トリニティへの道

 ☆航空機の事故に思うこと

1月2日に、羽田空港で航空機炎上事故が起きた。

そのことに関して、ある女優さんがSNSでペットについてご自身の考えを投稿したところ、大炎上してしまった。私も大好きな女優さんであり、Instagramのフォローをさせてもらっていた。彼女は、実際に保護犬&猫の活動もされており、日ごろから人間と動物の幸せな共生の在り方について、熱心に世の中に発信していた。だから、彼女の気持ちはわかるような気がする。そして、世の中の彼女へのバッシングがあまりに常軌を逸しているようにも感じた。彼女は誰かを責めようとして投稿したわけではなく、尊い命の大小に関係なく、すべてを慈しみ大切にしたいという想いからの発言であったと思う。感情的になり、彼女の発言を怒りのエネルギーで排除しようとする人々の中に何が起きていたのだろうか。

世の中で起きている出来事は、私の内面の現れでもある。私の中に潜んでいる闇の正体の一端を解き明かすことができないか?そんな視点で、今日ブログを書いてみたいと思う。あくまで、外側の出来事を通しての私宇宙の探求であるので、他の方には別の気づきが起こっているだろう。出来事の意味は多面体だ。

もしこの投稿を読まれた方が、「お前の考え方は違う!」と怒り心頭となったとしても、それは私ではなく、その方の宇宙で起こっているその方自身の戦いである。「ああ、そうなんですね。あなたはそう考えられたのですね。私は、こう考えます。いろんな考えがありますね。」と言うしかない。

宇宙はいろんな見え方を用意してくれていて、同じ世界はひとつと無いのだなあと、互いに感嘆し合い、刺激し合い、視点を増やしていくために考えを交換すればいい。つまり、航空機の事故という出来事を通して、100人いれば100通りの魂の学びをしているということだ。どの学びも貴重で尊い。優劣などない。

私は、今回の事故を通し、大きく分けて2つの課題を見出していた。一つ目は、「罪悪感について」。二つ目は「生と死の循環について」である。まだまだ、結論を出せるには至っていない。今の段階で、何を考えていたのかを残しておくメモだと捉えていただきたい。また、似たような課題を解き明かそうとされている方がいらっしゃれば、探求仲間として共に学び合えたらと願う。


【航空機の事故が起きていた時の心模様】

1月2日。夫と食事をしながら自宅でテレビを見ていた。たまたまニュース番組が画面に映っていた。「ただ今、羽田空港滑走路上で火災が起きている模様です」とアナウンサーが繰り返し、空港ライブカメラの映像が流された。最初は大きな事故が起きていると思っていなかった。漠然と、荷物を運ぶカートのようなものが衝突し、爆発でもしたのかと思っていた。

やがて、燃えているのは航空機らしいことが分かった。あまりに激しく燃えているので、私は心の中で、大勢の乗客があの中で犠牲になったのではないかと、震えあがった。一瞬、御巣鷹山の事故場面が想起された。

数分後、アナウンサーが声を発した。「乗客全員無事に脱出したようです!」と。それを聞いて、感情のジェットコースターに揺さぶられ、ただただ、涙が流れた。今冷静になって振り返っても、言葉がとても追いつかない数分間を味わっていた。「ああ、よかったよかった!」私は夫と喜び合った。

やがて、ふと気が付いてしまった。言葉にするもの恐ろしいので、心の中で祈った。「どうか、貨物室にペットがのせられていませんように。」と。そして、それを考えてしまうと、耐えられない思いとなりそうだったので、その考えを隅のほうへ追いやってしまったのだ。私はこの点で、とても精神的に弱かったし、事実を受け止める人間的器があまりに小さかったと思う。

翌日、夫からペットがのせられていたことを聴かされ、頭を掻きむしりたくなった。私の奥深くで、大きく反応していたのは「罪悪感」という感情ではなかっただろうか。あまりに身勝手な人間の性というものに、真正面から向き合う気力すらなく、そっとしておいて触れない。。。という選択をしたのだった。おそらく、自分の心を守りたい一心で。

