夏至御見舞申し上げたく候

 夏至を無事通過したとはいえ、いきなり覚醒するものでもない。知識として宇宙の仕組みを知っているのと、体感を通して腑に落ちるのでは、大きな隔たりがある。

なので、コツコツ練習することにする。自転車に乗る練習みたいに。あれも、遊びながら何度も転倒し、ある日突然乗れるようになった。いったいどのような仕組みなんだろう。脳のシナプスが新たにつながるのだろうか。

誰がが言っていた。

「必死になるとは、必ず死ぬ。ということです。」

今なら、何となく理解できる。必死になる時は、顕在意識優位となり、湧き上がる不安や恐れから逃れたい!と、闇雲に行動し、流れがチグハグになってしまう。顕在意識の領域はたった10%なので、本来の自分が持っている能力をほとんど発揮できない。90%を占める潜在意識の力を借りると、周りと調和して、スムーズに事が運ぶことになる。

「自我」が無い感覚。時空が消え、夢中になって楽しんでいる時、私たちは本来の力を発揮して、大きなことを成し遂げたりしてしまう。

不安にかられ、パニックに陥り、自身を叱責しながら結果を意図しつつ力を振り絞るのと、落ち着いて、ゆったりして、周りの空気に溶け込んだような感覚となり、経過を楽しみつつ自身をありのままに表現するのと。今までの私の乏しい経験からも、どちらが上手いこといったかは言うまでもない。「必ず死ぬ」とは、そういう意味だろう。

仮初めの自分(自我)だけの力で何とかしようとすると、不協和音になる。本質は、美しく調和した永遠のエネルギーである。環の流れの中、留まることなく変化し続けている。淀みではなく清流であるから、常若とも言える。神の本質と同じではないかと感じている。

☆手に入れたら手放す

どんなジャンルの学びにも言えるかもしれない。手に入れたら(身に着けたら)、執着なく手放すと、学びが深まっていくということに気づいた。

なんのことを言ってるの?となりそうなので、私のささやかな気付きを書いておく。

二年近くかけて、催眠療法について学んできた。セミナーやトレーニングの場で話し合われた質問&回答は、ほぼ記録し、自分なりのデータベースを構築していた。それを度々読み返してセッションの参考にしてきた。このように、経験が増えると知識や技術も増えていく。

そして、このやり方は、どこかで行き詰まる。増やしてきた知識や技術に執着するほど、対応に苦慮するセッションが増えてくる。誰かにとってベストであっても、別の誰かには、役に立たない。また、細分化され、枝葉が増える。ストック、ストック、ストック…

ある日、シンプル イズ ベスト という気付きに至る。削ぎ落としたところに本質の光を見る体験がもたらされる。

今までの学びが無駄だと言いたい訳では無い。初めから知識がない人と、一通り学んでから手放した人と、やっている事は同じでも、深みが違う。

催眠療法は、セラピストがクライアントに言葉で誘導していく手法である。声がけ一つ、どのタイミングで、どんな質問をするかで、クライアントの課題へのアプローチが変化する。私は躍起になって、どのパターンには、どんな声がけが適しているか、データをストックしていた。そのストックのおかげで、クライアントから感謝される結果になることもある。反対に言葉の枝葉に邪魔され、クライアントに不満を抱かせることもある。つまり、100人いれば100通りのセッションがあり、頭で考えたところで、何がベストなのかはセラピストには分からないのである。

セラピストは、何も分からない。

答えはクライアントの中にある。

相手を信頼してお互いに潜在意識の中に入っていく。誘導は、シンプルに。私たちが自転車に乗る時のあの感覚のように、「我」が消えて、誘導の声は淡々と口から流れ出てくる。

つまり、枝葉で飾り立て、望ましい結果を引き寄せようと執着すると、本質にはたどり着けないのだ。執着は自我の領域だ。

それに気がついて初めて、一旦自分をリセットする。一通り経験してきた上での「無い」と、初体験の「無い」とでは、潜在能力に対する心持ちがまったく異なる。

欠乏感からもたらされていた「無い」と、満たされた中で再発見した「無い」…と表現できるだろうか。自身への信頼度合いが反転するほど違う。

どうやら、満たされた「無」の状態の脳波はシータ波優位になっているらしい。催眠状態とはアルファ波かシータ波が出ているリラックス状態。夢中になり好きなことをしていると疲れないどころか、かえって元気になる要因も脳波にあるようだ。ちなみにシータ波で相手に接すると、その場に同席する大多数にも大きな気付きや癒しが起こりやすいとか。これは意図して相手を癒そうとか、変えようと頑張っても起こすことは無理なのである。

