反薄明光線あらわる

 


7月29日
夕方の東の空に
不思議な光の筋があらわれた。
夕日は西側にあり、まさにこの瞬間に
沈もうとしている。
東側に光源が無いのに
なぜ、光が放射状に伸びているのか。
これは、奇跡?夢?幻?


写真∶光の筋を拡大


ネット調べてみた。

「反薄明光線」と呼ばれる気象現象らしい。
とても珍しいもので、西側を見ると
やはり、光の筋が伸びていて
西と東から伸びた光の束は、天頂で
繋がっていたらしい。
しまった…西は見逃した。

分かりやすく言うと
右手と左手の五本の指先をそれぞれ合わせるように、眼の前にかかげて、くっつけてみてほしい。
手首が西と東
指が光の筋
指先が合わさっているところが天頂
こんなイメージ。

夏から秋にかけて、現れる現象らしいので
もし、西側の夕焼け空から光の束が放射されていたら
すかさず、東側の空をチェックしてみていただきたい。
ひっそりと、奇跡的美しさの
天体ショーが繰り広げられている可能性大だ。


写真∶右上にある白いポチッは、お月様



昨日の夕方は、殊の外空の色彩が美しく
絵の具にある色では、とても表せないと感じた。

色は波長であり、その波長エネルギーを受け取って、脳内スクリーンに色として映し出すわけだから
色彩が繊細であればあるほど
脳は、細かな波長の違い
青なら青の、何百通りものグラデーションを
しっかりと感知して
脳内スクリーンに投射してくれているということだ。

同じ空を眺めても
何も感動を覚えない人もいれば
微妙な色彩の変化をうっとり味わう人もいる。

古文などを読むと、日本人の色彩表現の豊かさは
世界一ではないか?と思わされる。
やはり、四季があり、自然豊かで、水に恵まれている国だからこそ
色彩がより多彩になるのかもしれない。
遺伝により、繊細な違いをキャッチする能力が受け継がれてきたのだろう。

テレビやゲームなど、わざわざ人工的色彩で脳を刺激しなくても、自然は人間技をはるかに超える表現で、私達のハートを感動で震わせてくれる。

昨夜は、四年ぶりの隅田川花火大会開催ということで
大勢の方々が、薄紅色の空を見上げていたはず。

そう言えば、空の色ってきれいなんだなあ。
久々に空を見上げたなあ。
ゆっくり空を眺める時間て、何だか豊かだなあ。
自分は、美しい国に住んでいたのだなあ。

などなど
気づきを得た方も多かったのではないだろうか。

自称「雲ウォッチャー」の私ではあるが、それでもついつい、忙しさに紛れて、空からの贈り物を受け取り損ねてしまうことも多いかも。

ああ、先日は、空に気を取られすぎて捻挫したし。(笑)

せっかく、この美しい星にて、光の波長を色に変換し、肉体ならではの感覚を楽しんでいるわけだから
存分に味わってから還りたい。


先日の宇宙友とのランチ会での話題。

宇宙存在によっては
火星が、とても自然豊かで美しく見える。

地球人が、肉体脳を使って火星を眺めると、荒れ果てた星にしか見えないが、それは狭い範囲の特定の波長しか感知していないから。

波長とは、エネルギー振動のこと。
私達は、振動を脳でキャッチして、赤だ、青だ、黄色だ、◯◯だ。と集合意識の観念に沿って判断しているだけであり、住む星や次元が変われば、感知するものもまったく別物に変化する。

この世界を構成するあらゆるものは、真実の目で見直せば、粒粒でしかない。そして、肉体だと感じて触れているこの私の身体すら、スカスカの空間なのだという。

大いなる勘違いをベースに、粒粒の表現に熱中し、自身の正体を忘れてしまっているのが本当のところ。

そんな話をして盛り上がった。


話は変わるが
1月の手術直後、身体が回復モードになり、脳波が神様周波数になっていた時(7.8ヘルツ)
眼の前に無数の光の粒粒が見えていた。
たまたま、焦点をちょっとずらしたら見えた。
何も無いと思っていた空間に
ぎっしりと、光の粒粒がうごめいていたことに
驚愕した。
また、上空いっぱいに、神聖幾何学模様が広がっていた。
肉体脳ではなく
松果体を使うと、宇宙エネルギーを変換し、自分なりの色彩や形として、脳内スクリーンに投影できるようでもある。

変性意識(リラックスしている、スローな脳波)になることで、五感の制限を超えた振動を情報としてキャッチしやすくなるので
瞑想する時間は、これからの時代、食事タイムと同じくらい大切にされていくかもしれない。

良かったら
今日から、空を眺める時間を増やしてみては、いかがだろうか。
きっと、美しい贈り物が、あなたに届けられるだろうから。

地球を存分に楽しんでほしい。


☆ダライラマだって悩むんだ

ダライラマと謁見された方が、その様子を記録した本を読んだ。
ダライラマは、集まった方々からの質問に答えて、ユーモアたっぷりに答えた。
「私だって、悩むんです。」と。

覚醒者であり、精神的指導者、平和の使者として世界中に多大な影響を与え、チベット人の父親という役割を担うダライラマですら、悩む。

しかし、その姿からは、悲壮感は一切ただよってこない。覚醒者であるダライラマは、感情も現実も幻であり、現れては消えていくものだと理解している。ダライラマとはいえ、肉体に宿っているので、人間としての悩みと縁を切ることはない。一般人との違いは、悩みを楽しんでいる!ということ。ダライラマは、どんな時もユーモアを忘れず、とても軽やかだ。

覚醒したって、お腹は空く
覚醒したって、悩むんだ
人間やってるんだもの。

だったら、悩みをどう捉えるか
そこにこそ、私達に与えられた自由がある。

ダライラマは、ダライラマという配役を心から楽しんでいる。魂の体験として捉えているからだ。困難な配役だからこそ、やりがいもあり、喜びもある。人間ならではのユーモアという底力を発揮して、軽やかに時代の転換期を観察している。

人は、何のために生きるのか。
魂の視点から感じてみる。

どうやら、幸せになるためではなさそうだ。
幸せなど、相対的なものであり、TPOによりいくらでも変化する。
人間が求めて止まない幸せは
どこまでも探し回ったところで、得ることはない。
脳がそういう仕組みになっているから。

幸せになるために生きているわけではない。
ならば、何のために?

気づくため。

永遠のひとつとして
あらゆるものを観察し
そして、気づいている
この意識に。




コメント

このブログの人気の投稿

ヘミシンク体験~炎のビジョン

ジオバランサー(波動調整装置)体験記①

誕生日宇宙会議