その後、上述の女優さんの発言への大炎上が起こり、なんとも居心地の悪い気持ちで過ごしてきていた。これをひとくくりで「罪悪感」として説明するのは、あまりにも強引すぎるのはわかっているのだが、闇から何かを引っ張り出すのには、釣り糸に餌をつけなければならない。試しに釣り糸に「罪悪感」をつけてみて、私の中から何が引き出されるのか見てみよう。


【罪悪感から責め合う場面に】

全然関連が無いようなのだが、「罪悪感」という餌を釣り糸につけて、内宇宙の闇に垂らしてみたところ、過去のこんな場面が潜在意識の記憶から釣り上げられてきた。

1999年8月。夫の母親が闘病の末亡くなった。事は火葬が済み、親しい親戚が実家に集まって何気ない会話をしていた時に起こった。

話のきっかけは何だったのだろうか?もう何十年も前に亡くなった義母の姉のことで、親戚同士が言い合いを始めたのだった。兄が姉の一切を引き受けて最後まで世話をしていたらしい。当時の兄の判断などについて、今更なのだが弟が責める発言をしてきたのだった。

弟「おまえは、あの時ああいうことを選択しなければよかったんだ!」

兄「じゃあ言わせてもらうけど、あんたはあの時何もしなかったじゃないか!全部うちがやったんだぞ。」

と、何十年にも渡って封印してきたであろう恨みつらみ不満が一気に爆発。

せっかくの義母のしめやかな葬儀の直後だというのに、兄弟(配偶者まで参戦する)喧嘩が勃発。一番傷心で労わられるべき義父は、蚊帳の外に置き去りとされ、「もう、やめてくれよ。」とオロオロと仲裁に入っていた。口喧嘩はどんどんエスカレートしていった。

結婚二年目の若い私は、その修羅場に耐えられず、その場からさっさと逃げ出した。夫の実家のすぐ近くに住んでいたため、自宅に逃げ帰り、一人でわ~わ~泣いた。義母が亡くなってから、寝不足が続いていたこともある。神経がむき出しになっていて、擦り切れんばかりになっていた。亡くなったことも辛いのに、義母の兄弟が、もうどうにもならない過去のことを持ち出して、大喧嘩をしているのだから、「よりによってお義母さんの大切な日に・・あいつら、なんなんだよ!!!」という怒りが湧き上がって、情けなく、悲しかった。なぜ、こんな神聖な日に、わざわざ心の中の醜い部分をぶつけ合わなきゃならないのか。

いや、はたして、そうだろうか?

こんな日だからこそ、封印していた感情が浄化のために湧き上がってきたのではないだろうか?深い悲しみの感情が、何十年前の悲しみの感情とリンクして、閉じ込めた重いエネルギーを一斉に放出したのではないだろうか。

なんのために?最終的には自分との和解のために。自分の中の戦いを終わらせるために。罪悪感を手放すために。

私は、擦り切れそうな精神状態のまま、窓辺にもたれかかってアイスコーヒーを飲んでいた。少しでも落ち着きたかった。夏の空模様は、兄弟喧嘩の勃発に連動したように、いきなりの激しい雨となって、大地を派手に叩きつけていた。まるで天が大地を恨んで、怒りを発散しているかのように雷鳴が轟いた。

「おまえのせいだ!このやろう!このやろう!」

大地は甘んじて、暴力的な雨の矢を受け続けていた。

やがて、真っ黒だった空がパカッと割れて、ピカピカの青空がぐんぐん広がっていった。そして、洗い立ての瑞々しい青空に大きな虹が架かったのだ!

