カルマ オン カルマ

 カルマについて書いてみたいと思う。

明け方、夢を見た。

こん棒のような、上部が太くなっていて、下のほうは細くなっている、杖のような形状のものが出てくる。材質は、ミイラ化した肉塊のような感じ。ちょっとグロテスクである。長さは、60~70㎝くらいか。下部の細くなっている部分は、ちょうど握ると手のひらと指でぐるりと囲めるような太さだ。その、水分が抜けて、カサカサしてしまった肉体の一部のようなものを、私は、手のひらと指全体で、「隙間なく」密着させて握らなければならない・・・と言っている。そんな夢である。

何だか意味深な夢だな~。と思いながら目が覚めた。

古くなった肉体に執着を持って、手放さないぞ!と一生懸命握りしめているようなイメージだ。握っている時の感覚は、あまりいいものではない。波動は荒く、重いエネルギーだった。見た目もグロテスクで、決して美しくはない。この想念は、魂の成長段階で言えば、地獄と表現できるのかもしれない。

地獄は、悪い事をしたからと、閻魔様に裁かれて、送り込まれる場所なのではない。自らの想念が生み出す世界だ。魂の存在になると、物質次元ではなく、全てはエネルギーで満たされた世界になるので、自身が発する波動エネルギー(想念)が、その魂の居る世界を創る。集合的無意識と言う考えもある。同じ信仰や観念を持った魂が集まり、自分たちが親しめる世界(天国や地獄と言えるようなもの)を共有することもあるようだ。

この夢を見て、ふと思い出したことがある。


まず、Nさんのことを書いてみたい。

地獄とは関係ない。とても爽やかで清らかな気持ちになるお話だ。

Nさんは、高齢の母親を自宅で介護をされていた。母親は、昨年末に天に召された。Nさんは、母親のその後が気になり、霊能力者のリーディングを受けた。

母親の魂の正体は天女だった。逝去後、直ぐ天界へ戻り、一週間後には天界での次の仕事に入られているそうだ。母親の天女魂は、Nさんの傍で生きていきたかった。しかし元々が天女なので、波動が高すぎて、地上で肉体を持って生きることは困難だった。何度となく転生し、幼いNさん(前世での)を残して亡くなるということを繰り返してきたそうだ。そして、何回目のチャレンジだったのだろうか。ようやく今世、90年以上肉体を維持することが叶い、Nさんの愛に見守られながら、満足してこの世を去ったのだった。天女魂の何百年(もしかしたら千年単位かも?)のスパンで魂の望みを叶えたという例である。このような事もあるのだなあと、感動して涙しながらお聴きした。Nさん親子の、時空を超えた深い繋がりを感じさせていただいた。現在、母親の魂は、天界からNさんを見守って、サポートをしてくれているそうだ。

カルマ解消を、未完了の体験(感情)を完了させることと解釈する。

天女だって、魂の成長をさせたいのだ。そのために挑戦したい体験がある。Nさんに執着していたと言うよりも、Nさんと魂的に深いつながりがあったからこそ、Nさんとペアになることで、親子体験を通して、人生を丹念に味わうことを望んだのだろう。そして、見事それを叶えたのだ。母親の魂は、親子の愛をしっかり学んで、魂の輝きに磨きをかけて、故郷に昇っていったのだ。体験こそが故郷への最高の土産である。

天界の存在が地上で重い波動を身に纏い、体を維持するのはとてつもなく苦しいことなのだと聞いたことがある。それでも波動を落としででも地上に転生してくるには訳がある。永遠の光の存在である私たちは、魂と言う、いわゆる乗り物に乗って(個性エネルギーを纏って)光を磨き続けている。至高の愛のエネルギーである源泉(宇宙源。創造主)から分離し、様々な体験を通して成長して波動を高め、やがて源泉へ戻っていく。離れては戻る。この旅を永遠に繰り返している。すべては、「私を知りたい」という源泉意識が原動力となっている。

個性を纏った光は、どんな体験をして学ぶのか、各々が選択をする。大抵は、ソウルグループという仲の良いグループ単位で転生するようだ。体験を学びに昇華させるのは、時に困難であるから、仲間同士協力し合って、役割を分担して体験を成就させる。魂的に仲が良いから、いろんなことを頼みやすいのだ。「悪いけど、今度の人生では、殺される側を体験して学びたいのよ。私を殺してくれる?」「いいよ。嫌な役だけど、君の学びのお役に立つならやってみるよ。」など、そんなやり取りが中間世で行われているわけだ。

