命の音は宇宙の音
天河大辨財天社名誉宮司 柿坂神酒之祐氏とサウンドアーティスト 岡野弘幹氏の対談を読ませていただいた。
宮司によると、言葉の語源は言の葉。日本の和歌のように自然体にウェーブで入ってくるような波動。それが言葉の初め。赤ちゃんの産声。それは命の音。祝詞もそう。神道は神の道、神の命のこと。頭の知識ではなく、それを感じられるようになり、真の祝詞が上げられる。音楽家もそうだ。と仰っている。
岡野氏は、山で駆除された鹿の皮を使い、メディスンドラムを百台以上作った。ドラムを叩くことで、動物たちの御魂が蘇る。魂を復活させる。太鼓を叩く時は、亡くなった鹿と一緒にいる。御魂そのものの響きに山が喜ぶのが分かる。笛を吹く時は、一本一本の木の人生を感じる。すべての記憶が樹木にあり、それが楽器に籠もる。息を入れることで、新たな風になる。
振動や色合いは響き。森羅万象の響きとの調和、共鳴、それが御神事。一体化するために音が重要な役割を果たす。私たちは、森羅万象の一部であるのだと語られている。
岡野氏は、昔、どうしたら上手く演奏できるか、人に喜んでもらえるか考えながらやっていた。そうすると素直な音が出なかった。
ただ、マインドを真っ白にし、その場のエネルギーに同調する。太古からの人々の祈りの場に自分がいさせてもらえることに感謝しながら、時空を超えた祈りの中に溶け込んで、音を響かせてもらう境地で演奏すると、聖なる音の表現となる。
場の共鳴。波動を感じ、そこから素直に出てくる言葉や音を神様に伝えるようにすることが、全体を平らかにするようだ。音の一つひとつが神の命。その音の中に意識まるごと入っていく。音そのものになる。時間を超越し永遠を感じていく。自然界の音は、在るように在って、在るように響いているので、そこに同調していく。
(雑誌『anemone』2023年7月号より一部を抜粋要約)
☆天河大辨財天社の思い出
十八年前、こちらの七夕御神事にお手伝い参加したことがある。三泊くらいで、神社の目の前の民宿に泊まり、白作務衣を着て、境内の掃除、御神事受付、灯籠流しの後の片付けまで従事した。
今、You Tubeで、岡野氏の音霊奉納の動画を視聴していて、懐かしさに胸がいっぱいになっている。
岡野氏が奉納演奏している舞台は、神殿の目の前にあり、私は十八年前の数時間、この舞台を拭き清めていた。夜が更けてからは、満点の星空にかかる天の川を、車道に大の字になって横たわり見上げた。また、人払いされた夜の神殿で、この旅で知りあったばかりの女性と、互いの人生について語り合った。どのひとときにも、神の柔らかな存在を、心の深い部分に感じていた。今思えば、私の中にある神性が、場のエネルギーに共振し、際立って感じられていたのではないかと思う。あれから天川村を訪れたことは無いが、不思議な三日間だった。人生の羅針盤を、精神性の豊かさへと定める大きな転機になったように思う。
☆催眠誘導の声との共通点
この記事を読んで、先日の催眠療法セミナーで明らかになった、私の声の課題について、ヒントが散りばめられているように感じられた。
私は、上手くやらねば、クライアントの役に立たねば、たくさんの気づきを与えなければ、満足させねば、と、ネバネバに縛られて、顕在意識優位となり、それが誘導する声に表れていた。私のネバネバエネルギーは、クライアントの自由なイメージの流れを邪魔することにしかならなかった。
意識していなかったが、講師は、私が途中からクライアントの潜在意識につながり、声が変わったと教えてくれた。どうやら、無意識に素直で自然で平らかな音声に変化したようであり、そうなることで、セッションの流れのぎこちなさがスムーズになったようだ。
講師は、ネバネバの原因は、私の持って生まれた性質にあるのではと指摘した。とにかく、丁寧すぎる。何でも自分でやろうとせずに、もっとクライアントに委ねなさいとアドバイスをくださった。クライアントを信じて、ただ、ついていけばよいのだと。
そのためには、やはり、自分で自分を信じることから始めなければならないのだろう。私は、自分を信じていないから、テクニックに縋ろうとばかりしていた。取り繕ろうとしても、土台がグラグラなのは、いずれ露呈してしまう。潜在意識に入ると、クライアントは敏感に本質をキャッチする。私の内面など、バレバレなのだ。セラピストがいかに、自分の内面を真っ先に浄化しておく必要があるか。セッションごとに、日増しに痛感させられた。
今年に入ってから、有料セッションをストップしたのも、一因はここにある。今は、自分の内面とひたすら向き合うために、催眠療法を学んでいる。
この記事を読ませていただいて、祝詞、音楽のみならず、催眠誘導の声にも、共通点があるように感じた。
前提として、あらゆる存在には、宇宙源の大いなるエネルギーが宿っており、私の命は神の命と表現できる。目の前の人物にも、日々の糧にも、森や海にも、雨や風にも、等しく神が宿っているという感覚が大切になると思う。自分という神も、目の前の存在の内に宿る神も、尊重する心を大切にする。私たちは、同じ源から創造されている。
一吹きの風に、一滴の雨に、すべての営みと循環に、神の働きを感じて、感謝の気持ちでハートを震わせる。魂と魂とを共振させる。
分離や境界が消える時、意識は間(あわい)を漂う。0でも1でもないグラデーションの世界。そこは、平らかな調和のエネルギーに満ちている。
その意識に戻り、命の振動のままに声を発するなら、真の誘導音声が出せるような気がしている。
☆観音の話
小林正観さんのお話より
1分で説明する観音経
観音様は三十三の姿に化身する
観音様は時々、楽しむために娑婆に降りてくる
里で、夢中になって毬をついて遊んでいる子どもたちは、観音様かもしれない
その子どもたちの遊んでいる姿を見て、自分も楽しく幸せな気持ちになる人は観音様かもしれない
その子どもたちを見て幸せを感じている人はあなたであり、あなたは観音様かもしれない
あなたは観音様かもしれないではなく、あなたは観音様なのです。
と、お釈迦様は言い切った。そんな内容だそうだ。
生きるのに、頑張らなくちゃとか、努力とかはいらない。楽しめばよい。人生において背負う荷物一つひとつを、楽しめばよいのだと。
眉間に皺を寄せて、何とかしようと頑張って格闘して、80歳になってようやく、人生楽しめば良かったと悔やむよりも、努力も頑張りも捨てて、子どもが毬をつくように、楽しめばよいのだと。
楽しむために娑婆に降りてきたあなたは、観音様なのだと。
そんな話を、先ほど何気なく聴いた。
上手くやろう、努力しなきゃ、しっかりやらなきゃと、私が私がと、肩に力を入れていたから、本来の音を出せなかった。課題に被る内容だと思った。
子どもが遊んでいる時のように、楽しいな~幸せだなあ~と、日が暮れるのも忘れて没頭する時、私という意識も時間も消えている。すべてに溶け込み、一体となっている。本質に戻っている。
それが、観音の状態。
音を観るとは、命の音、宇宙の音、源の振動と響きあうこと。
観音様は楽しんでいる。
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