タイムリープ
映画にタイムリープというジャンルがある。バックトゥーザフューチャーなどは、その代表格だ。人生をより良く変えるために、過去へ戻って、出来事自体を変えてしまう。そして未来へ戻って来る。
素人考えだと、何となく、この作戦は上手く行きそうである。この発想は、「あの時にあの失敗をしなければ。」という後悔にある。あの時に戻り、失敗を回避すれば、未来は幸せになるという考えである。
ところが、そうは問屋が卸さない!
バタフライエフェクトという現象があるように、無関係に思える出来事が、結果に影響を与えていたりする。「この失敗があったから今がある。」とは、有名な成功者がよく語る言葉だ。
結局は、その人生がどうだったかは、総括するまで誰にも分からない。人は肉体を脱ぐ時に、人生を走馬灯のように振り返る。
死に際し、その魂に神様は三つの質問をするらしい。
やりたいことやりましたか?自分を愛しましたか?誰かを愛しましたか?
神様はシンプルに質問してくるだけであり、批判も説教も無い。自分の思いだけが問われる。どの人生も無駄は無い。全てに意味があり、受け入れられている。地獄の閻魔様による裁きなどは無い。
例えば、殺伐とした人生で、誰かを本気で愛する体験が出来なかったとする。本当の愛を知れなかったという後悔が残るかもしれない。その人生だけを見れば失敗かもしれない。しかし、魂は永遠の存在だ。元々は完璧な愛のエネルギーである。本質を一旦忘れてみるという体験を通し、その魂は、学んだ(自分を知った)のである。愛を知らないと人はどうなるかを知れたのである。それがこの魂の学びになり、次なる転生に活かす。失敗など、本来は無いのだ。すべて貴重な体験だ。
数日前に、色鉛筆で美しい絵を描いているイラストレーターの友人がSNSで語っていた。彼女は青い色鉛筆で空を表現しようとしていた。そこに黒色を加えてみたら、空の表現に深みが増したのだと言う。黒単体では、使い難い色だが、青だけでは、やはり表現に幅が出ない。作品に黒を混ぜることが大切であるように、人生に闇は大切なのかもしれないと。確かに味わい深い美とは、一見、排除されがちな、無駄?と思える要素が、意外と功を奏していたりする。成功には遊びが必要とも、よく言われる。
昨日は『痛くない死に方』という終末期在宅医療を描いた映画を観た。主人公の医者は、始めの頃は、サイボーグみたいに人間味の無いキャラだった。それが、とある判断ミスにより、大きな後悔を抱えてしまう。患者を不要に苦しめて死なせてしまったのだ。彼は遺族に涙を流して謝罪する。二年後、彼はその大失敗を糧にして、痛くない(苦しまない)在宅医療を実践する医者に成長する。終末期の患者と川柳を捻り出したり、酒を酌み交わしたり、患者の臨終に際し「あなたから沢山学ばせてもらった。ありがとう。あなたと過ごした一ヶ月は、とても楽しかった。○○さん、カッコいいよ。」と声をかける。そんな、血の通うような自然体の医師に成長していた。肩に力の入らない、すべてを受け入れる器を手に入れたのだろう。そう、彼は丸くなったのだ。私も、こんな医師に出合いたいものだと思った。
もし、タイムリープできたとして、彼は過去に戻り、あの失敗を無かったことにしたいだろうか?その場面だけを切り取れば、大失敗であるが、人生の全体を俯瞰すれば、必要不可欠な失敗だったことは明らかだ。人は渦中に居る時は、起きていることの意味は分からない。しかし、無駄な経験は無い。それは後からじわじわ分かってくるものなのだ。
なぜ、その時に分からないのか?最初から、こんな失敗をして、このように学び、成長していくのだと分かっていれば、あの時に苦しまずに済むのにと、チラッと思うが、この分からないからこその苦しみが、色鉛筆の黒であろう。人は、思考を使えば、わざわざわざ黒を選択しない。闇の体験は、目に見えない領域からの采配としか思えない。気がつくと、人生の闇が、より全体の深みを増してくれるのである。「分からない」ことが大切なのだ。映画だって、ネタバレされれば、面白くない。分からないから、楽しめる。無意識の領域から、本質の輝きが溢れ出し、肉体を通して表現される時に、人は魂が震える感動を味わうのだろう。一旦すべてを忘れて、一生を通して、本質を思い出していく。その過程を楽しんでいるのが、私たちの正体なのだと思う。
もう一つ例を上げる。