だから、今世の現実は、魂の学びの場だと解釈すると、困難ですら、魂としては喜びの体験なのである。自分に嫌なことをしでかしてくる相手は、実は、自分が深い所で、相手にその役割を依頼しているのである。何か出来事が起きて、負の感情が揺さぶられた時は、実は飛躍のチャンスが到来したことに他ならない。魂は、「よっしゃ~!」と腕をまくっているわけである。この体験から、自分は何を学ぶのか?何に気づいていくのか?その視点になって体験や感情をしっかり味わうと、きっと見えてくるものがある。答えは、自分の中に必ずある。

私なりの、カルマの解釈を述べたつもりなのだが、伝わっただろうか。確かに、因果応報なのだが、魂目線で解釈すると、とっても前向きで喜びに満ちた宇宙システムである。


さて、天女様の清らかな天界エネルギーから離れて、自分の家族のことも書いておきたい。

昨日起きた出来事だ。ほやほやで、まだ湯気が立っているような状況だ。

昨日の朝、8時頃、母からラインが入った。父が階段から落ちて、今救急車で搬送中だと。30分かけて、T県では高度医療の大学病院へ向かっているとか。詳しい状況はまったく分からない。実家のある市内や近隣市の主治医のいる病院ではなく、コードブルーの舞台となったあの病院へ搬送されているということは、かなり深刻な事故であったと考えられた。

不思議と、私は冷静だった。なるようにしかならないことを知っている。もし、父の魂が、今世のお別れの手段に、この事故を選択したのなら、父にとってベストな出来事なのである。そして、魂の伴侶として付き添っている母にとっても、この体験を通してでないと学べないことがある。今、彼らの魂は学んでいる。大切な体験をしている。どんな結果も受け入れようと静かに思った。そんな心境を反映していたのだろうか。空は抜けるように澄んでいて、太陽はキラキラとまぶしく、私の目に映る景色はとても美しかった。こんなに世界は穏やかで綺麗なのだから、どんなことが起きても大丈夫だと、根拠は無いのだが、各々の人生を信頼するどっしりとした気持ちになっていた。

出来ることは、自宅で待機し、何か起きたら自分の出来ることをするだけだった。私は、静かな気持ちで母からの連絡を待っていた。

母は、朝から何も食べずに、夕方6時まで病院で待っていた。その間、父は首と腰の骨が折れて、耳が切れていることが判明した。まだ病室は決まらないのだが、入院することになったと。ラインの短いメッセージしか分からないのだが、父は生きているようだ。T県随一の病院に見てもらえるのだから、父は目に見えない世界から多大な守りをいただいているのだなと感じた。父は、もう少し今世の体験を続けたいのだろう。父の魂の望みは何だろう。どんなカルマを解消したいのだろう。

以前、母に聞いたことがあった。何となく、無意識に母は、前世のカルマを語っていたのではないかと感じた。

父の認知症症状で、自宅介護が厳しくなってきていた。母の負担を減らすために、私は老人ホームを探していた。なかなか住み心地良さそうな施設を見つけ、母に見学をすすめたところ、母に泣かれてしまった。「お父さんと離れたくない。最期まで自宅で面倒を見たい。私には実の子どもが居ない。(母は父の再婚相手)。子どもを育てられなかったから、お父さんを最後までお世話したい。そうでなくては、私が生きている意味が無い。」と。

母の心身の疲労が心配ではあったが、その強い意志を踏みにじることは出来ず、それ以来、遠くから見守って来た。この時の心の葛藤は、過去のブログにも記録してあるので詳細は省く。私自身も、父母に何の役にも立てず、助けたくてもどうにもならなくて、苦しくて泣いた。あれから3年近く経過した。今、ようやく各々の魂の学びとして、尊重することを覚えた。相手の貴重な体験を邪魔してはならないのだ。相手が自力で立ち向かう試練は、取り除くことが優しさではない。この見極めが大切だ。私は、父母を通してそのことを学んだ。

あれから、催眠療法を学び、父と母の魂の絆に思いを馳せた。根拠はないのだが、今世は、二人でカルマの解消に励んでいるのかもしれないと思い至ったのだ。例えば、前世で、父が息子で、母はその母親だったことがあるとする。その母親が病気で早くに亡くなり、息子は母の愛を知らずに悲しみを抱えながら一生を終えたとする。息子は「次の人生では、母親の愛を存分に味わって長生きしたい。」母親は「次の人生では、息子を最後まで面倒みて、親子の愛をじっくり味わいたい。」と願ったとする。もし、今世が、互いの願いを叶えるために仕組まれたとするなら、まさにベストな脚本としか言いようがないのである。