空と地をつないで美しい七色の橋が架かった瞬間、仲直りの握手を見るような思いとなった。大地は、甘んじて雨の矢を受けていた。言い訳も抵抗もせず、黙って矛盾を受け入れた。「正しい⇔誤り」「正義⇔悪」という二項対立による戦い(嵐)を見事に終結させたのだ。

大地の心の内を言葉にするならば、

「そうなんだね。悲しいのだね。おまえはそんなにも悲しかったのだね。おまえの心はそんなにも痛かったのだね。」という感じだろうか。無言の大地の受容により、天は本来の光を取り戻したのではないだろうか。

この自然現象は、外側の戦いと内面の戦いの連動をも分かりやすく表現していたと思える。私は、その空の変遷を心模様になぞらえて、呆然と見つめていた。自然の循環へと戻っていた義母の魂が贈ってくれた最後のギフトのようにも思われた。私は、空の虹に、太陽の光に、空気に、雨粒に、いたるところに満ちている義母を感じた。

いないけど、いる。ここにはないけど、どこにでもある。個であり同時に全体である。思考すると矛盾しているのだけど、私の感覚はそう受け取っていた。

空に虹が架かったのもあって、私の乱れた心の内もだいぶ静かになった。おそるおそる実家に戻ってみると、喧嘩はすっかり収まっていて、にぎやかに食事が始まるところだった。その場に居た全員の表情がスッキリとしていたのが印象的だった。表面的な殻を一枚ツルンと剥いで、剥きたてゆで卵みたいになった顔が並んでいた。喧嘩したことで、気持ちがスッキリして、もうどうでもよくなったみたいだ。

ふと、映画『男はつらいよ』寅さんシリーズを連想した。一家団欒で、どうでもいいことで喧嘩が勃発し、ご近所も巻き込んで大騒ぎになるのが毎回のパターンだ。

誰かのせいにして、怒りや悲しみの感情をぶつけてしまうこともある。こうやって人々は傷つき傷つけ合って、心の闇に潜む感情(罪悪感などの自己否定感)を何かに転嫁して、我が心を守りつつ過酷な世界を生き抜いてきた。刺激的なドラマを創造し、重いエネルギー感情をツールに気づきを得て、魂を成長させてきた。そういう時代だった。

~感情をぶつけている対象は、本当は外側の誰かではなくて、内奥の闇に隠された自分自身であるこということに気づきなさい。そろそろ、自分と和解し戦いを終わらせる時期が来ています。闇に光を届けることができるのは、あなた自身しかいないのです。外側の世界で起きていることは、すべて、あなたの内面世界の現れであると気が付くことで、嵐の渦から抜け出すことができます。観察することから始めなさい。繰り返すドラマのパターンを終わらせなさい。~

今思うと、そんなメッセージを宇宙から受け取ったような気がしたのだった。


【生と死は紙一重】

羽田空港航空機事故を通して、生と死が紙一重であることも痛感した。

乗客は18分で全員脱出した。機長が全座席をチェックして脱出後2分で機内にも火がまわったという。様々な奇跡が重なって、大惨事ながらも、間一髪で乗客の命は救われたのだ。一歩間違えれば犠牲者が増えていたかもしれない。

羽田空港は、たまに展望デッキへ遊びに行くお気に入りの場所であった。また、お墓参りで羽田ー千歳間の飛行機は頻繁に利用していた。事故を知って、心底震え上がったのは、「もしかしたら、あそこにいたのは私かもしれない。」とリアルに死を実感したからでもあった。否が応でも死に向き合わされる機会となったわけだ。

冷静に考えると、生と死は表裏一体の密接な関係にあり、生物は例外なく、生まれては死んでいく運命にある。生きているということは、すなわち、必ず肉体の死もセットでついてくるということだ。そんな身近な死について、なぜ私たちは忌み嫌い避けるようになったのだろうか。死は、どこか遠い世界で起こることであり、私には関係ないことだという錯覚の上で、日常が営まれているように思う。

この機会に、普段は無意識に避けてしまうテーマ、生と死の循環について、考えてみたいと思った。


【生と死の循環】

『新版 縄文聖地巡礼』坂本龍一 中沢新一 イーストプレス発行 

この本は、2004年頃の坂本氏と中沢氏の縄文遺跡を巡る旅の対談本だ。たまたま、先日本屋で見つけて、面白そうだったので購入しておいたもの。日々少しづつ読み進めていくうちに、生と死の循環について、ヒントが散りばめられていた。偶然に驚かされたが、人生には必要なことしか起こらないというのも真理だ。