☆自我にもありがとう

肉体がある限り、どんなに覚醒した聖者であろうと自我はある。現実に対応して生きていくには、自我は大切な相棒だ。自分の内面で、引っ切り無しにうごめいている自我を観察することで、翻弄されることは少なくなるのではないかと思う。

昨日は一日仕事だった。不特定多数の人と窓口で接する当番に当たっていた。

バイトに行けるのはありがたいし、好きな職種についていてラッキーだと思うのだが、不特定多数に接するとなると、不安や怖れの感情が湧き上がる。「誰かに傷つけられちゃうかも。行かない方がいいよ、、。」と自我がオドオド主張してくる。その不安がっている自我を副人格として可愛らしい少女のイメージに当てはめ、対話をする。

その少女は、以前ほど強烈に主張してくるわけではないが、「行きたくないな~…」と浮かない顔をしている。どうしてそんなに不安に思うのか聞き出してみる。過去に、言いがかりをつけられたり、ネガティブ感情をまるで私がゴミ箱であるかのように投げつけられたり、私が居るというだけで傷つけられたのだと、悲しんでいる。

そんな体験は1年に一回あるか無いか程度だったはずたが、少女は「二度とこんな思いをしたくない!」と自分を一生懸命守ろうと働きかけてくる。

自我は、覚醒や悟りの修行では邪魔者扱いされがちだが、現実&肉体担当としては、必要な意識だ。

少女のイメージで捉えた影響もあるだろうが、私はこの自我の働きを、愛おしく健気に感じる。すべては、私(ハイアーセルフも含め、私という固有のエネルギー)を守り生かすために反応してくれているのだ。守りたいがゆえ、強固な思い込みで走ってしまいがちではあるが、自我の働きも、深い愛なのだなあと、ありがたくて涙が出そうになった。

私は胸に手を当てて、何度も撫でさすりながら、少女に声をかけた。

「いつもこうやって教えてくれて、ありがとう。私を守ろうとしてくれて、ありがとう。もう大丈夫なんだよ。怖いことは起きないよ。起きることはすべて、私の内面の現れだから。怒る人が現れたら、私の内面にそのエネルギーが残っていると知らせてくれたんだよ。いつも最前線で頑張ってくれて、たくさん気づかせてくれて、本当にありがとう。」

このように自我に感謝してみたところで、持って生まれた性格はなかなか変わらない。ちょっとした失敗にドギマギしたり、オロオロしたり、テンパったり、言い訳して保身したくなったり、私は相変わらずである。

しかし、自我に感謝し、丁寧に声を聴いていると、だんだん落ち着いてくる。いつも通り感情に翻弄されてブレるのだが、真ん中に戻るのも速やかになってきた気がする。

この練習を続けていると、以前みたいに嫌な感情を長く引きずることも減ってきた。一日を穏やかに静かに落ち着いて過ごせるようになってきた。

自我とは、肉体を脱ぐまで付き合っていく大切な親友である。自我からもたらされるあらゆる反応は、突き詰めればすべて愛に基づいている。ハイアーセルフや真我など、高次元意識だから優れているわけではない。優劣は無い。私体験を成立させるために、我という意識を分けている。それぞれに担当領域が違うだけである。

あなたの体験を楽しんで!

大いなる源が私たちに伝えたいのは、シンプルに、この一言であろう。


☆追記

上記投稿後、たまたま視聴した小林正観さんの講演動画に、本日のテーマを掘り下げる内容が話されていて、ビックリした。意図して検索したわけでもないのに、こうやって私に必要な情報が自然な流れでもたらされる。

正観さんのお話のポイントをまとめておく。

• 通常、私たちが使っているのは、能力の15%(思考による顕在意識)。この領域では、努力すること、頑張ること、必死になることで、目標に到達する。つまり、能力の10%しか使えていない人は努力することで、15%までは能力を広げることが可能。頑張ることが必要な段階も確かにある。

• 能力15%からさらに能力(潜在意識の中にある)を引き出すためには、別のアプローチになる。努力しないこと、頑張らないこと、必死にならないこと。「〇〇になったら嬉しいなあ。でも、そうならなくても構わないけどね。」という心持ちでいることがポイントとなる。これで能力65%まで到達する。

