するなら、体細胞療法的な流れで、湯船の中でリラックスしている最中に、切除された癌細胞のエネルギーとつながった。それは言葉を超えていて、どう表現したらいいのか分からない。無限大の愛のエネルギーで、体の反応としては、ただただ涙が流れた。この愛のエネルギーを宇宙とか根源とか神と表現するのなら、私の細胞そのものが神だと。それだけでなく、すべての人も、動物も、植物も、鉱物も、有機物無機物、ありとあらゆる現れが愛なのだと。Yさんが今、手元で丸めているティッシュも無限大の愛の現れなんだな~と。頭では理解できないけど、体感では覚えている。それを伝えようと一生懸命言葉に置き換えていると、どんどんそこから離れて行ってしまう。大切なことは体験するしかないんだと思う。文字に置き換えたものから得ることは出来ない。
何も、目指さなくても、焦らなくてもいい。自分の目の前に現れる現実を順番に体験していればいい。タイミングがきたら、必要な体験が用意されている。準備が整えば、自ずともたらされてくる。だから、私は私であればいいという意味がストンと腑に落ちた。表面的な意味ではなく、とても深く重層的な意味で。たくさん遠回りしたからこそ、得られたような気がする。
もう一段階進めると、私は無限大の愛のエネルギーに包まれて、涙を流したのだけれど、ありがたいな~とか、自分と比較し何か崇高なエネルギーとしてまだ分離して感知していた。もし私がその無限大の愛そのものでエネルギーを発するなら、それは自分そのものなので、何の違和感もないはず。そうなると、私はただ私であるだけなので、今と全く何も変わらない。だから、本当の覚者とは、ごく普通の人なんだ。そうか・・・十牛図の第十図の意味はきっとそこなんだ。だから覚者は日常に戻るんだ。」
議題8「ダンスは地とつながる」
Yさん「〇〇さんのダンスを見て感じたこと。宇宙よりも地とつながることの方を大事に。導管になる。呼吸しているだけでいい。その時その時起きている体の反応が大切。探求しなくていい。自然は教えてくれる。」
〇〇さんとYさんのコラボダンス動画を拝見したことがあるが、事前に打ち合わせをしていないのに、地のエネルギーのままに即興で踊っていたら、ちゃんと二人の動きがシンクロしていた。自然の流れのままに生きていれば、ちゃんとすべてがつながって、どの行為も調和にしかならないのだということが分かる。生き方のヒントが秘められているようにも思った。
全ては書ききれていないが、おおまかな内容を記しておいた。簡単なメモと自分の記憶で再現したため、Yさんの言葉については私が受け取ったニュアンスの表現であることをお断りしておく。私の捉え方が違っているところも少しあるかもしれない。
明日はテスト日(実家の母に会う)なのだが、あたかも試験前日に予備校に駆け込んでテスト対策の補講を受けたかのようだ。
Y先生「はい。ここ、テストに出ますからね~。」みたいな(笑)
宇宙会議前までは、本当の受容とは、愛とは、優しさとは何か?ということで悩んでいた。うんうん悩んで、見当違いなこともしでかしていた。
Yさんとの対話で今思うこと。
自分から出てくるものはそのまま受け入れていい。相手も自分もそのままであればいい。母と相対した時、思考からひねり出した言葉ではなく、自然と流れるように出てくる言葉でいい。言葉ではなくても、自分の反応をそのまま感じていい。結果喧嘩になって、襖を何枚も蹴破ったっていい。共に母と味わうその体験こそ、私たち魂がやりたいことなのだから。そこから何かに気づいても気づかなくてもいい。変化してもしなくてもいい。
大いなる宇宙(自然)の流れに任せていればいい。なるようになる。流れに任せていれば、自ずと調和していく。大丈夫なようになっている。
結果に一喜一憂して悩むのは、エゴの領域だけで、根源から見れば、「すべてうまくいっているな~。」とほほ笑んでいる。全部つながって影響し合って作用して、大いなる一つの意思は知りたいことを知っていく。その壮大な気づきのことは制限だらけの思考では理解できない。分からくてもいい。制限があるからドラマが生まれ、面白い体験が叶うのだから。
このことを宇宙会議前に文字情報で知っていたとしても、自分に落とし込むことは出来なかっただろう。きっと表面的にしか捉えきれず、疑問もいっぱい感じたと思う。これが言葉でコミュニケーションする人間の限界である。
私はYさんと共に時間を共有することで、そのエネルギーに触れたのだと思う。エネルギーが伝えてくる情報量は計り知れない。言葉で表現できないことも伝えることが可能となる。人と人が出会い、場を共有することの大切さを身に染みて感じる5時間だった。
今日の宇宙会議は、私にとってポーションだったな~。
とってもハートがあたたかい。なんだかすご~く安心した。
Yさん、いつも私の人生の転機に、答え合わせをしてくださりありがとうございます!