以下に一部を抜粋して紹介する。分かりやすい説明だったので、ぜひ一読いただきたい。


「死やエロスのテーマというのは諏訪のほうに残っていて。御頭祭で鹿や兎をお供えするのは、アイヌの熊送りに近い。あの世に送ることで、もう一度もっと豊かにこの世に戻ってきていただく、死と再生の儀式ですね。そういう暴力性とかエロティシズムも、ロハスには必要でしょう。それを抜きにしてサスティナビリティはありえない。死とエロス、つまり腐敗と再生の要素が入ると、循環・浄化のシステムができる。それがないと廃棄物が過剰になっていく。(42頁より)

自然の物質というのは、地球から取り出すわけでリミットがある。ところが、それを交換するときには、リミットレスな数字というシステムでやっている。(中略)

実在のエネルギーには限りがあるのだから、この矛盾はどこかでぶつかるに決まっているんです。小惑星が近づいてくるような感じで、限界がくるのはわかっているんだから、ぶつかる前に回避したいわけですね。

無限に向かう数字が最初からあったわけじゃなく、最初は循環する世界についての数学があった。昔は数も20くらいまでしかなかった。20の次はまた1に戻って循環していたわけで、元に戻ることが重要なんですね。循環の概念が成立するには、ちがうもの同士のあいだに共通するものがあるという認識が発生しないといけないんだ。

宇宙は循環して元に戻っていくんですね。螺旋のように一巡して、宇宙は変わっていくんだけど、上から見ると同じところに戻っている。アメリカの先住民族ははっきりと言っていますね。「われわれの世界は円を描く」と。

実際にそういうふうに村のかたちもつくっている。縄文の遺跡も、村落の形状を見ると円環になっていて、中心には墓がある。かつては生と死を循環するものとして考える世界観があったのに、いまの人間はそれを忘れている。いまの人間は、死の問題を循環的に考えられないんですね。数学と同じで、死は無限で、どんどん向こうに行ってしまうと思っている。だけど、かつてはそういう無限性を有限の世界に円環的に織り込んでいくホモロジーの知性が生きていた。(44頁より)

循環的な世界を見直すというのは、前近代に戻って、電気もガスもないところで暮らすということじゃなくて、人間の心の基点を旧石器時代につくられて、そのままずっと形も変えないで利用され続けている無意識の構造に据えなおしてみようということです。そうじゃないと、世界は完全に行き詰ってしまう。

それには「死と再生」の「死」が必要。生産だけじゃダメで、破壊神シヴァが必要ですね。何を破壊するかというと、われわれのもっている認識の壁。(48頁より)

いまの世界は二元論、二進法思考でつくられている。コンピューターはもちろん二項対立で世界を認識し、情報化し、処理する。そこからはリアルな死は排除されてしまうんですね。

世界は有限で閉じたものだということがわかっていないから、「生か死か」「有か無か」という二項対立の思考に陥ってしまう。

有限で閉じた世界が、いかに大人びて豊かな世界であるか。「資源は有限である」「世界は循環する」という思考法にたいして、「その考え方は遅れた考え方だ」と批判する人がいるけど、そうじゃない。人間の心に最初に生まれて、おそらくは最後の知恵の源泉もそこに戻っていく。それがこの循環するホモロジー思考でしょう。(中略)

生きている人間の世界は、「ある」か「ない」かっていうバイナリ思考に陥りがち。でも「ある」でも「ない」でもない、もっと根源的な「生命力に満ちた死」があるわけで、それを組み込むと3の世界になっていく。世界はバイナリではなくトリニティの構造に変わっていく。(51頁より)

ありとあらゆるところに人間の思考を超えた死の要素が(縄文に)組み込んであって、生と死は一体になっているんだと。

狩猟民にとってはそれが当たり前だったわけですよね。毎日、他の生命を殺さないと自分が生きていけないわけだから。それはじつは現在でも全く同じなんだけど、それを隠そう隠そうというように社会が整備されてきた。

自分が生きるためには必ず他者を殺さないといけない。生きることと死ぬことは同じ。だから動物と自分たちを同一視するわけですね。(中略)

