私が創った現実
現実が目の前に展開された時、
今までは、自動操縦の感情の嵐に翻弄されていた。海に例えれば、水面の波の部分だけを味わっていた。嵐の影響をもろに受けて、ザブンザブンと波打った。この波が生じる原因は、外からの作用であり、私は嵐に上下左右に翻弄されるしかない、無力な存在なのだと思い込んでいた。私は海の表面に生じる波そのものであり、穏やかな凪も、白波立つ大波も、外からもたらされる天候に左右されていた。
催眠療法を学び始めて、一年半。現実は自分で創っていることを実感し始めている。
また、海に例えてみる。嵐がやってくる。その風のあおりを受けて、水面は自動的に波立つ(自我の働きのこと)。ここまでは同じ。
実は、この波を大波にするのか、小波にするのかを自ら選択することが出来る。今までは波そのものになっていた自分の意識を、波を俯瞰する位置に上げてみる。上空から嵐の様子や波立つ様子を観察する。波自体をまるで自然現象を眺めるように味わってみる。「私は〇〇と感じているんだね。」と言葉にする。波が生じたこと(自我による感情の顕れ)も含め、受け入れる。
そして、意識を海の底(潜在意識)の方へ誘っていく。波立つ水面の下は、深く沈めば沈むほど、静かで穏やかな領域となっている。外(現実)の喧騒がだんだん小さくなっていく。この静寂な領域が本質の自分の意識感覚である。人の意識構造は全員このようになっている。変性意識状態となり脳波をスローアルファ波かシータ波にしていけば、穏やかにリラックスすることができる。あまり細かいことを気にせずに、ただ深い呼吸を繰り返すだけでもよい。そして、出来ればイメージの力を使うとさらにリラックスしやすくなるだろう。
ハートを意識する。そこには宇宙源のエネルギーである愛の泉が湧きだしている。ハートを意識しながら、また、水面に戻ってみる。さあ、波はどうなっているだろう?そして嵐はどう変化するのだろう。
嵐や波の様子が変わってもいいし、変わらなくてもいい。その嵐(現実)を通して、その波(感情)を体験するために、私たちは純粋な光である魂にわざわざ自我という鎧を被せて学んでいるのだから。「ああ、私はこれを体験したかったんだね。」と嵐も波も受け入れる。そこから気付きが起きるかもしれないし、起きないかもしれないが、それ自体が貴重な体験なのだ。それでいい。私は私の体験を大切に味わえばいいのだ。
もし、何らかの気付きが起きて、過去に何度も同じパターンで嵐を起こし、波に翻弄されていたと思い至ったとする。「あ~。同じパターンに陥っているなあ。」という思いが湧き上がってきたなら、そのパターン(信念)をそろそろ手放してもいいんじゃない?という自分自身からの合図である。
自我の鎧をそろそろ脱いで、本質の自分として生きていくという人生コースに誘われているわけである。鎧を着る体験は、純粋な愛の光である魂にとっては絶好の学びであり、遊びであるから、楽しいのだ。もっと遊んでいてもいいし、脱いでもいい。私の魂の選択であるから、誰かと比較する必要もない。早いも遅いも無いし、優劣もない。全ては魂の自由意思による。今目の前に起きている現実も、味わっている感情も、魂にとっては、「素晴らしい体験」であり、「楽しい」のであり、その選択はベストなのである。
魂の感じる喜びは、自我の喜びとは全く異なっている。自我の喜びは物質次元において、欠乏を満たした時に、その瞬間だけ得られる刹那的なものである。永遠に満たされることのない飢えのような感覚である。欲に付随しているので、いつまでも満足することはない。