また、数か月後、きっと転機が訪れると思うので、次の宇宙会議も楽しみにしています。
☆魂の昇級テスト
宇宙会議の翌日。5月22日は、父の月命日だ。そして、魂の体験ステージを次に進めるかどうかのテストが行われる日でもある。(と解釈することで気を取り直した次第は上記参照)
実家へ向かう電車に揺られながら、つい思考はアレコレ対策を考えてしまう。こういうセリフを言ったらどうかとか。しかし、そのセリフは恐れをベースにして発せられているのは明らかだった。思考は心配性だ。自分が傷つけられないよう、万全の対策で臨もうとする。思考さんの働きは私を守ろうとしてくれているわけなので、とても有難いのだが、今日はゆっくり見物してもらうことにする。考えるのを止めて、なるようになるさ~と、ぼんやりするようにした。何も考えなくていい。今日は、その瞬間に出てきたありのままの私を信頼しよう。結果、頭にきて大喧嘩になったっていいんだ。起こることは起こる。私が意図する必要は無い。宇宙が起こすことはすべてうまくいくようになっている。
住職の読経は相変わらず美しく、うっとり聞き惚れた。
この日は曇り空だったのだが、ちょうど住職が仏間に入ってきた時に、奇跡的に太陽の光が射し込んで、父の遺影のあたりを明るく照らした。あまりのベストタイミングに、これは父が合図をしてきているのではないかと直観で感じた。父はきっと、母に何かを伝えたいのではないだろうか?
住職が帰った後に、私は父の遺骨の前で手を合わせ心の中で話しかけた。
「もし、お母さんに伝えたい言葉があるのなら、私に教えてください。お母さんに私から伝えますよ。」と。手を合わせている数分間は、何も感知できなかったので、まあ、後からメッセージが降りてくるかもと思い、そのまま帰り支度を始めた。
私は忘れっぽいので、父に投げかけた問いかけも、今日が魂の昇級テスト日?であるということもすっかり忘れてしまった。
玄関で靴を履いて、母に帰りの挨拶をしながら、握手をし、その後どちらからともなくハグをした。自然な流れのままに、母の華奢な背中に腕を回した。背をそっと撫でながら
私「大丈夫だからね。大好きだから。私もお姉さんもお母さんのこと大好きだからね。何が起きたとしても、喧嘩したとしても、大好きだから。このことを覚えておいてね。ずっとそばにいるからね。ありがとう、お母さん。ありがとう。」
私は涙を流しながら、母の目を見つめて話しかけた。
母は、「うん。大丈夫。覚えているから。」と目を潤ませていた。
実家を出て、バスに乗っても、私の涙は止まらなかった。あの言葉を発していた時、私はとても素直な気持ちになっていた。言葉は自然と湧き出していた。何の意図も無く、私も母もありのままでその場にいられたのではないかと思う。
そう言えば、今日は魂の昇級テストの日だった・・・。これで合格したんだろうか?とチラっと思い出したが、そんなことどうでもいいやと思った。ありのままの母の魂に触れたような気がして、有難くて、胸がいっぱいだった。母の存在そのものがほんのり愛おしかった。
一時間かけて自宅に帰り、母に電話をした。
私「今日はありがとうございました。私は今まで素直になるということがなかなか出来なかった。お母さんのおかげで、素直になるということを学べた気がする。」
母「お母さんはね、結婚するまで家族で過ごした経験があまり無かったの。だから、家族と過ごすってどういうことか分からないままお父さんと一緒になったの。なんだかね、不思議な感覚よ。ハグすると、あったかくて、溶けてしまいそうになる。家族ってこんなあったかいものなんだなって感じているの。
