バガヴァッド・ギーター~はじめの一歩編

 




『バガヴァッド・ギーター』は、サンスクリットで書かれた、ヒンドゥー経の二大聖典のうちのひとつである。

「神の歌(詩)」と訳されている。

私が興味を持ったのは、日本エドガーケイシーセンターの光田秀氏が、このギーターの講座を開催しているということをSNSで知ったからであった。

現在、少しずつケイシーの『転生の秘密』(ジナ・サーミナラ著)を前世療法の参考書として、読み進めている。また、ケイシーの食事療法を日常に少しだけ取り入れたりもしている。

そんな訳で、光田氏に直接お会いしたことは無いのだが、私の毎日に間接的に彩りを添えてくれており、視野が広がるような影響をいただいている。そんなこともあって、光田氏が講座に取り上げるくらいなのだから、よっぽど生き方に役立つ聖典なのだろうと興味が湧いたのだった。

読んでみようと決意したところ、すぐに岩波文庫が手元にやってきた!魂の兄が、私の誕生日に早速送ってくれたのだ。この現実化の早さは、尋常ではない。きっと私の魂の学びに必要な書籍であるに違いない。目に見えない世界からの応援をひしひしと感じる。

このギーターは、自力で読み進めるのは非常に困難なので、まずは簡単な解説書を読んで、馴染んでから、自分に合うような講師について、少しづつ学んだ方がいいようだ。

確かに、文庫本の最初の4ページで挫折しそうになった。耳慣れないカタカナの名前が次々出て来て、訳が分からなくなった。そこで、本屋で一番簡単そうで薄い解説書を買ってきて、概要をさらっと頭に入れた。そうしてから文庫本(原典の忠実な翻訳)に戻ったところ、今度はスイスイと頭に入ってきて、嬉しくて涙が出そうになった。解説書万歳!

クリシュナの言葉は短くとも、奥深い意味が秘められている。人によって解釈が異なってくるところもあるだろう。短い台詞ゆえ、短絡的に解釈されがちなところは、やはり専門知識豊富な講師について、一章ごとに慎重に読み進む方が良かろうと思う。それほど、この本は深淵な叡智に満ちている。一生、この本と付き合っていっても飽きないくらい、学びがいがある内容だ。

ガンジーは、毎日読んで行動の基準としていて、『スピリチュアルディクショナリー』と呼んでいたそうだ。

とても一回の投稿では扱い切れない内容なので、今回は、「へえ、どんなこと書いてあるの?」という読者対象に、おおまかに触れてみたいと思う。

また、今後は不定期になるが、折に触れて、私のカラーで取り上げていきたい。例えば、催眠スクリプトに取り入れてみたら、どうなるか実験してみたい。

本日は、はじめの一歩編ということで、以下は、分かりやすい解説をしていたYouTube番組を参考に、簡単な言葉に替えたりして、要約させてもらった。(末尾に番組紹介)

ふ~ん、こんな感じのことが書いてある本なんだ。と、さらっと好奇心を満たしていただければと思う。いずれ、本書に興味を持った方と読書会などを開催し、こちらのブログで感想などをシェアしていきたいと願っている。

では、早速、はじめの一歩へ足を踏み出してみよう。


☆「どんなことが学べるのか」

どう生きる?どうあるべき?どうすれば幸せに、自由に生きられる?

という問いに応えてくれる。


☆「どんな物語なのか」

一国の王様アルジュナが主人公。天下分け目の大決戦で、敵と対面。子どもの頃お世話になった親戚が敵だった。お世話になった方々と闘うなんて…と怖くなる。「こんな戦いは嫌!殺される方がまし!もう闘わない!」と心乱れ座り込んでしまう。

軍司クリシュナが神に変身し、ヨーガの智慧を授けてくれる。

どのように生きたら苦しみなく自由に幸せに生きられるのか。そのためには、とらわれから解放されることが大切。様々なとらわれが苦しみの原因。苦しみからの解放、解脱、苦しみのない世界へ到達する智慧をアルジュナに授ける。