二人を引き裂こうとする数々の試練を乗り越え、何度離れ離れになっても、母は、父を自宅に戻すために奔走した。父も、何度も死の危険にさらされながらも、見事に生還してきた。一途に、「お母さんと一緒に過ごしたい。」「お父さんを最後までお世話したい。」互いのその一念である。

さて、昨日の自宅待機中の私の心境に戻る。

もちろん肉体に影響された思考に支配されているから、エゴは出てくる。いろんな思いが湧いてきた。醜い感情、冷たい感情、愛の無い無関心も、心の片隅に去来しては、消えていった。そのエゴに支配されなかったのは、ひとえに催眠療法のおかげである。都度、中心にある真我を意識した。エゴは幻の自分であるから、翻弄されないように、本当の自分である愛の光をイメージするようにした。

母は、空腹を抱えながら、独り10時間近く病院に待機し、タクシーで30分かけて帰宅し、階段下の血だまりを掃除して、翌日病院へ持って行くものをそろえ、ようやく食事を済ませ就寝したようだ。翌日は、姉が仕事を休み母に同伴するという。私の夫が車の送り迎えを申し出てくれたが、私の通院もあるため母は気を使ったのだろう。

「何かの時にお願いします。みんながいるので力強いです。嬉しいです。皆が精一杯頑張っていますね。昨日はお父さんの父親の命日でした。又守られました。ありがたいです。」と返事をくれた。

夫の思いやりも有難かった。

父が階段から落ちてしまったことについて、母は、自分が傍にいなかったからいけないのだと責任を感じて落ち込んでいた様子だが、私に出来ることは、母に言葉を送る事だけだった。誰も悪くなんかないのだと。私は短いメッセージに母への感謝のエネルギーを込めて送った。今朝の母からのラインでも、健やかで前向きなエネルギーを感じるので、母は強し!過去には、いろんなことがあったけど、母を尊敬する気持ちがまた一段高まった。

私が発するエネルギーが、現実をどんどん変えていく。そんな気もした。目に見えないスピードで、タイムラインをどんどん移行している感覚だ。もし、私が昼間感じていた泥々波動のエゴから抜けられずにいたら、母の心境も自己批判の重いエネルギーから抜けていないだろう。今、現実は、感謝の気持ちに満たされて精一杯出来ることに取り組む美しい母を映し出している。

そして、今朝の夢である。

肉体に魅せられたエゴの夢かな?とも思うのだが。そのまま解釈すれば、古びた肉体に執着する心をそのまま見せられたようにも感じる。う~ん。「そろそろ満足してもいいんじゃない?もう充分体験して学んだはずだよね。魂は、次のステージで新しい学びをしたがっているんじゃない?」というメッセージにも捉えられた。これは、病室で横になっている父の中での葛藤なのだろうか。う~ん。

今朝、FBを眺めていて、ふとヒントになりそうな投稿があったので、下に紹介しておく。宮崎ますみさんの、昨日の投稿である。

「横になりながら、1メートル上から自分の肉体を眺めていた。

完璧に設計された人体。その創造の妙に改めて感心しながら、

 初めて、肉体を「いれもの」としてリアルに感じた。

 意識は肉体がなければ、この地上で形を作れない。

肉体は意識が入らなければ、ただの肉の塊だ。

 魂のいれもの。

この地球に居るためのお社。

 天と地を結ぶ命

 この肉体の中に居る間に、あなたは何をする?」

~以上宮崎ますみさんの投稿より~


父の魂を思う。

きっと、父の魂は最愛の母の魂と肉体を通して体験する様々が嬉しくて楽しくてしかたないのだろう。もっともっと一緒に居たいと、魂の入れものを手放せないのかもしれない。それだけ、父は幸せなのだろう。今回の命拾いも祖父の助けだとするなら、父はもう少し、ここで学ぶことが残されているのかもしれない。何度壊れかけても、父の体験を実現するために耐用年数を大幅に伸ばして頑張ってくれている肉体さんの健気さに、心打たれるのだった。