いったいあれは(暴言事件)何だったんだろうと、今思っている。今、ものすごく落ち着いて安心しているの。
お母さんは、甘えていたの。言いたいこと言わせてもらえたのは、とても信頼しているから。大丈夫だって分かっていたから。家族だから出来る。皆に甘えさせてもらってとても感謝している。」
私は、母と関係した42年間、母そのものを見ていなかったことに気がついた。仮面の下に隠された素顔に向き合うことが怖くて避けてきた。母は、新しい家族の中で、幼い頃に叶わなかった体験を恐る恐る実現していただけだった。親子喧嘩も、甘えたり拗ねたり我儘言って、それでも家族に受け入れてもらえる安心感を満足いくまで感じてみたかったんだ。
仮面の下の母の素顔は、少女のようにはにかんで、愛らしかった。私は勝手に仮面の下は恐怖の大魔王だと怖れていた。これがYさんのメッセージ「今の存在そのものを見る」ということなんだ。私の恐怖が原因だった。母はずっと仮面を外そうと、「私を見て!」と42年もの間、合図を送ってくれていた。私が見ようとしていなかった。私は母との関係の中で、恐怖(思い込み)について、大切なことを学ばせてもらった。勇気を出して存在そのものを見るなら、恐怖は幻のように消えていく。全ての存在は同じ源(愛)から生じているということを思い出していく。これが魂のカリキュラムであり、リーラ(遊び)とも言う。
私「そう言えばね。私、仏間でしばらく手を合わせていたでしょ?お父さんに話しかけていたの。お母さんに伝えたいことがあれば私から伝言するよって。
お母さんをハグしながら、大丈夫だよ。大好きだよ。ずっと一緒にいるよ。ありがとう。って言ったよね。もちろん私の思いでもあるのだけれど。あの言葉はお父さんがお母さんに伝えたいメッセージでもあるんじゃないかって気が付いたの。だから、あのハグは、二人分のダブルハグだと思ってね。お父さんも一緒にハグしていたんだよ。お父さんは本当は、愛しているよって言いたかったんだろうけどね。」
母は、今後も落ち込んだり、泣いたり、疲れてイライラした時は暴言を吐くこともあるだろう。人間なのだから、当たり前のことだ。私だって夫に当たり散らして泣かしてしまうこともある。そして、母がどんな状況になろうと、私が過剰反応して怒り心頭になったとしても、それでも、私は母が大好きなんだと。それは決して変わらないということを今回確認することが出来た。感情の嵐に翻弄されたとしても、母の存在そのものへの感謝は変わらない。それを体感でしっかりと味わった。
Yさんとの宇宙会議で学んだこと。
「今の存在そのものを見る。ありのままでいい。」
このアドバイスが無ければ、私は母の前で素直に言葉を発せたかどうかわからない。あれこれ思考で悩んで、本質から離れた言葉で母と接しただろう。これでは仮面を外すことは叶わない。母はいつまでも恐怖の大魔王を演じるしかなかっただろう。私のために。
優しさって?受容って?愛するって何?
まだ、答えは見つかっていない。
だけど、今日、私は母との共同作業で、ほんの一歩だけれども、その答えに近づけたような気がしているのだ。その証拠に、胸のあたりがこんなにも、ポカポカと温かいのだから。
なんとなくだが、新たな世界への扉を開けられたような達成感を感じている。
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