アルジュナは、迷いが無くなり、自分を取りもどし、立ち上がるのだった。


☆「とらわれ とは何か」

三つある。

自分に対するもの。

うつろいゆくものに対するもの。

結果に対するもの。


☆「自分に対する とらわれ とは何か」

自分の損得や、好き嫌い、自分視点に

とらわれてはならないということ。

クリシュナは、言う。

「個人的好き嫌いで物を言ってはならない。おまえは王様。闘いを放棄して逃げてしまったとする。闘いがこの局面まで来てしまっている以上闘わなければならない。個人的思いではなく王としての立場を理解し、役割を果たせ。個人の感情・損得ではなく、置かれた局面において自分が果たすべき役割とは何か。それを果たせ。自分視点ではなく、皆のために。」

例えば、神様視点になってみる。すべての存在にとってどうすべきか?神様が自分に入ってきたとして想像し自分を超えて行く。より大きなもののためにという正義感を持った時に、ちっぽけな個人を超えられる。

ダルマ(使命感、正義感、天命)を果たすように生きる。そうすれば大きな力を発揮できる

誰かのため、家族のため、子どものためなら、恐怖に打ち勝てる。大きな使命感、より大きな愛の力で、「皆のためによいことをしたい。」と願うなら、ゆるぎない強さが出てくる。

恐怖と並んで自分たちの行動を支配しているものは、欲。

あれが食べたいとか、スマホ依存、お金など。いろんな欲を引きずる。欲の吸引力はすごくて対処できない。欲は記憶により左右される。過去の美味しい思いを記憶している。人を押しのけて奪ってしまう。過去の記憶が自分を動かしてしまう。どうしたら立ち向かえるか?

大きな愛・使命感・正義感・大きな願い、でしか自分の欲を超えられない。

やりたいことに燃えている時は、小さな欲など流すことができる。皆に喜んでもらいたいと思えば、酒の飲み過ぎや、夜更かしを我慢できる。より大きな目的があれば対処できる。

理趣経の中に「大欲は清浄なり」という言葉がある。大きい欲で小さい欲を制していく。大きな欲=世のため人のため自分を捧げたい使命感。ゆるぎない力が湧いてくる。

自分を超えてみんなの幸せのために捧げるように生きて行く。

理想はそうなのだけど、日々欲に溺れ、恐怖に飲み込まれ生きている。出来るだけ皆の幸せに貢献したい。愛を持って生きていけたらいいなと思っているのだが…


☆「うつろいゆくものに対する とらわれ とは 何か」

変化するものにとらわれるほど

苦しみが生まれる。

季節、時代、世の中、社会、人の生死など。

死を怖れすぎてはならない。

生まれたら死ぬのは当たり前。死なない方が恐ろしい。自然界の破滅をもたらす。死は自然界の美しい法則。

すべてのものごとは移り変わる。植物も、物も、いつか壊れる。

人間関係でも、出会いと別れがある。

執着することで苦しむ。

諸行無常、万物流転という言葉もあるように、物事は変わっていくのが当然で自然。

ずっと続いていくべきで、永遠にあるものだと思い込むことで、苦しみが生まれる。

変化をいかに受け入れて行くか。

在るがままの自然、変化に委ねよ。諦めよ。変化に抵抗することなく降参せよ。

形あるものは常に移り変わる(=プラクリティ)。今見えているのは仮の姿。永遠ではない。今たまたまその形。服も体も部屋も心もプラクリティ。心もどんどん変わる。

永遠に変わらないものは、形が無いもの。

変わっていくものを当てにする。期待すると苦しみが生まれる。信じたい気持ちはあっても、当てにならない。

変化しない永遠なるものに意識を向けることで、苦しみは無くなる。

形無き、永遠なるものとは何か。

自分たちの中に移り変わるものと、永遠なるものが存在する。

それが魂。愛。

自分自身の中、心の奥深くに、ゆるぎない優しい気持ちが存在する。色んな心で覆い隠され見えなくなってしまうこともあるけれど、それは永遠普遍。

菩薩心、仏性。アートマン。神の御心、本来の自己、プルシャと表現される見守る意識。

心がどんなにブレても、変わっても、揺るがず穏やかに、平静な心で客観視し、見守り続けるそういう意識が存在する。

永遠に変わらないもの。普遍的存在。過去も未来も含めた全体。あらゆるものが繋がった大いなる世界=大宇宙、大自然、(部分部分は生まれ変わるが全体としては変わらない)