魂は、宇宙源から意識を分離したエネルギーであるから、そもそも完璧で至高の愛そのものである。全てに満たされた中に存在していると、完璧も愛も穏やかな心地よさも分からないのである。比較するものが無いと、自分が分からない。だから、わざわざ、二極という正反対の状態を創造して、両方(陰陽)を丹念に味わって、真ん中(中庸)に戻るという幻想ドラマを演じているわけである。だから、魂は、海の例えで言うと、嵐も波も大歓迎なのである。
この幻想ドラマの背後に存在する魂意識(本質)を何となく意識してみてほしい。魂は、今、ここで、喜びの振動をしている。私の本質を追求していけば、最後に残るのは、振動するエネルギーだ。全てにつながった「ひとつ」である。
前置きが長くなった。私が催眠療法により、何度も潜在意識下で、深い領域から得たイメージを言葉に置き換えてみた。文章が未熟であり、伝わりにくいところもあるかと思う。以下、私の体験談で補いたい。何となく伝わればいいなと思う。
現実を創造していると実感した昨日の出来事を二つ紹介したい。
☆認知症の父の施設行き
入院していた高齢の父が、自宅に戻って一か月ほど経過していた。父の認知症が進行し、トイレも食事も、母の手に負えなくなってきた。自宅で父を看取りたい母は、散々悩んだ末、共倒れになって周りに迷惑をかけるよりは父を施設に入れた方がいいだろうと決断した。ケアマネージャーさんが勧めてくれた施設に一旦は決まりかけたのだが、母の気持ちがまた揺れ動いていた。その施設を断りたいと言い出したのだ。介護する母の体調、父の状態の悪化、高額の入所費による姉と私の金銭的負担増、等等、現実は重くのしかかってきた。
昨日の私は、嵐「父の施設行き」に翻弄される感情の波を丹念に観察した。
焦り、怒り、悲しみ、無力感、後悔、恐れ・・・あらゆるネガティブな感情が渦巻いていた。その重いエネルギーは、いつの間にか、「未来にこうなったらどうしよう?」と、まだ起きてもいない最悪の現実をリアルに想像して、まるでそれが実際に起きたかのように、更に感情を波立たせていった。まるで脳内に発作が起きたかのように、芋づる式にネガティブな流れに次々のまれていく。
その波の一つ一つを、敢えて、「ほほう~。こういう波も起きるんだなあ。」と意識を切り離して感じてみた。波に同化しているとすごく苦しいのだが、客観視する視点に浮上して味わうと、語弊があるかもしれないのだが・・・・確かに面白い。「へええ~。」という、観察者の好奇心のような、微かなワクワクすら感じる。ぜひ、みなさんもやってみてほしい。どんな渦中にいても、奥深くの意識は喜びの振動を放っている。自我の感じる「楽しい」とは、まったく次元の異なる「楽しい」なのだが、言葉のチョイスが難しい。「静かで穏やかで満たされた領域にいてワクワクしている」?ううむ。適切な表現が出て来ない。
私は、ハートの中心からあふれ出しているあたたかいエネルギーの泉に意識を向ける。怒りの矛先を向けてしまっていた母に対し、まったく違う捉え方が出来るようになってくる。「こうなったのは、こうに違いない」と勝手に決めつけて、怒りを沸き立たせていたことを反省する。なんて表面的なことで感情を荒げていたのだろう。父と母の深い絆と愛情をしみじみ受け取る。母に対し、「ありがとう」と言う気持ちが自然に湧いてくる。
宇宙の流れを信じることにする。父と母が、笑顔になって幸せに笑っている場面を想像する。全てがベストな方向に流れ、人知を超えた宇宙の采配がなされ、「良かったね~。」と皆で安心して笑っている。その柔らかであたたかいエネルギーをイメージする。私の内側を感謝のエネルギーで満たしていく。(具体的に、こうなって、ああなってと、起こる出来事をイメージしたわけではない。望む結果だけをイメージし、道筋は宇宙を全面的に信頼し委ねた。)
現実化は1~2時間後に起きた。急展開。こういうのをパラレル移行と表現するのだろうか。
たまたま、以下の流れが起きていた。