有能な霊能力者の話。彼女は未来を見通す力があった。とある受験生が、相談に訪れた。大学を三つ受験すると。東大、早稲田、慶應を受けるが、どれに合格するのか知りたいのだと。彼女は未来を見て、慶應に合格するが、他の2つは落ちると答える。そして、必ず三つ全部受験してくれと指示する。受験生やその家族は、わざわざ落ちる大学を受験する意味が分からない。結局、慶應のみを受験し、なぜか落ちてしまう。つまり、三つ全部受けるから、慶應が受かるのである。モチベーションとか、勉強量とか、微細な効果が変化してしまい、本来こうなるという可能性のあった未来を変えてしまったのだ。不合格の学校を受験する体験は、一見すると失敗であり、無駄であると切り捨てたくなるが、未来の好ましい結果に密接に影響していることもある。というお話。
起きる出来事は、どんなに好ましくなくとも、必要があって起きているもんだと受け入れた方が人生楽なのかもしれない。渦中に居る時は苦しいので、早くなんとかしたいともがいてしまうものだが、どこかで「この体験は、どんな未来につながるんだろう?」と、ワクワクする心の余裕を持っていると、流れがスムーズになるかもしれない。自分の人生をまるっと信じて受け入れる。
いずれにせよ、肉体脳である自我の働きによる思考では、何も分からない。そういう風になっているのである。どうしても分からないのであるから、だったら、どんな出来事も、自分には必要なことで、素敵な未来に運ばれているのだと、思ったもの勝ちではないだろうか。出来事をどう捉えるかは自由だ。だったら、心地よい方に捉えた方が楽チンだ。
電車に乗ろうとして、目の前でドアが閉まって発車してしまった時、ああ、悔しい。後一歩早ければと、嫌な思いにかられてしまうかもしれないが、今日からは、捉え方を楽しい方に変えてみる。一本遅れたから、偶然、知人と出合うことになり、興味を惹かれる情報をもたらされ、そこに問い合わせたら、やりたいことに繋がり・・・・・・
なんて、奇跡的なドラマが始まるかもしれないのだ。もしかしたら、何事も無く一日が過ぎてしまい、気が付かないけど、一本ずらしたことで命に関わる事故を回避したのかもしれない。
人生の流れを俯瞰して、導いてくれているのは、魂だ。本当の自分、高次元の私、ハイアーセルフ、とも言える。宇宙のことをよく知っている、賢い自分。
その魂から意図を汲み取るには、インスピレーションを使う。魂からの指示は「何となく、こうした方がいい気がする」という、根拠のない、微かな思いとして湧いてくる。
そして、強い思いは、エゴからの声であることが多い。
魂は奥ゆかしく、エゴは、グイグイくる。
直感は自分にしか分からない。顕在意識であらためて吟味すると、無駄に思えてくるような、取るに足らないアイディアが、実は未来を左右する鍵になっていることは、多い。天才は思考を休めてボンヤリしている時に、世紀の発見に繋がる閃きを得ている。
頭で考えて、バカバカしいからと、簡単に切り捨ててきたことを、今日からは、とりあえず実行してみてはいかがだろう?未来は誰にも分からない。だったら、ワクワクと、知らないからこその楽しみを味わおう。
肉体を脱ぐ時に、「あ~楽しかったなあ!」と言って、スッキリ、サッパリ、清々しく、宇宙へ帰りたいものだ。
ちなみに
どんな選択をしようと、結局ゴールは同じ所に行き着くらしい。遠回りするか、近道するかの違いでしかないようだ。必ず宇宙から微調整が入り、魂の設定するゴールへ誘われる。
私たちは、一日35000回も、選択という行為をしている。右か左か。やるかやらないか。その選択に従い、次なるドラマが紡ぎ出されていく。
グズグズしてても、やるべきことには、いろんな奇跡的偶然が重なり、どうしてもやるように道が修正されていく。
何か問題が起きて、回避したとしても、暫く経つと、似たような問題が繰り返される。本人が気付きを得るまで、それは続く。その繰り返すパターンこそが、その魂の課題である。結局は、向き合わされるのだ。今世で解決しなければ、次なる転生に持ち越される。そもそも、自分で設定した課題なのだから、やるっきゃないのだ。
ただ、本質の自分と宇宙を信頼すればいいのだと思う。今、まさに、ベストなことが起きているのだと。
宇宙の仕組みは、どの瞬間も完璧で、最高で、素晴らしい。あなたも、私も、そういう風にできている。
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