個人とか、ある特定のものに執着すると苦しむ。

全体のため、宇宙のために生きる。大自然、将来的すべての命のために生きる。そこに人生を捧げるようにすると人生の目的を見失うことはない。

老いも非常に美しい自然の成り立ち

物が壊れても、自然に逆らうことはできない。

心もころころ変わってもどうにもならない。落ち込むのも自然。

諦めるしかない。


☆「え?諦めるだけ?せめて何かコツはありませんか?」

ちょっとしたコツがある。

物事の移り変わりを司っている三つの力(グナ)がある。それを意識するとバランスがとりやすくなり、変化に乗っていきやすくなる。

    ラジャス(劇質、動質)

破壊的、攻撃的、情熱的、活動的

刺激的スパイス、カフェイン、アルコール

    タマス(鈍質、惰質)

不活発、沈滞、無感応、無気力、なまけ

ジャンクフード、古い食べ物、栄養が抜け落ちている

    サットヴァ(純質、純粋性)

一番便利。サットヴァ中心に。調整しやすい。

変化に飲み込まれにくくなる。

軽やか、自由、調和、バランス、平和、おだやか、ほどほど、中庸の教え

新鮮、自然の恵み、野菜、豆、自分にとって心の栄養になるものを

住む所、着物、人間関係、運動、食べ物も

 

いつもサットヴァでなければならないわけでもない。長期的に調和を増やしていく。

諦め、委ね、楽しむと、苦しみから解放される。

 

☆「結果に対する とらわれ とは何か」

世の中では「結果が全てだ!結果にコミットしろ!」と言われる。

クリシュナは「結果を怖れるな!」とアルジュナに言った。

「勝つか負けるかは、どうだっていい。おまえがやるべきことは全力を尽くし、今やるべきことをやるだけだ。勝ち負けにこだわるな!」

勝つか負けるかは、アルジュナにとってはどうすることもできない。できることはベストを尽くし闘うことだけ。結果は天に委ねる。神が決めること。

「人事を尽くして天命を待つ」「果報は寝て待て」結果を心配しても何もならない。やることやって後は寝てろ。委ねろ。

心を込めて自分の出来る限りの行動をするのみ。その結果はどうしようもない。

出来ることは、今の未熟な自分であっても、出来る限り、思いつく限り、集中し、誠意を尽くし、心を込めてやることだけ。それで喜んでもらえなかったとしても、それ以上出来る事は無い。それでいい。その反省を活かし、次に、いい行動が出来るようにする。ベストを尽くす以上のことはない。

嘆くべきことは、結果が出ないことではなく、自分が本気を出せないこと。

「どんな結果も平等の境地で受け入れろ」

成功も失敗も等しいものと見て祝福して受け入れる事。

発明王エジソンは、「失敗するたびに、またひとつ、上手くいかないやり方を発見した」と語った。

悩み、恐れが亡くなり、一歩踏み出せるようになる。

結果に執着しないからと言って、無気力になるとか、そういうことではない。今やるべきことはやる。

種まきと収穫。

将来どんな収穫物が取れるかは、あまり気にしない。そこは天に(天気)に委ねる。種、土次第。

自分の力の及ばない範囲で、結果というのは決まる。今集中すべきことは、今自分がどういう種を蒔けるのだろう。ということ。収穫ばかり気にして、全然種を蒔かない人がいたら、何も収穫できない。

くよくよ悩む人がいて、全然実らなかったとする。悩んでいて、種まきしなければ何も実らない。心配しているだけで、何もしなかったら、ただストレスがたまるだけ。エネルギー無駄遣い。何も得るものがない。

一番収穫出来る人は、今この時点で、どんな手立てをすることが出来るか。今どんな種を蒔けるか。どんなお世話ができるか。今出来るベストを考えることが出来る人。

結果は未来のこと。

種まきは、今、自分が決められること。一番人生をパワフルに生きられる。

対人関係も同じ。直接人を変えることはできない。親、子ども、兄弟、職場・・・

変わるかどうか、本人次第。今、自分に出来る働きかけをすることは出来る。今、蒔ける種まき。例えば、本を渡すとか、声掛けとか、優しくすることなど。ちょっとの働きかけしか自分に出来ることはない。

無力で実らないこともある。それはそれ。平等の境地。また次に活かしていく。

成功は嬉しい。失敗はがっくりくる。でもそこに、幸せも不幸もない。嬉しいのは一瞬だ。ずっと成功している映画も面白くない。人生山あり谷あり。つまずいたり、苦労したり、試行錯誤が楽しい。長い目で見ると、幸せは、ベストを尽くしている試行錯誤の中にある。