生きることは、殺すことになる。生と死は分離できないし、矛盾したことをそのまま考えないといけない。矛盾したものを自分の中に引き受けて思考する哲学が必要になってくるんですね。哲学っていうのは、敵と味方に分けない。(56頁より)」

以上『新版 縄文聖地巡礼』より一部抜粋しました。


☆父に会う

1月11日。母と面会に出かけた。入院は22日目となった。

入院当初は、旅立ちは時間の問題という容態であったのだが、点滴やその他ありとあらゆる病院の手当が功を奏したのだろう。まだ食事はできないし、酸素吸入は相変わらずなのだが、父は生きていて、ひたすらイビキをかいて眠っている。その表情は気持ちよく昼寝をしている時の父そのままである。

15分の制限時間の中、眠る父の耳元で、いろいろお話をした。父は、一瞬だけ薄目を開けてくれたが、反応はほとんど無かった。母も慣れてきたのか、あまり一喜一憂しなくなった。「今日は目を開けてくれないわね。眠いのね。お風呂入ったから疲れちゃったのかしらね。」と少し残念そうに、父の頭をなでた。

母は、病院への交通手段をタクシーからバスに変えた。やはりタクシー代が高額なので、頻繁に面会に来るために、節約しようと考えてのことだった。ところが、元々足の悪い母は、帰りのバスの中で転んでしまい、右足を捩じってしまった。「気をつけていたはずなのに・・・情けない・・・」母は、さらに不自由になった足を引きずり何とか帰宅したそうだ。

いつもは、自己否定感をつのらせて、落ち込んでしまう母なのであるが、今回は驚くほど立ち直りが早かった。今回の転倒で、いろいろ気づきが起きたそうだ。今まで悔やんでいたことが、実は最善だったとようやく腑に落とすことにつながり、晴れ晴れとした気持ちになったようだ。自己犠牲に走りがちな性格でもあったが、今回のことで、自分のことを大切にするように心がけるようにもなった。おそらくいろんなことのつながりを俯瞰するようになったのだろう。

誰かが、母に考え方を教えたわけではない。様々な出来事(ネガティブと言われるようなことも含め)を通し、母は自分で内面変化を起こしていた。

二項対立の思考から脱し、第三の道(トリニティ)を歩みだした母は、自分の中の矛盾を柔らかく抱きしめることが叶ったのではないかと思う。

どんな出来事が起きたとしても、私たちは最善に導かれている。

そこから何に気づいて、どう生きて、どう死んでいくのか。ということが大切なんだろう。


坂本龍一さんは、亡くなる数か月前に「人はどうやって死ぬべきだろうか?」という質問を中沢さんに送ってきたそうだ。

「彼はきっと自分の信じるやり方で、最期の閾(しきい)を渡っていったのだと思います。」という中沢さんの文章が、今もさざ波のように、私の胸の中で静かに揺れているのだった。

トリニティの意識で生と死をとらえると、死に向かう生だけではなく、死から始まる生も見えてくる。同時に、死のありかた(未来)からの風を受けて、今を生きることも可能となる。個や分離という枠を超えて、大きな循環の中で今輝いている命そのものと向き合うことが出来るような気がする。


☆夢から受け取ったメッセージ

明け方、半覚醒状態でうとうとしていた時に

頭の中に二つのワードが明瞭に響いた。

関連性はよくわからない。


「スワミ」

「ターコイズブルーの祈り」


よくわからないので、グーグルで「スワミ」を検索

Swami ; ヒンドゥー教の意味では世俗を離れて修行する僧侶に対する敬称

サンスクリット語の語源は、「自分自身と一体である人」「自分自身を知り自分自身の主人である人」


また、ターコイズブルーの色の意味を調べてみた

「乾いた大地を潤す水を象徴。心に潤いと安定感をもたらす。とても穏やかな波動でイライラや感情の波を静め、不安や焦燥感を洗い流してくれる。この石を身に着けると自然や精霊、宇宙とつながることができると信じられてきた。」


ふむふむ・・・

なんだか、宇宙的なメッセージだ。

漠然としてはいるが、こころがけようと思う。

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