まっすぐだな。

父の魂のエネルギーを感じて、今朝はそんなことを思った。


☆メダイを使ったアクセサリー作り

マリア様の他にも、あらゆる聖人のメダイがある。私の好きな聖人を選んで、色と石のエネルギーでビーズをつないでみた。

(そう言えば、母はマリア様が好きだったな。母子像の美しい絵を壁に飾っていた。あれも、前世の息子を思う記憶の表れだったのかもしれない。マリア様が、母を見守ってくださいますように。)




ルルドの泉の聖ベルナデッタ




アッシジの聖フランチェスコ



そして·····
あまりの難しさに、途中で作るのを諦めたダルマさんの頭。


ダルマさんの帽子にするしか、使い途がない·····


ダルマ  オン  ダルマ

ん?

カルマ  オン  カルマ?

深いな~



この投稿の翌朝、あたたかいメッセージを送ってくださった友人へメールを打っていて、カルマ オン カルマ  の意味が自分の内側から浮かび上がってきた。

カルマ  オン  カルマ

昨日、言葉遊びみたいに、ふと無意識からもたらされた、私の造語である。意味不明だけど、何となく分かる~。と思って念のため投稿に付け加えておいた。

カルマの上にカルマを重ねる。被せる。カルマにカルマの帽子をのせるみたいな。

前世で未完了の体験を今世で完了させるために、私たちはそれをカルマと表現し、現実という幻を引き寄せて味わっている。

カルマ  オン  カルマとは、カルマの相乗効果のこと

ご縁により結ばされた複数の魂は、誰かのカルマに便乗して、自分のカルマも浄化する。

今回の私の場合は、父の事故体験を利用し、その現実を見せられることで、自分の内側の不要な重いエネルギーを認識し、浮かび上がらせ、光に変換していく。

父のカルマ(母親からの愛情を心底味わうという魂の課題)と、母のカルマ(息子を最期までお世話するという課題)は、二人の魂が出会い今世は夫婦として共にドラマを演じることで、体験が叶い、必要な学びが実現する。

そこに、ドラマでは娘を演じる私の魂が絡んで、学びの相乗効果が起きていく。私のカルマ(親からの自立、人を許すこと、無条件の愛を知るという課題)は、父母役の二人のドラマを観賞させてもらい、時には参加させてもらいながら、共に影響し、魂を磨く。重いエネルギーを光に昇華していく。

言葉で説明すると、ややこしい。


潜在意識からもたらされたメッセージ

カルマ オン カルマ

なるほどなあ~。スッキリした。

世の中、カルマ オン カルマ オン  カルマ···

カルマのミルフィーユ?!

複雑そうだが、意外と単純かもしれない。

潜在意識で繋がると、誰か一人の課題解消は、同席していた全員の浄化に繋がることが多い。催眠セッションをやっていると、良く分かる。私たちは、みんな深いところで繋がっている。

ひとつ解消すれば、芋づる式にスルスル解決していくのが、潜在意識の世界だ。深いところに居る真我は、

元はひとつなんだ。


☆さらなる追記

この投稿の10日後。

友から電話をいただいた。

実は、この友はイタリア語の歌を歌っており、歌詞に「カルマ カルマ」とあるのを見た。その直後、私のblog「カルマ オン カルマ」というタイトルを見ることになり、不思議なシンクロに驚かされたとか。

この友とは、過去にも同じようなタイミングで、プチシンクロが起きてきたので、きっと潜在意識でつながり合っているのかも?と嬉しく思う。

イタリア語のその歌詞(calmo)は、「静かに、静かに。」という訳なのだそうだ。

英語の「静か」もcalm(カーム)なので、語源は同じかもしれない。

私はダルマからカルマを連想し、友は、静かにという外国語からカルマを連想した。

ちなみに、ダルマ=達磨さんについて、ネットで調べると

「僧侶である達磨の名前の由来は、教えや法を意味するサンスクリット語の[dharma(ダルマ)]からきています。」とある。真理を表すとも。

呼吸を意識し、潜在意識優位になると自我の声は静まっていく。心の中の静かで穏やかな領域の真なる我に気がついていく。それはまさに、ダルマの世界。そこで得る法則のひとつが、輪廻転生であり、カルマの仕組みでもある。

音が似ているという、単なる偶然なのだが、音は宇宙音から来ているとするなら、バラバラに解釈していたものが、ひとつに集約されていくのも理解できるように思う。

これをカタカムナで解釈したら、また、面白いことになりそうだ。

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