母が、たまたま以前お世話になったケアマネさんに前日電話をした。その方は「普段はこんなことしないんだけどな・・」と内心不思議がりながらも、自発的にその地域にある特別養護老人ホームへ足を運んでくださっていた。たまたま、一人、部屋の空きが出ていた。そのケアマネさんは、すぐに母に知らせてくれた。前の入所候補だった施設に比べると、建物も新しく、費用も格段に安く、バスで通いやすく、コマゴマした条件も全て母の望む通りの施設だった。(ちなみに、特別養護老人ホームは人気があるので、通常は4~5年待ちとか。)
特別養護老人ホームは、入所が困難なので、私もはなから諦めていた。高齢で認知症で歩行できない父を至急受け入れてくれる施設を探すというミッションを、宇宙は見事に采配してベストな現実へとあれよあれよという間に誘ってくれたのだ。この二日間に起きた流れの分岐点を振り返ってみると、全部「たまたま」「ふと」「なんとなく」「今までこんなことないんだけど偶然」ということばかりが続出していることが分かる。人知を超えた采配を、人は「奇跡」と呼ぶ。実はこの、「奇跡」を創造しているのが私なのである。
その望みがエゴではなく、本質の望みであるなら、本質に戻った意識状態で、味わいたいエネルギーを先取りしてイメージし、その体感をしっかり味わっておく。愛、感謝、安心、笑顔、喜び・・・。私から放たれたそのエネルギーが、現象界を形作り、現実化(幻ドラマ)を起こしてくる。これを引き寄せと呼ぶ人もいるだろう。
☆アルバイト先の新人
昨夜は、図書館のアルバイトに出かけた。5月11日投稿の記事に登場した、まだ見ぬアルバイト仲間と初顔合わせの日である。
私は、「指導したい」信念を手放していた。エゴの求めに応じ、優越感を得たいがために、仕事をちゃんとやらない人物を目の前に出現させようとしていた。そのパターンを繰り返すのは止めようと選択していた。結局は、何か欠けた人物が目の前に現れるのは、自分の中の欠乏を鏡に映しているだけにすぎないという法則に気づいていたからだ。
目の前に現れる人物は、今の私の内面の鏡であるとするなら、その新人は私に何を見せてくれるのだろうか?ワクワクしながら、彼の出現を待った。
真面目な大学生。所作も言葉もとても美しく、穏やかで静かなタイプだった。仕事もとても丁寧で、自ら考えて改善する点を提案できる力も持っていた。それでいて、控えめであり、初対面の私にも、優しい気遣いを示してくれた。そして、あの日、書架整理が全然できていなかったのは、ベテランからの指示がザックリしていて、やり方を知らなかった事が分かった。既に細かい指摘を連ねた私からのメモ内容を、彼は頭に入れており、美しい所作で丁寧な仕事をこなしていた。
なんて、なんて、素敵な青年なのだろう。メッチャ私の好みだ(笑)
短い休憩時間に彼から情報収集したところによると、彼のその落ち着きや、言葉の美しさは、日本の伝統芸能に携わっていることに理由があるようだった。
な・ん・て・素敵!!!
彼との出会いによって、私の世界が開けて行くような清々しさを感じた。そうだ、せっかく東京にいるのだから、今度は、その日本伝統芸能を観に行ってみよう。ああ、人と人はこうやって影響し合って、世界を広げていくのだ。この世はなんて楽しいのだろう。
仕事が終わり、私と彼は、少しだけ一緒に夜道を歩いた。
「今日、一緒に仕事が出来て楽しかったです。またよろしくお願いいたします!」
私は彼に心から感謝の気持ちを伝えた。彼はちょっと驚いたような表情をして、静かにほほ笑んだ。丁寧な所作で美しいお辞儀をして、駅の方向へ去って行った。
この現実が私の内面の鏡であるとするなら。
今の私は、満たされて、静かで、穏やかで、
きっと美しいのだと思った。
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