この段階に入った人は、自分がやるべきことは向こうからもたらされる(無意識に引き寄せる)ので、人から頼まれたことは判断を入れずにこなしていく。思っていなかったことでも、頼まれれば引き受けるようにすることが大切。

• さらに65%を超えて能力を発揮するためには、「〇〇となりました。ありがとうございます!」と、出来事を完了形に表現して感謝すること。この段階に入ると、例えば旅先で土砂降りになっても、自分の上空だけポカッと晴れたり、虹が出たりする。いわゆる超能力の領域。現実化も速やかになっていく。


という流れになっているそうだ。

正観さんは1年のうち、自宅で過ごせるのは40日程度。残りは全国から呼ばれて講演活動をされていた。どんな無理な日程であっても、飛行機のチケットが取れれば引き受けた。(そして何故かうまくチケットが取れてしまう奇跡ばかり起きる)。無理がたたり、晩年は入院したり、目がよく見えなくなったそうだが、その体験のおかげで、口述筆記により本を作り、1ヶ月に5冊も仕上げてしまったことも。「ほらね、何が幸か不幸かなんて、分からないものでしょ?目がよく見えない方が効率的に本が作れるようになったんですよ。これに気づかせてもらえたのも入院のおかげです。」と、語っておられた。普通に考えれば不幸に分類される出来事も、正観さんレベルになると、すべて意味がありラッキーな出来事になっていく。

そんな正観さんでも、年に数時間だけ、上述15%の脳力の領域に戻ってしまう。人は、上述3つの領域を行きつ戻りするそうだ。正観さんによると、たまに講演に関して人からお叱りを受けて、悲しくなってしまうこともある。ただし、落ち込むのは10分程度にしている。そのお叱りに対する気持ちを感謝に変える訓練をしているため、また心地よさに戻るそうだ。

ちなみに講演中の正観さんの脳波は、シータ波(少しアルファ波あり)で、顕在意識を使う時に出るベータ波は検出されなかった。つまり、講演中、正観さんの脳は、眠っている!そのせいなのか、講演後は快眠したかのように元気いっぱいになっていて、やたらお腹が空くのだとか。

これらの話から、いろんな謎が解けた気がする。

私たち昭和世代が、努力&頑張り&必死 を奨励されたのも、魂の学びの観点から眺めれば順番として必要だったのだ。土台の15%まで行き着かないのに、努力しない姿勢に終始すれば、それは単なる怠け?(もちろん、魂の選択なので、怠け人生でもOK。)

魂の学びの段階に応じて、「頑張れ!」が必要な人もいるし、「頑張るな。考えるな。」というアドバイスが適する人もいる。昔は一律頑張れ!で良かったけれど、時代の流れは変化している。今世、自分で決めてきたブループリントに沿って、必要な気付きを得るタイミングに差し掛かった人は、正観さんの本や動画に出会わされるのだろう。

正観さんは、「別に私はあなた方に、変わりなさいと言っているわけではないですからね。変わろうが変わるまいが、どっちだっていいんですよ。ただ、私の話を聴いて、生き方を変える人がいたら嬉しいなあ~。とは思いますがね。」と、あくまで、相手を尊重する。この心持ちが、脳波シータ波を優位にする秘訣なのだろう。そして、その場にシータ波を発する人が一人いるだけで、居合わせた人々も同調し、癒やしや気付きが起こりやすくなる。シータ波になると、人は深い意識(宇宙叡智)に繋がりやすくなるようだ。

正観さんの話から、催眠療法との共通点を見い出せたように思う。

私が思考をメチャクチャ使い、催眠についての知識や技術を学んだのは、努力&頑張り&必死の姿勢がなければベースの15%まで到達出来なかったからなのだ。そして、行き詰まったのは、次なる段階16%を超えた領域へ誘われたからなのだ。これ以降は、潜在意識にアクセスして能力を引き出していくやり方に変えることになる。脳波で言えばアルファ波&シータ波。15%の領域のみで格闘していた時とは、真逆な姿勢に転換するため、先生のアドバイスに違和感を感じたり、どっちなんだ?と戸惑ったりしたわけだが、なんのことはない、それで良かったんだ。次なる段階に入っていたからこそ起きた現実化だったのだ。

あ〜…腑に落ちた。スッキリした。

正観さん、ありがとうございました。


コメント

このブログの人気の投稿

ヘミシンク体験~炎のビジョン

ジオバランサー(波動調整装置)体験記①

誕生日宇宙会議