ヨガの教えに「幸せは、過程の中にある」とある。

道中、一歩一歩進んでいるその中にあるということ。辿り着いたら、幸せがあるわけではない。向かっている最中にある。自分なりに頑張って、あれこれしている最中に幸せを感じている。人生にゴールは無い。ずっと旅の途中。その一歩一歩をいかに楽しむか。成功や失敗への執着を棄てて、今出来ることをやる。そう考えると、人生に苦しみというものが無くなってくる。

生きると、いろんな悩みがある。例えばお金。心配してもお金が降ってくるわけではない。今できる種まきは何か?ベストを尽くし一歩一歩楽しむことは出来る。

健康についても、命ある限り生きるのみ。ベストを尽くして、例え回復しなくても、委ねるしかない。

恐れから解放されると、自分の力を活かして、自由に生きることができる。自分のやれることに集中し、パワフルに生きること。自分から運命を切り開いていくことが出来る。

今出来ることをやろう。種まき人生を楽しもう。


☆「どのように実践していけばよいのか」

このような生き方の智慧をどのようにヨガに発展していけばよいのか。

クリシュナは、「このような知識を知っているだけでは役に立たない!」と言った。

実践できなければ意味が無い。

「とらわれから解放されるために四つのヨガに励みなさい。」と。

 

    知識のヨーガ

まずは幸せになるための智慧を学びなさい。

どうしたら自分の心と上手に付き合えるのか。

     瞑想のヨーガ

心を一点に集中する訓練。フォーカスを切り替える練習。心を客観視する訓練。

脳が鍛えられ心が制御しやすくなる。

それを実生活に活かすには。

     行為のヨーガ(カルマ)

奉仕のヨーガ。日常の暮らしの中にヨガの教えを活かしていくこと。

仕事していても、家族といる時も、何をするにもヨガの境地でいる。

エゴやとらわれ、結果への執着から解放され、皆のために、自分自身を役立てて行く。周りの幸せのために貢献していく。これがカルマヨガ。

奉仕の活動。今自分に出来ることを周りに役立てて行くこと。才能は人それぞれ違う。人それぞれに役割がある。神や親からいただいた、持って生まれた個性を活かし、自分が楽しみつつ、周りの人が喜んでくれることをやる。

最初は難しいだろうが、出来る事から始めるうちにだんだん個性が磨かれ、喜んでもらえるようになる。

小さな一歩一歩を実現していく。

     信愛、祈りのヨーガ(バクティ)

最終ゴール。

バクティ=捧げること

誰に捧げ誰を愛し誰に対し祈るのか?

クリシュナ「俺に捧げよ、俺を愛せよ、俺を信じろ、俺に祈れ!俺が絶対神だ。他の神ではダメだ。全ての者の中に私クリシュナを見出せ。山にも、全ての人にも、自分自身の中にも宿っている、そのクリシュナに捧げよ。全てに捧げよ。」

八百万の神にも通じる。

全ての中に神が宿る。皆のためにという意識が大事。

仏教では、一切衆生、利他の心 と言う。

「ローカ サマスタ スキノ ババントゥ」

(全ての生きとし生けるものが幸せでありますように)

常日頃から皆の幸せを祈る祈りの時間を持つ。意識を持つ。

食事の時「いただきます」

買い物の時「作ってくれた人ありがとう」

感謝し、応援し、幸せを願う。何をするにしても繋がりを感じ、広い意識を持つ。

誰かの幸せを願う時、至福を感じるレベルが一番高い。

これが、至福の境地への近道となる。


☆「『バガヴァッド・ギーター』で一番教えたかったことは何か」

 「梵我一如」の一言。

梵=ブラフマン=宇宙全体=大自然=神

我=アートマン=私自身

一体であると覚ること。

地球が無ければ、私も存在できない。

自然が健やかでなければ、私も生きられない。

皆が関わり合い、繋がっている存在。

大きな地球という生命体の一部である。そういう意識へと深めていく。

繋がり合う皆のために、自分を活かす。

捧げる。

帰依する。(委ねる。身をまかせる。明け渡す。)

 

*以上は、ヨガ講師ぬん YouTube「ヨガ 瞑想 暮らし」の

『バガヴァッド・ギーター講座1~4』を視聴させていただき、参考・要約しました。

とても穏やかでお優しい声での講義は、たいへん分かりやすく、勉強になりました。素晴らしい番組を作ってくださいまして、ありがとうございました。

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